3-27.ベディー・ベア

 明らかにサイズを間違えたダボダボのパジャマに、亜麻色のクマぬいぐるみをぎゅっと抱きしめた少年が、ポロポロと涙を流していた。


「ぼ、坊っちゃん、まずは落ち着くッスよ!」


 硬直しているチュウケンさんに変わって、ハッソウさんがおろおろと声をかける。


「こ、こ、このぬいぐるみは! シュルタイフルシャのベディー・ベア! しかも、幻の試作品ではないか! ベディー・ペーター男爵夫人のオリジナル! しかも、悪い虫よけ撃退機能つき! どうしてこんな危険物……いや、なぜ、こんな入手困難なモノをミナライくんが!」

「チュウケンさん、今は呑気にぬいぐるみの鑑定なんかしている場合じゃないッスよ!」

「お、お、お父様が、しゅ、就職祝いにって……。これを持って寝てたら、怖いことはされないって……。お、お父様の嘘つき――!」

「いや、いや。ミナライくんもそんなことをわざわざ丁寧に答える必要ないッスよ!」


 知っている者に会えて安心したのか、ミナライくんがわんわんと泣きはじめる。


「ど、どうかしましたか? 痴情がもつれましたか?」

「なにごとですか? 痴話喧嘩ですか?」

「大丈夫ですか? いきなり修羅場ですか? 助っ人が必要ですか?」


 別の扉が開いて黒烏運輸のスタッフたちが次々と顔をだす。


「いや。違うッス。大丈夫ッスよ。なにも問題ないッス。いたって健全ッス。みんなは部屋に戻ってトレーニングの続きをするッスよ!」


 興味津々な黒烏運輸のスタッフたちを部屋に押し込め、ハッソウさんがミナライくんに優しい表情で質問する。


「ところで、どうして、坊っちゃんの寝間着はそんなにダボダボなんッスか?」

「だって、部屋にSサイズの破廉恥なネグリジェとLサイズのパジャマしかなかったんです!」

「……それは……究極の選択ッスね。寝間着は執事さんが用意したッスかね?」


 真顔で考え込むハッソウさんに、チュウケンさんが反論する。


「おい、寝間着なんてどうでもいいことだろ。似合っているし、着ているし、問題ないだろ! それよりも、もっとシュルタイフルシャのベディー・ベアを見せてくれ! 悪い虫に対する攻撃力があまりにも桁外れすぎて、商品化を断念したという幻のぬいぐるみだぞ!」


 チュウケンさんは手持ちライトでぬいぐるみを照らす。そんなことをするために執事は手持ちライトを貸し出したわけではない。


「チュウケンさん、それこそ、どうでもいいことじゃないッスか。そもそもそれって、ミナライくんの私物っしょ? 出品物じゃないッスよ」

「私物じゃないです! ボクの大事なお護りです!」


 ミナライくんは大粒の涙をこぼしながら、唇を尖らせ、上目遣いになりながらぎゅっとくまのぬいぐるみを抱きしめる。


「すっ……すごい攻撃力だな」

「そうッスね……。ダボダボパジャマに可愛いくまさんぬいぐるみ。この組み合わせの破壊力を、オイラはいままで侮ってったッス」


 チュウケンさんとハッソウさんは、お互いの見解の一致に満足したのか、強く頷きあう。


「おい、おい。君たち、そんなどうでもいいことで揉めてないで、そろそろワシに気づいてもらえんかのう?」


 不意に頭上から別の声が降ってきた。


「へッ?」

「はぁっ?」

「ひぃっ!」


 薄暗い廊下に、半透明の老人が浮かんでいた。立派な顎髭を生やした老紳士は、三人に向かってニッコリと笑いかける。


 真っ先に反応したのはミナライくんだ。


「ひ、ひきゃぁぁぁっ!」

「あ! これ! 坊や!」


 半透明の老人が慌てるが、ミナライくんは小さな叫び声をあげると、そのまま失神してしまった。


「お、おい! ミナライくん! しっかりしろ!」


 就職祝いのくまさんぬいぐるみを抱きしめたまま、くたっとなってしまったミナライくんを、チュウケンさんがぬいぐるみごと慌てて抱き上げる。


「チュウケンさん、チュウケンさん!」


 ミナライくんを抱きかかえたチュウケンさんの背中をハッソウさんがバシバシと叩く。


「なんだよ。今はそれどころじゃ……」

「きれいさっぱり消えちゃいましたよ。あの老人。なにをしたかったッスかね? ずいぶんと恥ずかしがり屋みたいッスね」

「…………」


 先程まで老人が浮かんでいた薄暗い場所を指さす。

 ハッソウさんの指摘どおり、そこにはなにもなかった……。





 消えた老人のことは後で考えることにして、ふたりは気を失ったミナライくんを室内へと運び込んだ。くまさんぬいぐるみごとそっとベッドにおろす。


 ハッソウさんが先回りしてベッドを準備したり、照明の明るさを調節したりと細々と部屋の中を整えていく。


 室内は乱れた様子もなく、がでたとは思えないくらいに空気は落ち着いている。

 

 上掛けをかけようとすると、かすかなうめき声とともにミナライくんがゆっくりと目を開いた。


「ミナライくん大丈夫かい?」


 頭を優しく撫でながら、チュウケンさんはベッドの端に腰かけて質問する。

 くまさんぬいぐるみを抱きしめ、ミナライくんはコクリと頷く。


「私が誰かわかるかな?」


 ミナライくんは小さく頷いてみせると「チュウケンさん」とか細い声で答えた。

 チュウケンさんは大きく頷くと、よくできましたとさらに頭を撫でる。


「水を飲むかい?」

「はい」


 怯えるミナライくんを刺激しないように注意を払いながら抱き起こす。

 その間にハッソウさんが水を用意する。

 見事な連携プレーだ。

 先程のことを思い出したようで、ミナライくんの身体が小刻みに震えはじめる。

 ミナライくんの頭や背中を撫でながら、チュウケンさんは冷水が注がれたガラスコップを少年の手に渡す。


 手が震えてコップが上手くつかめず、チュウケンさんに支えてもらいながらミナライくんはチビチビと水を飲みはじめた。


「水を飲んでいるだけなのに、なんかすごく癒やされるッスねぇ」


 ふたりの邪魔にならないように壁際まで退いて、ハッソウさんがひとりごちる。


「そうじゃのう。そうじゃのう。眼福じゃのう。油断したらうっかり成仏してしまいそうじゃ」

「そうッスよね……って……へッ?」

「ひぃっ!」

 

 震え上がるミナライくんを、柔らかなくまさんぬいぐるみごとチュウケンさんが優しく胸に抱きよせる。


 三人しかいなかった部屋に四人目がひょっこりと姿を現した。


「あ――! やっとでたッス!」

「ひいいいっ! またでた!」


 ハッソウさんが歓声をあげる。

 ミナライくんは小さな悲鳴を漏らすと、くまさんぬいぐるみが潰れるくらいの勢いで、チュウケンさんにぎゅっとしがみつく。


「ミナライくん、大丈夫だよ。落ち着いて。今のところはきみが考えるような、祟るような悪いヤツでも、生命を奪う呪いでもないよ」

「でも! でも!」

「大丈夫だよ。落ち着いて。怖くないから」


 幼い子どもに言い聞かせるように、チュウケンさんは優しく背中を叩く。

 温かでたくましい腕と柔らかなぬいぐるみに包まれ、ミナライくんは少しずつ落ち着きを取り戻しはじめた。


「大丈夫。もし、きみに悪いことをするのなら、私がアレを粉微塵に叩き潰して、煉獄に突き落としてあげるからね」

「……本当ですか?」

「ああ。本当だよ。転生できないくらいに粉砕して、奈落の底に叩き落としてやるから、安心するといいよ」

「わかりました」


 老紳士の「近頃の若者は物騒な約束をするのぅ」という声が聞こえたが、チュウケンさんのひと睨みで部屋は静かになった。


「さて……」


 ミナライくんを背後にかばいながら、チュウケンさんは天井を見上げる。


「このような夜更けに、どのようなご要件でしょうか? メルモルド・リフォン様」

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