【第2章・新たな出逢い】
そんな日々を送っていた頃だった。客に暴力を働かれたある日、私は衝動的に自死をしようとした。酔った客に耳飾りを引っ張られて、両耳が裂けて激しく出血していたのだ。
娼宿の周りは、娼婦の脱走を防ぐために、四方をぐるりと人工の運河で囲んでいる。私はそこに身を投げようとしたのだ。しかし、川に身投げしようとしたその時、守衛に見つかった。守衛は、私が川を渡って脱走を目論んでいると勘違いしたのだ。なぜだろうか、私はこうして、いつも勘違いをされる。
その時、偶然にも"彼"が通りがかった。彼は、娼宿に商人として出入りしている、数少ない外の世界の男性のひとりだった。彼は、都に認められた、異国の商人だった。
「私がこの女性のひと晩をお金を出して買いますから、どうかこの子を見逃してやってくれませんか?」彼はその守衛に、それなりの口止め料を払った。まだ見習い商人だった彼は、残りの有り金を、全てはたいて、私をひと晩買ってくれた。
しかし、その日彼が私に手を出すことはなかった。ただ、私の知らない異国の楽しい話をひと晩中聴かせてくれた。私が疲れると、異国の子守唄を歌って、寝かしつけてくれた。その晩は、彼は私の身体に触れることはいちどもなかった。
しかし、私達が惹かれ合うのは時間の問題だった。私達が男女の中になるまで、さほどの時間はかからなかった。
けれども、私達は、月に一度しか会うことができなかった。娼宿の中で暮らす女性達の一部は、外の世界に住む恋人と密かに自由恋愛をしていたが、彼女達に対する風あたりは厳しかった。「外の世界の男と逃亡したら大変だ。」というのがその理由だ。娼宿を経営する人間達にとっては、娼婦はお金を稼ぐ大切な商品だ。逃げられては大変な損失になる。
そうは言っても、想い合う男女の仲は、そう簡単に切れるものではない。だから娼宿の楼主(娼宿の中でいちばん偉い人)は、彼女達に"口止め料"として大金を払うことを引き換えに、外の男性を月にいちど娼宿に招くことを許した。
彼女達は世間の一般社会で生きる人々とは比べものにならないほど大金を、自分の心や身体を削って稼いでいる。しかし、そんな彼女達にとっても"口止め料"はかなりの大金だった。
「それならば、月にいちど会うのは我慢して、とっとと金を貯めて娼宿を出ればいいじゃないか」と思う人もいるかもしれない。しかし、伝染病が流行っていたこの時代、夜な夜な幾多もの客を相手にしている彼女達は、いつ流行病に感染して亡くなってもおかしくなかった。それを彼女達自身も知っていた。共に働いていたはずの女性達が、次々と死んでいった。みな「次は私の番かもしれない」という恐怖が、常に心の中にあった。だからこそ、月に一度でも大切な人と会いたかった。日々を後悔のない様に生きていたのだ。
それに娼宿の中では、何もかもが法外に高かった。日々の衣装代に、お化粧代、髪結いの職人に払う給料に生活費、そして運悪く客の子を孕ってしまったり、病気にかかってしまった時には医者を呼んだり、薬を取り寄せるのにもたくさんのお金が必要だった。働けど働けど...大金を稼いでも、お金を貯めるのは難しいことだった。たとえ売れっ子であろうとも、借金を減らすことだけでせいいっぱいだった。
彼と肌を重ね合ったあと、私はいつも「私の服はどこ?」「髪留めはどこにあるの?」と彼を質問責めにしては困らせてしまう。しかしそれは、泣きたいほどの嬉しさを隠すための方便だった。私はプライドが高い照れ性なのだ。
彼は、そんな私の心を見透かしたかの様に、私がワガママを言うほど嬉しそうにする。そして、私が眠りに落ちるまで、乱れた私の髪を綺麗に結い直したり、私の身体を柔らかな毛布で包んで温めながら、優しい声で異国の物語を聴かせてくれる。そして私の目が覚めると「君のために、中東から取り寄せた、珍しい果物のケーキを持ってきたよ。いっしょにお茶でもどう?」と、温かな紅茶を淹れてくれる。
行為を終えた後に、まるで「己の獣欲さえ満たせれば満足」と言うかの様に、急に冷めた様子で金を叩きつける様に置いて、そそくさと帰る客達とは大違いだ。あの人達は、自分に股を開いてくれるなら女なら誰でもいい。たとえ木の棒でも「かわいい」らしい、ろくでもない人間達だ。
そんな私の客達は、度々私のことを「かわいい」だとか「声が綺麗」だと言うけれど彼はいちどもそんなことをいちども口に出したことはない。けれども、彼の私を見る眼差しは、常に優しかった。
"魔性の踊り子"そして"好色狂わせ"(数々の男性達を狂わせること)と呼ばれている私は、普段は客の前で舞や歌を披露しては、高値の娼婦を演じているのに、彼の前では、ただの一途な女の子になってしまう。
愛の営みは、ささやかなところに幸せがある。慣れきった男女の関係の中にこそ、礼儀と品格ってモノがきっと必要...小さな貢献と奉仕を、お互いが与えられる。
それは、たとえば「ありがとう」や「ごめんね」を伝えることをだったり、彼(彼女)が寝ている間に部屋の散らかりを片付けてあげることだったり、食卓を共にした時、彼(彼女)のお皿に美味しい部分を無意識によそってあげたり、肌を重ねる前に、身体を綺麗に清めていい香りにすることだったり...ひとつひとつはとても小さなことなのだけれど。
そして、そんな相手からの小さなひとつひとつの寵愛に、いかに喜ぶことができるか。甘えたがり、愛されたがりの受け身の人は、この喜びを知らない。相手の献身にも気が付かずに「私は不幸だ、もっともっと」と相手に要求する。
尽くし尽くされるの塩梅が崩れた男女の仲っていうのは、搾取と搾取される側の不幸な関係になってしまうというのにね...。
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