◇第一章<召喚は失敗?> 2節

 次の瞬間、足元に感触が戻った。


「……成功だ」 「まさか、本当に召喚されるとは……」「さすが宰相殿だ…」「しかしあれは人間では?」


 耳には異国語のような響きが飛び交っていたが、不思議と意味がわかる──いや、脳が勝手に翻訳しているかのような違和感。


 恐る恐る目を開けると、そこはもう、あの山奥ではなかった。石造りの床、頭上には荘厳な天蓋──見知らぬ空間。複数の視線が彼女に突き刺さる。

 空間は異様な緊張感に包まれていた。石造りの広間の空気はひどく冷たく、重い。まるで呼吸すら咎められるような圧が、全身にまとわりついてくる。

 その場にいた人々は、装飾の施されたローブや甲冑、礼装のような衣を身につけていた。武器こそ構えていなかったが──だからこそ逆に、少しでも“異物”と見なされれば即座に排除されかねないような、張り詰めた沈黙が支配していた。

 誰もが無言のまま、ただ彼女を見ている。その目は、興味ではなく、“選別”の色を帯びている。


 夕奈は、喉の奥がひゅっと鳴るのを感じた。


(やば……やばいやばい……これ、下手に動いたら殺されるやつじゃない……?)

(でも……顔には出さない。私、そういうのだけは得意なんだから)


 ぐにゃりと歪んだ視界の余韻がまだ残る頭で、夕奈は必死に現実感を探していた。土の匂いも空気の乾きも、まるでCGでは再現できないリアルさで──それなのに、信じられないほど“異質”だった。

 ほんの数分前までは、彼女は日本の片田舎にある、古い石碑群のロケ地にいたはずだった。彼女の指が、うっかり印に触れてしまい──次の瞬間、光に呑まれて。目を開けた時には、もうこの世界にいた。


(嘘でしょ……これ、もしかして……異世界に召喚されちゃったってやつ?)


 段々と冷静になってきた頭の隅っこで、とある考えに思い至る。最近流行りのファンタジー小説やアニメで見かける『異世界召喚モノ』。普段扱っているジャンルとはあまりもかけ離れていて、真面目に見たことはなかったけれど……ありえないと笑っていた世界の出来事が、いま、目の前で自分に起きているなんて──。

 そんな現実を飲み込むには、あまりにも展開が早すぎる。怖い、寒い、訳がわからない──でも、騒いでしまったら“厄介な存在”だと思われるかもしれない。それが怖くて、何も言えなかった。


「人間の女、だと?」


 それは低く、美しいのに底冷えするような声だった。その声を聞いた瞬間、夕奈ははっと顔を上げた。よく通る男の声──静けさの中ではっきりと耳に届いたその言葉に、心臓が跳ね上がる。

 そして、その視線の先に立つ男──壇上で一際異彩を放つ一人の青年に、夕奈の視線は釘付けになった。


 背は高く、均整の取れた体躯。纏う深紅と白の礼装の胸元には、太陽を模した銀の紋章が輝いている。

 何より目を引くのは、その容姿。

 雪のように白い銀髪が滑らかに額を流れ、深い蒼の瞳がこちらを射抜く。冷たさと理知に満ちた視線は、それでいて、どこか孤独な気配を漂わせていた。その立ち姿には圧倒的な威圧感と、凍てつくような静謐さがある。

 彼が“この場の頂点”に立つ者であること──そして、間違いなくこの物語の中心となる存在であることは、一目で理解できた。


 その男が、低く、一言命ずる。


「……神照器しんしょうきを」


 運ばれてきたのは、金属製の台座に載せられた不思議な装置だった。中央には六角形の透明な水晶が浮かび、淡く脈打つように光を放っている。


「これはアレシリオンの加護、すなわち“魔力”の感応を測るものだ。魔力を持つ者ならば、光が揺らぐ」


 魔力──彼女はそれが何を意味するか、まだ正確には理解していなかった。ただ、“この世界では極めて重要なもの”なのだという空気だけは痛いほど伝わってくる。

 夕奈は、おそるおそる手を水晶にかざした。


(なにこれ、何が起きるの……? でも、反応しなきゃヤバいってことだけはわかる……!)

(お願い、頼むから……なにか、ちょっとでも、光って!反応して……!)


 だが、その必死な願いもむなしく──


「反応なし。魔力ゼロですな」


 誰かがそう、冷ややかに告げた。

 光はそのまま、静止したまま。まるで、彼女の存在そのものが空気のように扱われているかのような錯覚。神照器──この国で魔力を測定する唯一の証明装置は、明確に告げていた。


 彼女の中には


(……嘘、でしょ?何も……何も反応しないの……?)


 頭が真っ白になった。息を吸うことすら忘れそうになる。喉は詰まり、胸の奥が重く沈んでいく。焦りと不安がせり上がるが──身体は、まるで誰かに縫いとめられたように動けなかった。


(こういう時って、どうなるの……?処分されるとか、そんな……)


 周囲の空気がざわつき始め、「まさか…」「失敗…?」「宰相殿が……」と、ひそひそと声が飛び交う。

 夕奈は膝が震えそうになるのを必死で抑えこんだ。


(でも、ここで騒いだら、きっと“愚かな女”って思われる……!)


 壇上の青年──あの冷たい視線の銀髪の男が、軽く手をかざし、周囲の声を静かに制す。


「……まさかが出てくるとはな」


 あの凍てつくような視線が、鋭く夕奈に突き刺さった。


「名は?」


 続くその問いに、一瞬呼吸が止まりかける。


(名前……そうか、知らないよね……)


「……夕奈です。弓槻、夕奈…」

「……ユウナ。異邦の名、か」


 精一杯、平静を装った。

 声は震えなかった。けれど、指の先まで冷え切った手のひらには、汗がじっとり滲んでいた。


 隣で呆然と立つ文官風の青年が、思わずと言った様子でぽつりとつぶやく。


「精霊でも、ドラゴンでもない……これが宰相殿のお力になる『召喚獣』だと……?」


 驚愕と、わずかな侮蔑が滲んだその声に──夕奈の胸が、ひどく冷たく締め付けられた。

 銀髪の青年が、再び言葉を紡ぐ。


「客人として遇しろ。ただし──」


 その声は、誰よりも冷たく、そして威厳に満ちていた。


「“丁重に”。部屋から出られなくても不自由しないように。護衛をつけ、くれぐれも危険のないように」


 丁重に。だが、自由はない。

 それは“軟禁”という言葉を、最も礼儀正しく飾った言い回しだった。


 夕奈は、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。

 突然、異世界に呼ばれ──何の前触れもなく、何の説明もないまま、ただ一つの装置によって“使えない女”と断じられ……閉ざされた空間へと押し込められようとしていた。


(お願い、誰か、これは夢だって言って……!)

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