第11話
(嘘だろ!?)
自分の死をラクスは初めて意識した。全身に走る恐怖によって、考える前に本能が生きるための選択をさせる。
「
「!」
ビクッ、とバルヴァラの体が震え、ラクスの顔面に届く直前で拳が止まった。固く握られていた指先が震え、微かに開く。
しかしすぐ様バルヴァラは唇を強く噛み締め、とろけかけた瞳に生気を取り戻す。
「甘い! 我がそのような――むっ」
バルヴァラが思う以上に、ラクスは彼女を恐れていた。
だからためらわず、叫んで開かれたバルヴァラの唇に食いつく。舌先に感じる、バルヴァラが唇を噛み切って流れた血の味の不快さなど、まったく意識に上らないぐらい必死だった。
自分の纏う魅惑の魔力を含んだ香りを強く意識し、発散する。同時にバルヴァラの口腔内に直接自分の体液を注ぎ、魔力ごと飲み込ませた。当然声は使えないが、合わせた瞳は逸らさずに、そちらでバルヴァラの意識を絡め取っていく。
「ん……」
トロリ、とバルヴァラの瞳が恍惚に濁る。
(頼む、堕ちろ!)
バルヴァラの拳を開かせ、指を絡めて握った。バルヴァラはラクスの求めを素直に受け入れる。
「ふ、ぁ」
「バルヴァラ」
「ぁ……っ」
息継ぎついでに一度解放し、名前を呼ぶ。吐息とともに上がったバルヴァラの声は、甘い熱に酔った女のものだった。
再度口付けたラクスに、目を閉じてされるがままに任せる。
だが次の瞬間、バルヴァラの恍惚とした気配が一変する。かっと目を開いたときには、しっかりと生気を取り戻していた。
(しまった!)
バルヴァラが目を閉じたのはただの流れだ。意識して、ラクスから逃れようとしてやったことではないのだろう。できる状態でもなかったはず。
しかしそれは結果として、ラクスの魔法の一つを遮断する行為に違いなかった。
絡められた手に力が入る。
(潰される!)
ラクスの顔から血の気が引く。だがバルヴァラは少し力を入れただけで、ラクスの手が砕けるほどの力は加えなかった。
「ふ、はっ」
そして完全に魅了の解けた、彼女らしいぞんざいな仕草で顔を上げ唇を離し。
「貴様の魔力は甘くて美味いな。中毒性がありそうだ。危ない」
「……あるぞ。淫魔だからな。俺」
弱い相手ならば一度味わうだけで離れられなくなる、強力な習慣性と中毒性の両方がある。
「そうか」
「!?」
にやりと笑ったかと思うと、今度はバルヴァラの方から口付けてきた。甘美な毒だと、今は理性で分かっているだろうに。一体どういうつもりなのか。
どうするべきかラクスが戸惑っているうちに、再びぱっと唇を離す。
「だが我は好きだ。貴様は美味い。全身味わいたいぐらいだ」
「ちょっ……」
ぎらつく瞳は、飢えた獣が思いがけず好物を目にしたかのような猛りを感じさせた。そこに宿る欲は食欲であり、色欲だ。
ラクスは上級淫魔なので基本は『食べる』方だが、下級淫魔は『食べられる』方で人気が高い。見目麗しく――そしてバルヴァラの言う通り、魅惑の魔力は美味しいからだ。それ自体が武器なのだから当然だが。
魔族の世界は弱肉強食。強者であっても、より強い者からは搾取される側になる。
「待て、俺は美味くない!」
「今更それが通じると思うのか。そういえば、まだ名を聞いていなかった」
「……ラクス=シュテーゼ=ミリアン・アスガフトスだ」
「あぁ、成程」
ラクスの名乗りに、バルヴァラは納得してうなずいた。
「我が見たところお前は決して弱くないが、戦い慣れをしていない」
「……そうかもな」
今まではずっとエリシアと一緒だったのだ。ラクスは防御だけをしていればよかったし、エリシアからの援護も期待できた。
今はそれがない。一人で戦うということを思い知らされた。
(こんなあっさりと、俺は終わるのか)
このまま食事として頭からバリバリいかれるにせよ、バルヴァラに囲われるにせよ、終わりであることに違いはない。
「まだ大分、成長の余地もある。うん」
「……」
「今は、食べずにおこう」
「……それは、アレか。肥えさせて、より美味くなってから食うっていう……」
「まあ、そうだ。我の好みに味付けもできる」
あっさり認めた。
「それとも、今食われたいか? 今でもお前は十分美味い。指一本ずつ、味わいながら食べてもいい。末端部分だけで我慢して必要分を残しておけば、男としてのお前も味わうことはできるだろうしな?」
「後がいいです!」
肉体的苦痛に弱いラクスは、あっさりと降参した。
男女間で求められるそちらの役割の方はともかくだが、指を一本ずつ食べられていく瞬間を想像して、ぞっと背筋が寒くなる。
バルヴァラの目が検分するように全身を走ったのは、意識的に忘れることにした。
「そうだろう」
鷹揚にうなずき、バルヴァラは繋いだままのラクスの手を持ち上げ、口元に運ぶ。
「ひっ!」
(食うのか!? やっぱり食うのか!? 生で!? いや、焼かれんのも嫌だけど! 切り離してから――も嫌だッ)
人差し指と中指を口内に入れ、カリ、と優しく甘噛みされる。立てられた歯の感触に怯えるラクスの反応を楽しんでから、バルヴァラは舌の腹を使ってゆっくりと二本の指を舐め上げ、解放する。
とりあえず、食い千切られなかった。それに心底ほっとする。
「お前にとって幸いなことに、我は今、丁度臣下をなくして困っているのだ。どうだ、ラクス。我と共に来ないか。いかに我が強大な力を振るおうと、それだけで統治できるほど西大陸は小さくない。我には信のおける手足が必要なのだ」
「……」
正直に言えば、御免だ。もう誰かの下で働くのはこりごりである。
しかし選択の余地がないことも、よく分かっていた。
「……分かった。けどいいのか」
「何がだ?」
「俺が忠誠誓ったりしないって分かってるだろ。お前が欲しいのは信用できる手足だってさっき言ってただろうが」
脅しによって従わされたラクスがそうなり得ないことなど、分かりきっているだろうに。
「構わん。我と貴様は今さっき会ったばかりではないか。その貴様にすぐの忠誠など求めん」
「……」
「信とは互いを知り合って築くものだ。我は貴様が気に入った。だから我の側に置きたいと思った。であるからして、互いを理解することから始めねばならん。だからまあ、今はせいぜい
くす、と笑ってから、バルヴァラはラクスから手を離す。
「貴様にとっても悪い話ではあるまい? もし万一、何らかの要因が重なって我を降すことあらば、貴様は我を臣下にできるかもしれぬのだ。思い知っただろうが、我は強いぞ」
「それはよく分かった」
「貴様は淫魔だ。現魔王と同じくな。追従する家来ならばいくらでも得られるだろう。だが、そんな王は孤独だ。そして必ず、政治は迷走する」
「――……」
バルヴァラの言葉に、ラクスは返す言葉を持たなかった。
ラクスはただ、エリシアへの復讐のために魔王になろうとしただけなのだ。その先のことなど何も考えていなかった。
当然、国をどうしたいという考えもない。どういう王になりたいかも。
「我は、友と臣下は絶対に裏切らん。我が誇りにかけてだ。どうだ、我が欲しくなっただろう」
「……うーん」
「欲しくなっただろう?」
パキキッ、と指を鳴らしつつ、バルヴァラは二度、同じことを言った。
「分かった! 欲しい、ぜひ!」
「うむ。それで良い」
満足気にバルヴァラはうなずいて。
「では、これから世話になる。世話もしてやるから安心するがいい」
「まあ、そうなるんだろうな……」
五体満足、自由なまま切り抜けられただけ恩の字か。
しかしまったく喜べない。ラクスは憂鬱な気分で頭上を振り仰いだ。
晴れ渡った空から差し込む日は明るく、ステンドグラスはきらめいていて美しかった。
……げんなりした。
(――つまんない)
自室のベッドの上で、立てた膝に乗せた枕を抱きかかえ。そこに顔を埋めつつのエリシアは、出かかった溜め息をぐっと飲み込んだ。
何か不愉快になることが起こったわけでもないのに、溜め息なんかつきたくなかった。平穏な、いつも通りの――いつもより穏やかな日常だ。今日はどこにも襲撃しに行かなかったので。
ただ、気分が乗らなかっただけだ。
何だか――イライラする。
「エリシア様? 失礼します」
声をかけて室内に入ってきたユーグを、エリシアは瞳を動かしてちらりと見ただけで、答えなかった。
「お食事、採られなかったんですか?」
ほぼ持ってきたままの形で残っている昼食を見て、ユーグは困ったように首を傾げる。
「お口に合いませんでしたか?」
「……」
ユーグの言葉に、エリシアは答えをためらった。
不味いわけではない。
けれど、美味しくも感じなかった。慣れ親しんだ味と違うせいで、違和感を感じているだけかもしれないが。
だが、確かなことが一つ。
「……食欲がないの」
原因を考えるのは放棄して、エリシアはそう答えるだけに留める。余計なことを口にしてしまえば、何かが爆発してしまいそうだったから。
「どこか具合でも……?」
「うるっさい! 放っといて!」
ただでさえイライラしていた心は、簡単に頭に血を昇らせた。顔を上げてユーグを怒鳴りつける。
「!」
いきなり怒鳴ってきたエリシアに、ユーグは驚き、食器を片づけていた動きを止めた。戸惑うユーグの気配を無視して、すぐにエリシアは顔を逸らし、再び枕に顔を埋める。
「……失礼しました」
理不尽なエリシアの態度に、ユーグはただ、頭を下げて謝罪した。
しばらく食器を片付ける音だけが響く。それもすぐに終わって、ユーグは静かに一礼をして出て行った。
退出の挨拶以外にかけられた言葉はない。
気を遣ったのだろう――と思っても、エリシアはさらにささくれ立つ気持ちを抑えられなかった。
(何よ、これ)
イライラする。落ち着かない。物足りない。
――身体が。心が、寒い。寂しさからくる寒さだ。
「――っ。そんなわけ、ないしッ」
あるべき何かを失ったのだなどと、エリシアは断固として認めなかった。
(全然そんなことないし! ラクスがいないからって、別に何も変わらないし! ちょっと不便だけど、あいつが役立ってたのなんてそれぐらいだしっ。わたしは一人で十分なのよ! 一人で――)
「……ひとり」
呟いた途端に、寂しくなった。
広すぎる城に、一人きり。
「……ひとりじゃ、ないもん」
(ユーグがいるもの。呼べばすぐにでも来るわ)
ユーグは優しい。そして可愛い。すべてエリシアの好みだ。そしてエリシアのやることはすべて肯定してくれる。
――けれど、それだけだ。
(ラクスだったら、きっと)
やり過ごすように謝って済ませるのではなく、理由を聞いてきただろう。きっと、何も言わなくても側にいてくれた。
寂しくなかった。エリシアが寂しく感じたとき、ラクスは必ず気が付いた。だから寂しくなかった。理不尽な憤りをぶつけても、何も言わない理由の方を悟って、励まし、慰めてくれた。エリシアが欲しかった言葉を与えてくれた。
けれど、今は一人だ。
ユーグは側にいるけれど、心は一人。そう思った。
「……全然、大丈夫なんだから」
ぎゅ、と唇を噛みしめ、エリシアは目から零れようとする弱いものを堪える。
自分を優しく囲ってくれた温かな熱を、思い出さないようにすればするほど、思い知ってしまう。
「……大っ嫌いよ……っ」
振り払えない自分が、惨めで堪らない。
エリシアの様子を扉越しに聞いていたユーグは、足音を殺してその場を離れる。
薄暗い通路を歩くユーグの頭上で、パササっ、と小さな羽音がした。高度を下げて肩に留まったのは一羽のコウモリ。
コウモリはキィ、と小さく鳴き声を上げる。
「ええ。順調ですよ」
囁き声に答えるように、ユーグも小声で応じた。
「ラクスさんは本当に離れました。今は一人ですよ」
その言葉を聞くとコウモリは再び羽ばたき、今度は窓から外へと飛び去って行く。
ユーグの使い魔であるコウモリは、城の防衛結界にも反応しない。
行き先をちらりと目で追ってから、ユーグは何事もなかったかのように、与えられている自室へと戻って行った。
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