アパートの幽霊
『なんでこんなことに』。人生でそう思う瞬間は、誰にでも一回くらいあるだろう。
それは大抵、ただの動揺と混乱の産物で。喉元を過ぎれば笑い話か、でなければ忘れてしまって終わるもの。
しかし、今年で二十五年目の人生。すこーしだけ残業と休日出勤が多い会社に務める俺には、笑い話にもならない忘れられない、そんな過去が二回あった。
一回目は俺が"恋愛"というものを諦めた記憶。高校の卒業式の日のこと。
その日、式が終わって感極まった俺は、三年分の想いを込めてある女子生徒に告白をした。……だが彼女は、YESもNOも言う前に、いきなり俺を罵り大泣きしだしたのだ。
後に聞いた話では、俺の告白の前に別の男子に告白してフラれていたという。しかしそんなこと当時の俺は知る由もなく。泣きながら怒る彼女に、ただただ謝り続けるしかなかった。
フラれるにしたって、後悔したくなかっただけなのに。
最高の卒業式は台無し。通り過ぎる学友たちに白い目で見られながら、俺は心の底から『なんでこんなことに』と思った。
二回目は最近。一年前のことだ。
中学一年生で唯一の肉親だった父親を亡くした俺は、高校卒業まで友人の家に居候していた。
その友人というのがだらしないやつで。本当にだらしないやつで――大学生になってからは毎日、俺のアパートに金の無心に来るようなやつだった。
けれど、それでも俺にとっては無二の親友だったし、そこらの家族よりも強い絆がある。と思っていた。
一年前のあの日までは。
前日、金をねだるのではなく初めて『借りたい』と言ったあいつは、俺から二万円を受け取ると部屋に入り……二人分の酒を机に置いた。
そして朝。俺は電話が鳴る音で目が覚めた。相手は貯金用の口座を登録している銀行だった。
「今朝一番に、預金が全額、――様名義の口座へ振り込まれておりますが、大丈夫でしょうか」電話口からは人の好さそうな女性の声で、そう聞こえた。
見回せば部屋に親友の姿はなく。俺の財布からは、ご丁寧に件の口座のキャッシュカードだけがなくなっていた。
全てがバカバカしくて、俺は「大丈夫です」と答えて電話を切った。ただ――何度もため息が出て、『なんでこんなことに』と思ったのだ。
「……ハァ」
息が漏れた。――と、眼前の少女が青白い顔を上げた。しかし、すぐにまた顔を俯かせる。
ここはアパートの一室。自分の部屋の、畳張りの居間で、俺はなぜか正座をしてる。そして俺は……丸机を挟んで正座する、薄汚れたパジャマ姿の彼女のことを知らない。
人生とは分からないものだ。さすがにもう、三回目はないと思っていたのに。
俺は自称『幽霊』の少女に視線を向ける。そしてもう一度、思い返してみることにした。
一体全体、なんでこんなことに?
もちろん、目が覚めたらこうだったわけじゃない。経緯、のようなものはあって。
まず元親友の一件で貯金が無くなった俺は、すぐに格安の部屋に引っ越すことにした。その物件探しの最中、事情を聞いた大家の女性が安くしてくれたのが、この部屋だ。
中は決して広くなかったが……家電が備え付けだったし、どうせ働いて寝るだけの生活だと思ってたので即決した。実際、今日まで思った通りの生活だった。
そして今日――まあ今日という日に特別な意味はないのだが。早朝にセミの声で目が覚めて、なんとなく思い立って。俺は仕事を休んで買い物に出かけた。
買い物を終えたのは昼過ぎだった。八月の真っ只中、アスファルトと腹立たしいほど平和な空に挟まれながら歩いて家へ向かう。
片手にビニール袋を提げた俺は、部屋の前に着くと同時に深い息を吐いたのを覚えている。俺は扉を開いて、部屋に入った。
すると、居間に背の高い少女が立っていた。
……いや、いくらなんでも唐突すぎるな。もっと思い出さなくては。もっと細かく、全てをだ。
最初に――そう、鍵を開けて部屋に入った俺は、最初に靴を脱いだんだ。
そして部屋に上がり、だくだくと流れる汗を肩で拭いながら、適当に床にビニール袋を置いた。汗でベタベタで、一刻も早く横の台所で手を洗いたかったからだ。
水を止め、タオルで手を拭った俺は、不意に居間に気配を感じた。振り返って台所から離れると、足元がヒヤリとしたのを感じた。
電気は消えていた。カーテンも閉め切られていたが、それでも漏れ入る光で中は見えた。
『誰かいる』とすぐに分かった。俺は電気を点けた。
そこには若い、たぶん高校生くらいの、汚れたパジャマ服の少女が立っていた。しかも、居間の丸机の上に。
彼女はずいぶん身長が高く、一瞬、天井から吊られているのかと思った。だが見上げた首にロープは見当たらず。ただ、青白い顔が俺を見下ろしていた。
そう、俺と完全に目が合ってもなお。彼女は無表情で、何をするでもなく机に立っていたのだ。
驚き、恐怖、言い表せない感情が渦巻いたのを覚えている。俺は急いでポケットを探り、スマートフォンを取り出していた。別にアテはなかったが、何か手に持ってないと不安だったのだろう。
その時「あの」と声が聞こえた。
少しかすれて、儚げな声だった。細い体に黒い長髪、身長に反して気弱そうな少女だと、ようやく気が付いた。
俺は彼女をもう一度見上げて、抱いた印象をそのまま口にした。
「まさか……幽霊?」
「…………はい。そうです」
「そう、なんだ」
訊いておきながら、予想外の答えに驚いていた。一歩彼女に近づく。すると少女はゆっくり、後ずさるように机から降りた。
とす、と靴下で畳を踏む音が聞こえた。
「靴下……っていうか。足、あるんだ」
沈黙に耐えられず言ってみた。彼女は答えなかったが、もう一歩近づいても、今度は下がらなかった。
そしてとうとう、俺たちは丸机を挟んで向かい合った。
俺は少女の様子を窺いながら、できる限りの笑顔を貼り付けた。「えーっと……とりあえず、座る?」
彼女はまた何も答えず、畳にゆっくり正座した。
なんとなく俺も正座した。正座なんて上司に怒鳴られるとき以外ではいつぶりかと思った。
まあ、とにもかくにも。自分の部屋で幽霊と正座で向かい合う。そんな奇抜で奇怪なこの状況は、こうして出来上がったわけだった。
数分にも感じる沈黙は今も続いている。結局、何度考えようと『なんでこんなことに』の答えは出ないままだ。
もっとも、答えが出たところで目の前の"幽霊"をどうするか、という問題が残るのだが。
「……まきのさん、あの」幽霊少女が口を開いた。
「えっ、なんで俺の名前を?」思わず訊き返す。牧野は確かに俺の名字だ。
「あっ、それはその、表札、とかで」
なるほど、表札か。
「ん? 待った。じゃあ玄関から入ってきたってこと?」
「そ、そう、ですね。玄関から……入りました」
俯きがちな彼女はオドオドした喋り方だ。まあ幽霊とはいえ、初対面の成人男性を前にした若い女の子はこんなものだろう。
それにしても……幽霊か。
初めは戸惑うばかりだったが、だんだんと思考が巡り始める。ひょっとするとこれは絶好の機会なんじゃないか? 彼女が幽霊なら聞けるはずだ。生きている自分には知り得ない"死後の話"を。
俄然、興味が湧いてきた。俺は丸机に両肘を置いた。
「ねえ、君さ。名前はなんていうの?」
「なまえ? え、と」彼女は黒目を上下左右に動かす。
「あっ、もしかして覚えてないとか? 幽霊って記憶が曖昧になるっていうし」
「……ごめん、なさい」
「謝らなくていいよ。それじゃ君が死ぬ前の記憶で、なにか覚えてることはある?」
「私が死ぬ、前の……」今度は何か思い出した様子。だがそれだけで、それ以上は何も言わなかった。
「えーっと……じゃあ、そうだな、なんでここに来たのかは分かる? ――あ、それともまさか、この部屋が安かったのって、君がここで死んだからとか」
「ちがいますっ!」少女は突然声を荒らげた。「ここは違います! 私がここに来たのはエアコン――じゃなくてえっと、」
「エアコン?」ここ最近不調の、備え付けエアコンを見上げた。
「え、エアコンじゃない、エアコンは忘れてください。私、私がここに来たのはその、たまたまですから!」
「そ、そっか」彼女の剣幕に気圧されて、そう言うしかなかった。
しかし結局、答えは『たまたま』か。
会話が通じるようでその実、答えは曖昧で行動は理解不能。なんというか、どこかが致命的にズレている気がする。
やはり生きている人間と幽霊の二人。コミュニケーションなんて、土台無理な話だったのだろうか。
……はあ。
私は心の中で深い、深ーいため息を吐いた。
『エアコン』は流してくれたようで一安心。一方で、言われるがままに座ってしまったことを、今更ひどく後悔している。
ああもう、私の馬鹿。黙ってさっさと出て行けばよかったんだよ。話なんかしてたら、バレるのも時間の問題じゃん!
"幽霊"なんかじゃない私は、両手で頭を抱えたい衝動に駆られる。『なんでこんなことに』なんて考えるまでもない。全部お母さんのせいだ。
……それにしても、正座をしたのは失敗だった。
幽霊って、足を崩したりするのかなぁ。
足の先がしびれ始めたのを感じながら、私はもう一度深ーいため息を吐いた。心の中で。
始まりはほんの数時間前のこと。私はその時間、このアパートの大家が住んでいる一〇一号室で寝ていた。
"このアパートの大家"というのは私の母親のことだ。要するに、私は自分の家の、自分の部屋にいたということ。
ちなみに他の部屋は独身向けだが、一〇一号室だけ特別に広く作られている。具体的に言うと、一〇一号室の隣は一〇三号室だ。
「ねえ、ちょっとお願いしていい?」
いつもの調子で私の部屋の扉が叩かれた時、既にイヤな予感はしていた。
寝ぼけた頭で扉を開くと、左手に赤い工具箱を持った母が立っていた。
「なに?」
「暑っ。アンタこんな暑いのに扇風機だけなの? エアコンつけなさいよ、熱中症になるわよ?」
「あー、つける前に寝ちゃった。夜中は扇風機だけで充分だから」
「弱めでいいからずっとつけときなさいよ。昨日も熱中症患者が何十人って言ってたわよ? ケチって倒れてたら元も子もないんだから」
「んー、そだね。それで、お願いってなに?」
「あそうだった。さっきね、牧野さんの部屋のエアコン、冷房が壊れ気味だったのふっと思い出したのよ。ほら、あの人が住み始めたのってちょうど涼しくなってきた時期だったでしょ? だからついつい忘れてたのよねぇ」
牧野さん、というのは誰だったか。すぐには顔が出てこなかったし、じっくり考えてみても結果は同じだった。
「何号室の人?」
「一〇四よ。ほらあの、いつもスーツ着てるお兄さん」
「あー、あの人かぁ」
相変わらず顔は浮かばないが、スーツには心当たりがあった。夏になってもきちっとしたスーツを着て、毎朝早くに部屋の前を歩いていく人だ。
「まあ、そういうわけだから。ちょっと今から一〇四のエアコン直してきてほしいのよ」
「ちょっとって、結構な重労働でしょそれ。っていうか私、エアコンなんか直せないって」
「大丈夫よ。ほら去年、ケータイで色々調べてウチのエアコン直してくれたでしょ? たぶんあんな感じで直ると思うのよ」
いや、あれは偶然うまくいっただけだし。調べたサイトにも『専門の業者に頼むことをおすすめします』って書いてあったし。それをあなたにも伝えたはずだし。
相変わらずの雑さ加減に呆れていると、「はい」と工具箱を押し付けられた。後から思えば、渋々ながらも受け取ってしまったのが最大の失敗だ。
「あとこれ一〇四の鍵ね。はい、じゃあよろしく」
「……鍵? え、なんで?」
「なんでって今日平日でしょ? 牧野さん仕事でいないだろうし、鍵がなきゃ入れないじゃないの」
母はさも当然のように、というか、なんなら少し呆れ気味に言った。
私は「そっか」と答えそうになって……ギリギリで踏みとどまった。
「ちょ、ちょっと待って! 一応確認させて! まさかとは思うけど、牧野さんがいない間に勝手に直そうとしてるわけじゃないよね? 話はしてあるんだよね!?」
母は目を逸らした。
「……だって、牧野さんには『備え付け家電はメンテナンス済み』って言っちゃったんだもん」
「『だもん』じゃない! 大家の娘だって勝手に入ったら不法侵入なんだからね! 娘を犯罪者にする気!?」
「だぁいじょうぶよ。何か盗むわけじゃないんだし、エアコン直すだけよ? ほら夜中に人助けする小人っているじゃない。あれと同じよ」
「全然違うから! 昼間だし!」
私の反論に、彼女はわざとらしくため息を吐いた。
「べつに、家にいるのは構わないんだけどねぇ。少しくらい家のことを手伝ってくれてもねぇ」
「そ、それは」
言い返せなかった。今現在、私は半分……いや、ほぼ全部、家から出ない生活をしている。もちろん夏休みだからじゃなく、一年中だ。そこを突かれると弱い。
「それじゃ、よろしく! そんな心配しなくても牧野さん帰ってくるのいつも夜中だし、絶対大丈夫だから!」
さっきから大丈夫、大丈夫って、何の根拠もないクセに。でも結局、私は母の願いを聞いたのだ。
久しぶりに外に出ると、日差しが眩しくて暖かかった。その時は『もしかして家に籠る私を心配してくれたのかな』とさえ感じた。
こんなことになるなんて思わなかったから。
ひやりと、背中に涼しい風が通った。
私はさりげなく頭上のエアコンを見る。さっきつけてそのままだから、吹き出し口からは今も冷気が吐き出されている。
……エアコンの修理は、自分でも驚くほど順調に終わった。
鍵を開けて部屋に忍び込む瞬間こそ緊張したけれど、物がほとんどないこの部屋は誰かの部屋というより、退居後の空き部屋に近い感覚だった。
一応、履いてきたサンダルは下駄箱の陰に隠して。電気も点けず、窓もカーテンも閉め切った。暑かったが、万が一にも誰かに気付かれるわけにはいかなかった。
そして、私は心の中で謝りながら部屋の丸机に足を乗せて、エアコンの修理を始めた。こういうときだけは身長が高くてよかったと思う。
修理は一時間半くらいで終わった。軍手と、捨てるつもりで選んだ古いパジャマは汚れと汗でどろどろになっていた。私は後片付けを終えてほうっと息を吐く。
これで帰れる。最後にもう一度、ちゃんと冷風が出てることを確認しよう。と丸机の上に乗った。
その時、鍵が開いた音がした。
汗が一瞬で冷たくなり、玄関を向く。それからは全身が硬直して動けなかった。鍵を開けたのがお母さんでありますように。と、その一瞬で何度願ったことか。
しかし願いはどこにも通じなかった。キッチンから水音が聞こえたかと思うと、ひょこりと居間を覗いたのは……あの、スーツ姿の牧野さんだった。
彼は驚いた顔をしていた。そりゃあそうだ、自分の家に知らない人間がいるんだから。
私は何を言えば、何をすればいいか全く思考が追い付かず。けれど彼がスマホを取り出した瞬間、ギリギリで声が出た。
「あの」と、絞り出した声はかすれて消えた。家族以外と話すのなんていつぶりか分からないが。通報される前に何か言わなきゃと、次の言葉を探した。
すると何を思ったのか、彼は私を見上げて――スマホを持った腕を下ろした。
「まさか……幽霊?」
「…………はい。そうです」
つい答えていた。
「そう、なんだ」
彼は困惑の色になった。しまった、と思ったが時すでに遅い。
彼が一歩こちらに近づいた。
自分が机の上に立っていたことを思い出して、私は内心大慌てで机から降りた。すると彼はもう一歩近づき
「えーっと……とりあえず、座る?」と、引きつった不自然な笑顔で訊いた。
私は大人しくその場に正座した。というのも、観念したからだ。彼は"幽霊"を自称する"イタい子"に、呆れているんだと思った。
しかしその数分後。私は座ったことをひどく後悔することになる。
とりあえず勝手に入ったことは謝るとして。私が大家の娘ということは何とか隠せないか、と思っていると――彼はこう言ったのだ。
「あっ、もしかして覚えてないとか? 幽霊って記憶が曖昧になるっていうし」
「謝らなくていいよ。それじゃ君が死ぬ前の記憶で、なにか覚えてることはある?」
……私はこの時、ようやく気が付いた。牧野さんは、私が"幽霊"だと信じてしまったのだと。
乾き始めた汗に風が当たって肌寒い。くしゃみなんかしたら、幽霊じゃないってバレるかな。
今からでも、全部本当のことを話して謝ったほうがいいかな。でも、自業自得とはいえ、これが大事になったらお母さんが……
「ねえ」
しばらく何かを考える様子だった牧野さんが、おもむろに口を開いた。
「は、はい?」返事は少し上擦った。
「君って、死んでるんだよね?」
「は、はい。たぶん」つい言葉尻が濁ってしまった。幽霊が『たぶん』はマズい。
しかし彼は疑う様子なく「ふうん。やっぱりそこは曖昧なんだな」と呟いた。
「じゃあさ、今ってどんな感じ? やっぱり浮遊感とかあるの? あ、浮いたり壁をすり抜けたりできる?」
「い、いや……何もできない、です。ごめんなさい」
今度こそバレると身構えた。でも『じゃあ見せて』って言われたら終わりだし、首を横に振るしかなかったのだ。
「そっ、か。まあでも、考えてみたら浮くとかすり抜けるとか、全部生きてる人間が作ったイメージだよな。幽霊を『煙のよう』とかって言うけど、煙だって重力に逆らってるわけじゃないし、壁も通り抜けられないし」
彼はまたもや、全く疑う様子を見せなかった。私は心中で胸を撫でおろす。運よく、彼が納得してくれてよかった。
……ん? いや、待てよ。
ふと思う。もしかしたらこの人、なんて答えても納得するんじゃないの?
だって、そもそも"幽霊"の定義なんて曖昧なものだ。少なくとも彼の中にあるのは、何の根拠もないイメージの産物でしかないはず。
だから、彼が私を本物だと信じている限り、どんな答えも彼にとっては真実になる。だって疑う根拠がないのだから。
なんだか光明が見えてきた。うまくやれば"幽霊"のまま帰れるかも――いや、こうなったらやるしかない。
「他の幽霊と話したりできるの?」牧野さんが訊いた。覚悟を決めた私は、すっかり冷静になっていた。
「できません。というか、他の幽霊は見えないんです」
「なるほどねぇ。そうだ、さっき壁は抜けられないって言ってたけど。物にも触れないの?」
「触れるときもあります。でも触れないときもあって。試したことないですけど、もしかしたら壁を抜けられるときもあるのかもしれません」
答えるたびに、彼はふんふんと頷いた。よほどオカルト好きなのだろう。その顔は真剣だ。
ちなみに、私がすらすらと幽霊を語れるのには理由がある。実は小学生のころの私には友人がいたのだ。それは私にだけ『霊感がある』と教えてくれた子で、結構仲が良かった。
「幽霊って、苦しいとか楽しいって思うことはあるの?」
私は、昔聞いた話を思い出して答える。「体が苦しいとか、そういうのはないです。……けど。時々、誰にも見られてないんだと思うと。胸が、苦しいです」
「楽しいことは、ないの?」彼は訊いた。
「ほとんどない、です。しいて言えば――楽しい想像をしている時くらいですね」
「楽しい想像?」
私はあくまでも、昔聞いた話を思い出して答えた。
「普通の人の人生を想像するんです。『こんな経験をしたんだろうなぁ』とか、『旦那さんとはこんな風に出会ったんだろうなぁ』とか。できるだけ幸せな想像を」
「なるほど、ね。あと訊いてなかったけど、お腹が空いたりのどが渇いたりはしないんだよね?」
「はい」
「だよね。そこは生きてる人間よりも便利そうだ」彼は小さく笑った。そして「最後にもう一ついいかな?」と訊いた。
「君って――どうして死んだの?」
「どう、して?」
「うん。つまり動機というか死に方だよ。だってほら、幽霊って未練がある人とか自殺した人がなるって言うでしょ? 実際どうなのかと思って」
何も、答えられなかった。口から声のような何かが漏れた。
「あっゴメン、そういえば生きてた時の記憶ないんだっけ。それとも、そんなこと答えたくない? どっちにしても無理に答えなくて――」
頭の遠くのほうで、牧野さんが何か言ってるのが聞こえた。窓越しの、セミの鳴き声が渦を巻く。
どうして
どうして、死んだの?
どうして、自殺なんてしたの?
「どうして!?」母の叫ぶ声が聞こえた。それは、頭の上から聞こえた。
何度も名前を呼ばれて、横になった体を揺さぶられる。セミの声がいくらか遠い、暑い部屋。そこは紛れもなく、あの日の私の部屋。
怒鳴るように名前を呼ばれ、揺さぶられ、謝られて。でも重いまぶたを開けてみたら、母はただ私を抱きしめた。
彼女は『どうして』と訊くより『もう大丈夫だからね』と耳元で言った。大丈夫って、ヘンなの。何も分かってないクセに、何の根拠もないクセに。痛いくらいに私を締め付ける母に、私は泣きじゃくりながら縋りついた。
結局――それから『どうして』を訊かれたことは一度もない。
私から話すのを待っているんだと気付いてたけれど。私は話せなかった。私自身にも答えがよく分かってなかったから。
……いや。本当は、答えを出さなかっただけだ。それも、気付いてた。
「大丈夫?」牧野さんが、私の顔を覗いた。「ゴメン。質問変えるよ。そうだ、気温を感じるか? とか」
「私、ユーレイだったんです」
「え?」彼は目を丸くして聞き返した。私は構わず続けた。
「昔から人と話すのが苦手で。だからできるだけ黙ってたら。いつか、誰かが言ったんです。『ユーレイみたいね』って」
俯いて、続ける。
「でもそれは悪意じゃなくて。たぶん、最初はただ仲間に入れてくれようとして。『ちょっとひどいなぁ。ユーレイじゃないよ』って、そう返せばよかった。そう返せば、きっと笑ってくれた。でも……いつまでも私が何も言わないから。みんな、飽きちゃって」
私は低く笑った。顔は俯けたまま。
「気付いたら私は、誰にも見えない"ユーレイ"になってました。でも、みんな都合のいいときだけ私が見えるんですよ。笑っちゃいますよね。ほんと、そういうときだけ、みんなで」
もう声が出なくなって、口を閉じた。ゆっくりと顔を上げると、目の前の彼は笑っていなかった。
「……それで、君は?」
「自分の部屋で、ロープで首を吊りました。だけど――」
「だけど?」
「あ、い、いえっ。なんでもありません、それだけです。それで死んで本物の"幽霊"になったって、そんなオチです」慌てて取り繕った。「そっか」と、彼は疑う様子もない。
あぶない、全部話すところだった。何をしてるんだ私は。
あの日、私は確かにロープにぶら下がった。でも納屋の奥にあったものを使ったのが間違い――いや正解? だったのだ。私の首を締め上げた紐は、もがき暴れる体を支えきれずに千切れた。
落ちた私は床に頭を打ったところで意識が途切れる。目覚めると母に介抱されていて。救急車で運ばれ、病院で一晩過ごすと、首の痕はすっかり消えていた。
私は死ねなかった。その日から一年、家の中に閉じこもって、もう死のうとも思わなかった。相変わらず生きているのは嫌だったけれど、死ぬのも嫌になったから。
ある時、友人がこんなことを言っていたのを思い出した。『幽霊は死んだ人じゃない。生きても死んでもいない人だ』と。
まさに……幽霊だった。
牧野さんが首を傾けた。「じゃあ、君は。その人たちに仕返しをしようと自殺して、幽霊になったってこと?」
「そう、だったのかもしれません。……でも今は、ただ自分が情けないんです」
「情けない?」
「クラスで孤立した時も、嫌がらせが始まった時でさえ、私は成り行きに任せてただけでした。『なんでこんなことに』って思うだけで、自分からは何もしなかった」
「それは、しょうがないよ。後からは何とでも思えても、その時にはどうしようもないことだって」
「いいえ」優しい言葉をかけてくれた彼に、強くかぶりを振った。
「違います。ただ、怒るのも話し合うのも怖くて、面倒で。そのくせ逃げ出すこともしないで。何も変えようとしなかったんです。全部何かのせいにして、勝手に絶望して死のうとして……そんな自分が、情けないんです。今も」
気付けば、彼はぽかんと口を開けていて。絞り出すように「君は強いね」と言った。「なんか、イメージしてた幽霊と違うな」
その一言で、私は我に返った。
「あっいや。ま、まあ、今更こんなこと考えても意味ないんですけどね。ほらなんと言っても、もう死んじゃってるわけですし」
「そっか、そういうことか。君は」彼は私の目を見据えた。どきり、とする。「君は、自殺を後悔してるんだね」
答えに迷った。もしあの日死ねていたら、後悔したか? そんなの分からない。実際、『死んでよかった』と思ったのかもしれない。
だけど私は今……生きているから。
「後悔、してます」
ちょっと考えて、そう答えた。
牧野さんは顎に手を当てて俯いた。反対に私は、視界が広くなった気がした。
ずっと分かりきっていたことを、知り合いですらない人にぶつけただけ。それだけなのに、体はすうっと軽くなっていた。
いくらか時間が経っても、彼は顔を俯けたままだった。
「あのー、牧野さん。私そろそろ……」恐る恐る声をかけてみたが、反応がない。ちょっと怖い。まさか、ついに人間ってバレた? 失言なんて――しすぎて、数えきれないけど。
「えっと……牧野さん」
「あ、ああごめん。何?」もう一度呼びかけると、彼は見るからに慌てていた。とりあえず疑われてはいなかったようで安心する。
「私、そろそろ行こうと思いまして」
「ああ、そう。うん、分かった」どこに? と訊かれるかと身構えていたが、彼は心ここにあらずといった様子だった。
「貴重な話をありがとう。君と話せてよかったよ」
「いえ。どういたしまして」言って、私は立ち上がった。しびれ切った足がびりびりとしてくるが、なんとか気合で堪える。
ふらつきながら丸机と、牧野さんも通り過ぎて玄関へ向かう。彼は私を目で追うことさえしなかった。
ああよかった。外に出てさえしまえばこっちのものだ。もし後からバレたって、今まで通り家から出なければいい――
「きゃあ!」
薄いなにかを踏んづけた私は、盛大に前に倒れた。どたんと音が鳴った。
しびれた右足に絡まった物を取りのぞく。それはホームセンターのマークが入った、小さなビニール袋だった。袋の口から中が見える。
もう、来た時はこんなのなかったのに! と心の中で叫ぶ。……そして、おもむろに後ろを見た。彼は体ごとこちらを振り向いていた。
やばい、最悪だ。
「もしかして、君――」
「お、お邪魔しました! さよなら!」
よろめいてシンクや壁に体をぶつけながら、扉の外へ転がり出る。ギリギリでサンダルを拾って、そのまま勢いよく扉を閉めた。
外に出ると、途端に全身の力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。室内から足音は聞こえない。追い掛ける気はないみたいだ。
ふぅぅ、と、深い息が出た。
危ないところだった。いや、誤魔化せてないだろうけど。とりあえず怒られる前に逃げ出せてよかった。
私は両手を胸の上で重ねる。冷たくなった指先はまるで死人のようだ。
そして心臓は今も、どくんどくんと激しい音を鳴らすのだった。
「ただいまぁ」
「おかえりー。遅かったけど、ちゃんと直った?」
能天気な声の母に「何が?」と訊き返しそうになる。そういえばエアコンを直しに行ったんだっけ。
「あー、まあ一応。なんとかなったと思う」
いつか恨み言を言ってやろうと心に決めながら、今は数分前の出来事を話す気にもなれなかった。
「? まあとにかく直ったんならよかったわ。ありがとね。汗かいたでしょ? お風呂沸かしておいたから」
母は視線で風呂場を示した。お風呂かぁ。今は一刻も早くベッドに倒れ込みたい。けど、汚れと嫌な汗を流したい気持ちが少しだけ勝った。
私は「ありがと」とだけ言って脱衣所へ向かう。
と、母が呼び止めた。
「あそうだ。今週の日曜日ね、私どうしても朝から出ないといけなくなって……アンタ一人になっちゃうの」
「子供じゃないんだから。べつに一日くらい平気だよ」
「いやそれがね、ちょうど荷物が届くことになってて……」
「受け取ればいいの? いいよ。なんかもう、それくらい何ともない気がする」
「本当? 無理してない?」
「してないって」私は笑いをこぼした。そんなに心配されることと、その原因を作ったのが自分ってこと。その両方に笑った。
「私もさ、そろそろ人間に戻らなきゃね。いつまでも『アパートの幽霊』じゃいられないじゃん?」
できるだけ明るく、冗談めかして言ってみた。でもやっぱり恥ずかしくなって、急いで脱衣所へ逃げた。
扉を閉めて、一息。
大丈夫。きっと私は、もう大丈夫だから。
どろどろのパジャマの裾に手をかけた。ふと思い出す。そういえば、あの日もこれを着てたんだっけ。
「なんだ、結構リアリティあったんじゃん」
これじゃ、牧野さんが幽霊って信じちゃったのも無理ないかも。
私はふっと笑って、体にへばりついたパジャマを脱ぐ。そのまま丸めて、脱衣所のゴミ箱に突っ込んだ。
さあ、お風呂に入って全部流しちゃおう。ていうか、こんな時間にお風呂に入るのなんて久しぶりだ。なんせまだ午後の三時――
「……あれ?」
私は動きを止める。今まで気にする余裕もなかったけれど。そういえば、あの人、なんで家に返ってきたんだろう。
嫌な感覚がした。『帰ってくるのはいつも夜中』だと母は言っていた。だとしたら彼は今日、仕事を休んだのか。
でもスーツ姿だった。それにお盆明けの、こんな何もない週のど真ん中に休むなんて……どうして?
私は右足で踏んだビニールの感触を思い出す。彼は今日、仕事を休んでホームセンターに行っていたのだ。
そして、あのビニール袋の中に入っていたのは――
「ねえ! 工具箱どこ置いたの?」いきなり扉の向こうから母の声がして、体が跳ね上がった。
声大きいなあ、もう。工具箱が何? 工具箱ならエアコン修理に使って――
「……あっ」
自分の部屋で、今は一人。俺は見覚えのない赤い工具箱と睨み合っていた。
彼女が出て行った直後、エアコンの真下に置かれているのに気が付いたのだが……幽霊の置き土産が工具箱、か。意味はちっとも分からない。
「あの子の話に、工具箱なんか出てきたっけ?」試しに呟いてみたが、やはりそんな記憶はない。話に出てきた道具といえばロープくらいだ。
……ロープ、か。
俺は立ち上がり、台所へ向かう。
床で潰れたビニール袋を拾い上げ、中から新品のロープを取り出した。これなら自分の体を支えきれるだろう。そう思って選んだものだ。
「もったいないし、やっぱ使っとくかなぁ」
俺は迷う。今朝までは、迷う理由なんてなかったのに。
そりゃあそうさ。恋人も家族も親友も既になく、きっとこれから延々と、早朝から夜中までこき使われるだけの人生。迷う理由なんてあるはずもなかった。
だけど、あの子は。怒るのも話し合うのも怖くて、面倒で。何も変えようとせず、勝手に絶望して――それを『情けない』と言った。
『後悔している』と言ったのだ。少しの迷いもない目で。
俺とあの子は同じじゃない。でも、俺は……。
何度か伸ばしたり畳んだりを繰り返した後。俺はロープを袋に戻して、そのまま押し入れの手前に置いた。
一つだけ、理由がある。あの子が出て行く寸前、ふと思い出したのだ。このアパートの大家には娘がいて、その子が『首を吊った』という話。
ただの噂かもしれない。だが、もし事実なら……大家に、今日のことを伝えなくては。この部屋を事故物件にするせめてもの償いに。
決めた。次の休日に大家を訪ねよう。工具箱の意味も分かるかもしれないし。それから先のことは、その後考えればいい。
俺は押し入れの戸をぴたりと閉めた。これで工具箱のほかは、部屋はすっかりいつも通りに戻ってしまった。
――いや、そういえば。もう一つ違うところがあるんだった。
俺は天井を見上げる。ずっと効きが悪かった冷房が、なぜだか今は調子がいい。それはまるで、この世界をいくらか生きやすくしてくれているように。
……とはいえ。生きるのって、やっぱり面倒だ。
俺は深いため息を吐いて、壁に掛かったカレンダ―に視線を送った。
なんと言っても、次の休みは日曜日だ。まだまだ先は長い。
(End)
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