幽霊二人
糸井桜
喫茶店の幽霊
【喫茶店の幽霊】
梅雨と夏の境目、生乾きの空気がもどかしい昼過ぎ。
夏休み前日の、がらんとした喫茶店。
僕の向かいに座った少女は痺れを切らしたのか、目を上げて問いかけた。
「そろそろ、自分が幽霊だと認める気になった?」
その問いにYESと答えることはできない。理由は明快、なぜなら僕は幽霊ではないから。
けれど椅子に腰掛けた身一つで、どうしてそれを証明できるだろうか。
「まだ、もう少し考えてみるよ」
そう、と興味無げに答えると、彼女はまた手元の文庫本に目を落とした。茶色いブックカバーで表紙は見えない。
さて、と。宣言した通り、これから僕は考えなければならない。
どうしたら、自分が生者だと証明できるのか。
あるいは――
どうしたら、彼女が"自分が幽霊"だと認める気になるのか。
僕は一度腰を浮かせ、椅子に座り直す。ついでに正面に座る彼女を見た。
髪の長い少女は、僕と歳が離れているようには見えない。つまり高校生くらいだ。
傍から見れば僕たちはカップルに映るかもしれない。もちろん傍から二人に見えていれば、の話だけど。
突拍子もないとは自分でも思う。じゃあ何故そんなことを思うのか。理由はこれだ、僕は視線を落とす。
今、僕たちが挟んだ机には、水と氷が入ったグラスが一つだけ置かれている。表面を水滴が伝っていく、まだ誰も口を付けていないグラスだ。
何の変哲もない、ただのグラス。だけど問題は……店主と思しき中年女性がこれを運んできた時、僕たちは『二人とも席に着いていた』ということ。
二人いるのに、グラスは一つ。しかも店主は店の奥に消えて、もう一つが届く気配はない。
この店にグラスが二つ以上あるのなら考えにくい状況だ。0でも2でもなく『1』とは、客が『二人』いるのなら、そう起こることじゃない。
でも僕には答えが分かっていた。つまり、二人のうちどちらかは店主に見えない"幽霊"だからだ。そして、それは自分じゃない。
疑う余地のない論理的な答え。ただ一つ誤算があったとすれば――それは、彼女も同じ主張だったということだ。
「ねえ。考えてみたんだけどね。やっぱりその水は、僕のだと思うんだよ」
「水?」本から視線だけずらして、こちらを見た。
「幽霊に水は必要ないって話さ」
「ハァ。さっきも言ったけど、私は幽霊じゃないから」
「僕だって幽霊じゃないよ。でも、そもそもさ、客観的に見れば幽霊なのはそっちじゃないのかな?」
「客観的? 何が言いたいの?」
そこでようやく、彼女は膝の上に本を伏せて、顔を上げた。
「この喫茶店の噂を知ってる? 左側の奥、電球の切れかけた暗い席に黒い長髪の女性の霊がいるって噂さ。ある人が窓の外から確かにその女性を見て、それから店に入ったんだけど、店内に客は一人もいなかったんだって。店員に訊いてもそんな客知らないと言ったそうだよ」
僕は机を指で差した。
「入口から見て、左側の奥の、薄暗い席。まさにここのことだ」
「……そんな噂は知らなかったけど。だから?」
「君の髪は黒くて長いよね?」
「それが? この国に黒髪の長髪が何人いると?」
あのね、と彼女は呆れた様子で続ける。
「『黒髪長髪の女』って安直なイメージに引きずられた噂なんかいくらでもあるわ。あと、ここの電球は切れかけてない。よく見て、照明の種類が違うだけでちゃんと点いてるから」
言われるがまま天井を見上げてみると、たしかに。ぱっと見では分からなかったが、彼女の言う通りだった。
「こ、細かいことはいいのさ。重要なのは、君と噂には近しい部分が多いってことだ」
「多い? 髪型が同じだけでしょ。だいたいその噂だって信憑性に欠けるみたいだし」
「いいや髪型だけじゃない。君はこの店内に突然現れて、そこに座ったじゃないか。その間、入口は一度も開かなかったはずだよ」
付け加えるなら、僕が店に入った時、他に客がいなかったこともはっきりと覚えている。
「それはお手洗いに行ってただけ」彼女はさらりと答えた。
「そもそも、荷物は置いてなかったけど、この席に先に座ってたのは私なの。私は自分の席に戻って来ただけ。なにもおかしいことはないわ」
「いやいやおかしいね。もし君の話が本当だったとしても、君が戻って来た時に僕はここに座ってたんだ。普通、知らない人間が居たら、躊躇しないかい?」
「だからそれは、あなたが幽霊だからよ」
「はあ?」思わず声が上ずった。
「や、ちょっと待った。その時にはもう、僕が幽霊だと思ってたと?」
僕が彼女を幽霊だと疑ったのは、彼女がこの席に何のためらいもなく座ったのが最初だ。それでも十分早いというのに、その前から幽霊だと確信していたと言うのか。
「当たり前でしょ。この時間に店に入ってきて、わざわざ薄暗い端っこの席に座るのなんて幽霊だけよ。いつもそう」
「いつも……って、何が?」
「だから、ここに座ってるのはいつも幽霊だって言ってるの。毎日毎日、死人相手に気なんか使ってられないでしょ? だから気にせず座ったの」
数秒の間、硬直してしまった。
「ええと、つまり、見えるの? 幽霊が?」
「? 逆に訊くけど、見えないの? 私のことを幽霊だって言うくせに?」
「っ、それは」
正直なところ、見えたことは一度もない。そして信じがたい話だが、今この場では『見える』ほうが自然だった。
なぜなら、普段幽霊が見えない人間が、今日だけは見えると言う。そんなのは都合が良すぎるのだから。
いやいやいや、それにしたって僕は幽霊じゃない……はずだ。
けれど僕は、本当に目の前のグラスに"触れる"のだろうか? 途端に、不安に思えてくる。
「じゃあ、こうしましょ」少女は膝に伏せていた本を手に取ると、栞も挟まずに閉じ、机の上へと置いた。
「あなたは、あなたが幽霊じゃないことを証明する。私もそれに協力するわ。その代わりもし、それでも証明できなかったら……あなたは"自分が幽霊"だと認めるの」
「いいよ。受けて立とう」どの道、このままじゃ水掛け論だ。僕は頷いた。
「ただし、君にも同じように証明してもらうよ。僕たちの立場は同じなんだからね」
分かった、と彼女は簡単に答えてみせた。
まあいい。あとは、僕と彼女のどちらからボロが出るか、だ。
どちらにしても……ここにあるグラスは一つだけ。
水を飲めるのは、一人だけなのだから。
「まずは『見える』と主張する君から幽霊の定義を聞きたいな。後出しで『それは幽霊の特徴だ』なんて言われても納得いかないからね」
「別にいいけど、定義って何? 何を話せばいいの?」
「要は特徴さ。たとえばそうだな、幽霊は物に触れる?」
『触れない』なら、一発で証明できる。僕には店の入り口を開いた記憶がある。
「んー……何とも言えない。触れる時もあるし、すり抜ける時もある」
ダメか。でもまあ彼女も本を読んでいたし、これは当たり前か。
「なら、幽霊は飲食できるの?」
「さあ。必要ないはずだけど、できないことはないのかも。少なくとも飲み食いしてる姿を見たことはないわ」
「じゃあ生理現象、つまり排泄とかはないって考えていいのかな」
「見たくもないし知らない。生きてたって人前ではしないんだから、あったとしても隠れてやってるんでしょ」
「でもさ、隠れる意味あるのかな? 幽霊は普通、人には見えないんだよね?」
「普通はね。ただ私にも見えない時はあるし、逆に普段見えない人に見える時もあるのかも」
「そ、っか。ええと、じゃあ、幽霊に体温はある?」
「体温を感じるほど触ったことないわ」
「あー……あ、そうだじゃあ息遣いとか、呼吸はどう? あと体臭とか!」
「聞こうとも嗅ごうともしたことない」
「…………そう」
だんだんと、勇んで質問を始めた自分が馬鹿らしく思えてきた。
「あの、申し訳ないんだけどさ。全然参考にならないんだけど」
「だって専門家じゃないし、ただ見えてるだけなんだから仕方ないでしょ」
「いやいや、なんでだよ! 幽霊が見えたら気になるでしょ! 調べようと思うでしょ!」
「じゃあ訊くけど、あなたは街灯に集まってる虫をわざわざ調べる? 興味がある人もいるだろうけど、私は全く興味がない。心底どうでもいいと思う」
街灯に集まる虫、か。そういえば小学校の自由研究で生態を調べたことがある。まあ、今は関係ないけど。
「とにかく」と彼女は言葉を継いだ。
「普通にしてたら幽霊と人間は区別がつかないと思って。そもそもそんな特徴があったら、とっくにあなたが幽霊だと私が証明してるわ」
たしかに、それもそうか。しかし区別する方法が全く無いなら、彼女は最初から"証明"なんて話は持ち出さなかったはず。
「ということはつまり、見ただけじゃ分からない部分。たとえば精神とかに差があるってことかい?」
「精神……まあ、そうね。幽霊には必ず『過去』と『現在』と『未来』に欠落がある。でも、」と言葉を切って、彼女はそれ以上続けなかった。
言葉を選んでいるというより、発言自体を迷っている様子だった。理由は分からなかったが、彼女が黙っている限り話が先に進まない。
「その三つの欠落がなければ、僕が幽霊じゃない証明になるってことだよね? なら早く教えてよ」
「分かってる」少し間を空けて、答えた。
「まず『過去』。幽霊は死の前後を思い出せない。だから自分がまだ生きていると勘違いしているわ。それと、理由は後で話すけど、幽霊は自分の死を自覚できない」
つまり、死んだ記憶がないからといって幽霊じゃないとは限らない、と。
「あと、自分のプロフィールも忘れていることがあるわ」
「ん、プロフィール? なんだ、そんなことで証明できるなら簡単だよ。僕の名前は"須東コウ"だ。これでいいのかい?」
「忘れている"ことがある"って聞こえなかった? そもそも名前は大抵覚えてるわ。一番忘れてることが多いのは住所よ」
「いや、住所だって僕は覚えて――」
……あれ? ええと、待てよ、たしか
「思い出せない?」彼女がせっかちに訊いた。
「いや、そんなことは。今はその、ちょっとド忘れしただけさ。でも、それはこの町に引っ越してきたばかりで、住所に馴染みがないせいだよ。前の住所ならちゃんと言える」
「まあ。幽霊って田舎の実家は割と言えるものよ」
……なんかそれ、ズルくない? そりゃあ僕が今の住所が言えなかったのは事実だけど。
「とにかく、次は『現在』の欠落よ。これは」
「ちょっと待った!」話を進めようとするので、制止した。
「なに?」
「『君にも証明してもらう』って言ったはずだよ。そこまで言うなら君は覚えてるんだろうね? 名前と住所!」
「"そこまで言った"つもりもないけど。もちろん覚えてるし言えるわ。名前は"大羽ケイ"、住所は――」
小さく「あ」と漏らしたかと思うと、彼女はちらりと横を見て、言葉を詰まらせた。
そしておもむろに口を開き、「やっぱり、覚えてない」と言った。
「はあ? なんだいそれ、僕より怪しいじゃないか」
「それでいいから、話を進めていい?」
さらりと、余裕すら感じさせる口調で訊いたので、僕は仕方なく頷いた。
「次は『現在』の欠落、一つは感情よ。幽霊になっても他の幽霊が見えるようになったりはしない。だから孤独を拗らせた幽霊は『見える』相手を見つけると、とにかく喋ろうとする。あるいは、誰とも関わらない時間が長いと、次第に感情が薄くなる」
「もしかして、それは『先に話しかけたのは僕の方だ』ってことが言いたいの? たしかにそうだけど。でも、それを言うなら君だって感情が薄そうだよ」
「…………」特に表情も変えず、まばたきをして彼女は続けた。
「もう一つは、連続性。幽霊になると記憶する力が弱くなって、幽霊になってからの記憶はしばらくすると忘れるわ。だから永遠に死んだことにも気付けないし、何も為せない。ただ『幽かに彷徨う存在』になるの」
なるほど、『死を自覚できない』とはそういう意味か。もし自分が幽霊だと気付いたとしても、気付いたことすら忘れてしまうのならば、本当の意味で死を自覚することなどできない。
「ところで、あなたはどう? 記憶に連続性はある? どうしてこの席に座ったのか、答えられる?」
「そんなの簡単だよ。僕は、怪談やオカルトの類が大好きなんだ」
「それで?」
「この店の幽霊の噂を聞いたからね。その真偽を確かめるために、あえてここに座ったのさ」
「じゃあ、誰からその噂を聞いたの? どうして今日、この時間なの? その前は何をしていたの? 答えてみせて、大事なのはそこよ」
頭の中に答えが浮かぶ。大丈夫だ、僕は幽霊じゃない。忘れてなんていない。
全部、覚えている。
「覚えてる……けど、答えたくないな。個人的な理由で」
「答えられないのなら、ないのと同じね」
「なっ。なら君は!」
「答えたくないわ」
迷う素振りもなく言葉を被せた。今度は余裕というより、苛立ち?
しばらく睨むように見つめ合う。しかし、お互いそれ以上言葉が出てくることはなかった。
「……まあ。とりあえず、さ。まだ『未来』の欠落が残ってるよね? それで僕が幽霊じゃないことを証明できるかもしれない。続きを聞かせてよ」
「そうね」彼女は視線を、ちょっとだけ横へ逸らした。
「『未来』の欠落はシンプルよ。幽霊には未来がない。だから目標、夢、希望、そんなものが必要ない。そして必要のないものは、いずれ消えてしまう」
そこまで言って、一度言葉を切った。
そして彼女は息を吸い、ため息とともに続けた。
「つまり幽霊には、"生きている理由"がないの」
「生きている、理由……」
無意味に復唱した。それはどう取り繕ったって、僕にはないものだった。
とうとう、何も言い返せない。ただ沈黙が流れる。
店内は涼しいというのに。たらりと、額を汗が伝った気がした。
流れる汗を袖で拭った。道理で汗をかくわけだ。どうして僕は、長袖なんて着てきたんだろう。こんな蒸し暑い日に。
抱いてしまった疑問は、池に落とした石ころのようだ。水面は揺れ、波紋は広がる。揺れを止めようと足掻くほど、なおさら広がる。
「僕は生きてる、よね」
「どうだろうね」少女は、僕の言葉を肯定してくれない。
「でも、今日は終業式の日でしょう? あなたが普通の学生なら、昼過ぎに私服でこんな所にいないんじゃない?」
そうだ、彼女の言う通りだ。僕はなぜ今ここにいるんだろう? それは答えたくないんじゃない、答えられないんだ。だって理由なんかないから。学校にも行かず、ふらふらとオカルトを求めるだけの僕は。心臓を動かし、息をして、頭で考える。そんなことが『生者の証明』だと思い込んできた。
けれど、もしも死んでいなかったとして、僕は『生者』だろうか? 電源が点いてたって、中身が空っぽの自動販売機は『中止』だ。
グラスに入った氷が溶け始め、カランと小さく音がした。僕は、それを眺めているだけだ。
生きている理由……か。
「僕にも、夢があったんだ。進学校でもてはやされるより、オカルト作家になりたかった。つい夢中になりすぎて、授業にも付いていけなくなって"自主退学"なんてことになったけど、後悔はなかったよ。むしろ『小説に集中できる』ってせいせいしたくらいだった」
でも、と続ける。彼女にではなく自分に向けて。
「でも……そこまでのめり込んだ小説さえ、限界を知った。そうしたら、残ったのはオカルト好きな、空っぽの僕だけだったよ」
「待って。今更だけど、さっきの話が全部当てはまってたとしても、それが幽霊の証明になるわけじゃないわ。もしもあなたが本当に生きてるなら、何も気にする必要はない」
どこか焦ったように言うものだから、可笑しくて、僕は少し笑いが漏れた。
「そうかな? 僕はそう思わないな」
「え……?」
「もしも僕が死んでいなかったとして。今の僕は、やっぱり幽霊だよ。今日ここにいる理由も答えられない、ぼんやりした存在だ」
少女は眉をひそめると、僕をねめつけた。
「自分が生者か幽霊かも分からないくせに、死生観でも語るつもり? 馬鹿馬鹿しい。生きてるなら生者、死んでるなら幽霊、ただそれだけよ。あなたが決めることじゃない」
「いいや、生者か幽霊かも分からないからこそ、自分で決めるんだ。そうじゃなきゃ、生きてることの証明なんて永遠にできない」
「それが馬鹿馬鹿しいって言ってるの! 誰がなんと言おうと生きてるなら生きてるの、証明する必要なんてない!」
「……それは、誰の話?」
「えっ?」目を丸くして、数回まばたきをした。
「君が僕に言ったんじゃないか。幽霊じゃないことを証明しろって」
「そ、れは」言葉を詰まらせた。
「証明できないなら幽霊だと認めろと言ったのも君だ。なのに『生きてるなら証明する必要はない』って?」
「…………」苦虫を嚙み潰したような顔をして、俯いた。
「僕が、当ててあげようか」
「いらない」
「いいや言うよ。いいかい、君が本当に『幽霊なんじゃないか』と疑っているのは、君自身なんだ」
「……馬鹿馬鹿しい、私は幽霊なんかじゃない」
「そうかな? でも今日は終業式の日だ。『普通の学生なら、昼過ぎに私服でこんな所にいない』よ」
さっき聞いたセリフをそのまま口にした。そして続ける。
「君は『この席にはいつも幽霊がいる』と言った。それはつまり、君もいつもここにいるってことだ。実際、電球の種類が違うことも知ってたくらい、君はこの店に詳しい。だというのに、幽霊の噂は知らなかったのも不自然だ」
僕は、俯いた彼女の頭を見据えた。
「君は、どうしていつもここに来ていたのか、答えられるのかな? もしくは『未来』でもいい。夢や目標は? "生きている理由"は言えるのかい?」
身動き一つせず、何も答えない。しんと静まり返った店の奥からは、水の流れる音が聞こえてきた。
長い数秒の後、ようやく、彼女はぽつりと言った。
「幽霊なのは、あなたよ」
「かもね。僕らのどちらかが幽霊なら、それはきっと僕のほうだ。でももし、ここにいる幽霊が"二人"だったら?」
言葉を継ぐ。
「この店の噂が本当なら、君は『普段見えない人に見える』ことが多い幽霊なのかもしれない。毎日この薄暗い席に座っては、自分にしか見えない幽霊を眺めて『自分は幽霊じゃない』と安心している。もしそうだとしたら、」
「やめて!」彼女は遮った。「さっきからうっさいのよ! 幽霊なんかに説教される筋合いない! 私はお前たちのせいで――!」
と。はっとした様子で口をつぐみ、彼女は怒りにゆがめた顔を苦々しく背けた。
「『お前たち』っていうのは、幽霊のこと? 何かあったの?」
「…………」息を吸う音。それから、ハアと吐く音が聞こえた。
「みんなに見えないものが見えて、みんなに聞こえないものが聞こえる。その面倒があなたに分かる? 一度でも間違えれば、私は妄想と現実の区別もつかないと思われる。そのうざったい妄想どもは遠慮なく部屋にもお風呂にも入ってきて、こっちは気が休まる暇もないっていうのに」
「妄想、って。幽霊は実在するんじゃ?」
「私以外に見えないなら同じことよ。実際、何人かは私の妄想かもね? 誰にも証明なんてできやしない。私は――私が正常かどうかも分からない」
怒気の混じった言葉が、早くなった口からこぼれ出た。それから一瞬の沈黙。その間に彼女は息を整えた。
「……もう疲れたのよ。何をするにも、人よりずっと体力を使う。なのにそれを、理解してくれる人を見つけることさえ、私には誰より難しい」
もう疲れた、と彼女は繰り返した。
「だからもう、全部疲れただけ。頑張ればもっとうまくやれるかもしれないけど、疲れるからやらない。学校にも行かないで毎日ここで、本でも読んでるだけ。私にはその方がいい。だって、その方が疲れないから」
身じろぎ一つせず、声も表情も揺れさせることはなく、ただ淡々と並べられた彼女の言葉の一つ一つが、その心に沈殿したへどろの深さを表しているようだった。
僕は考える。『疲れた』と彼女は言う。もはや人と関わることすら面倒で、だから未来も考えないという。その考えに僕は共感できない。ただ……分かったこともあった。
「君はずっと、今も悩んでいるんだね。幽霊と自分の違いが、証明できないことを」
「悩む? 訳知り顔で意味の分からないことを言わないで。証明できなくたって、私が幽霊じゃないことに変わりはないわ」
「そうだね。でも、もし君が本当にそう思っているなら、最初から答えなかったんじゃないかな」
「……はあ?」
「だって、話す前から僕が幽霊だと確信してたんでしょ? だったら声を掛けられても無視すればよかったじゃないか。『証明できなくたって幽霊じゃない』なら、二人のどちらが幽霊かなんて議論する意味がない。それなのにわざわざ答えたのは――『自分は幽霊じゃない』と証明したかったからじゃないのかい」
少女は、ふっと鼻で笑った。「答えたのはただの気まぐれよ。同年代の幽霊は珍しいから」
「なるほど。同年代の幽霊のほうが自分との比較もしやすいわけだ」
「……どこまでも。あなたはそういうことにしたいみたいね」
「ああそうさ。だって君は『疲れた』と言った。どうしてそんな言い方をしたんだろう、『諦めた』じゃダメなのかな。……ダメなんだろうね。『諦めて』しまったら、自分が本当に幽霊になってしまうと君は感じている。だからこそ現状を『疲れた』という言葉で保留してるんだ。そして君は、目の前に座る幽霊に求めてるんだよ。『自分は幽霊じゃない』と証明できる何かを」
「……っ」何か発そうとした口からは言葉が出てこず、彼女はただ唇を噛んだ。
「悩んで、その答えさえ他人に期待して毎日を無為に過ごすだけ。僕から見ればそれこそ、とても幽霊的だよ。君はまず、自分が幽霊だと認めるべきだ」
ガタン、と音を立てて彼女が立ち上がった。直後、彼女自身も驚いた様子だった。
しかし僕は、彼女の言葉を待たずに続けた。
「全能の神様だって、一度死ななきゃ生き返ることはできない。ましてや生きてるうちに『生き返ろう』なんて思えるはずもないんだ。そうだろ? まず幽霊だと認めなきゃ何も始まらない」
諭すような、力強い言葉が口を出る。不思議なものだ。自分のことは見えていなかったのに、彼女のことはよく見える。
「だから君が生きているなら――生きていればこそ、自分が幽霊だと認めなきゃいけないんだ。もう一度、生者に戻るために」
「……ほんと、笑えるわ」少しも口元を緩めずに言った。
「あなたは何も分かってない。もう一度やり直したって問題は何も解決してないのよ。私の周りは何も変わってない。どうせ、また同じことになる」
「それでもいいのさ。分かったんだよ、それこそが『幽霊じゃない証明』なんだ」
僕は息を吸って、吐いた。
「生者とは"死ねる者"だ。そして幽霊とは、単に死んだ者のことじゃない。死んだことも認められず、逃避して、立ち止まって――ただ生きてるふうに振舞うだけの、虚無のことだ」
まさに僕のような、と心の中で付け足した。
「人間は何度だって生き返れるんだ。自分を殺した世界はそうそう変わってくれないけど。また同じように死ぬだけかもしれないけど。それでも生まれ変わって、少しずつ変わっていく。それが、生きるってことなんだと思う」
僕は、すっかり氷の溶けきってしまったグラスに目を落とした。
「この水はたぶん、君が飲むべきだよ。君に飲む意思があれば、の話だけどね」
「じゃあ、あなたは」
「どうかな。でもさ、さっき財布がないって気付いたんだ。バッグに入れてたはずなんだけど、そのバッグも見当たらないし」
喫茶店に来ているのに荷物の一つもないなんて、おかしな話だ。僕は……僕は、どうしてしまったんだろうな。
「まあ。財布もないのに、水だけご馳走になるわけにもいかないしね」
立ち上がると、向かいの少女は気まずそうに顔を逸らした。僕もすぐに振り返って、出口へと向かう。
地面に引っぱられでもしているみたいに体が重く、何度もつまずきそうになった。曖昧になっていく視界と思考とは裏腹に、皮肉みたいに心臓はうるさい。
なんとか出口に辿り着くと、扉に手をかけて開いた。
ちりん、と扉に付いた鈴が鳴った。一歩外に出ればまだ太陽が地上を照らしていて、なのに暑さを感じなかった。
ああ。僕は、やっぱり――
そして、絶望によく似たほんの少しの安堵とともに。あっという間に、僕の意識は蒸発していった。
冬の日。友達だった人に、冷えきった指を首元に当てられたことがあった。
そんな感覚を思い出した。
「…………あれっ」
冷たさに驚いた体は、当然のように目を覚ました。当たり前のことのはずなのに、どこか納得がいかない。
僕は直前の記憶を思い出す。たしか、僕は死んでたんじゃなかったっけ? いや、死んだ記憶はないんだけれど。
そもそもここはどこなのだろう? 首の後ろをゴムのような弾力の何かで冷やされながら、やけに狭い部屋の、ベッドの上に寝ている。
「大丈夫ですか?」と、水色の服とビニール手袋、マスクを着けた男性が顔を覗いた。まるで救急隊員のような
――ってそうか、ここ救急車の中か!
動き出した車内の揺れとハッキリしてきた頭が、ようやくその答えを導いた。
そうか、僕は店を出てすぐに倒れたのか。そして誰かが救急車を呼んだんだ。いや……でも幽霊なのに、救急車?
「須東さん、大丈夫ですか。意識ははっきりしてますか?」
紙に何かを書く手を止め、男性が顔を覗いてもう一度声をかけた。
「あ、はい、大丈夫です。というか僕が見え――じゃなくて、どうして僕の名前を?」
「バッグの中に学生証があったので拝見しました。親御さんにも学校から連絡してもらいましたから、安心してください」
バッグ? 彼の視線の先に置いてあったそれは、紛れもなく僕のものだ。しかし、僕は何も持っていなかったはずじゃないか。
「君は熱中症で倒れたんですよ。記憶はちゃんとありますか? 今の具合はどうですか、気分が悪かったりは?」
「熱中症、ですか。倒れたところは何となく覚えてます。具合も――今は特に何とも。それよりその、救急車って誰が呼んだんですか?」
「? あの喫茶店の店長じゃないですか、多分」
『あの喫茶店』ということは、さっきまでの記憶は本物ということか。とりあえず、全部夢だったなんてオチではなさそうだ。
落ち着いて、情報を整理しよう。僕は喫茶店を出たとたんに熱中症で倒れ、今は救急車で運ばれている最中だ。これは間違いない。
となると、不思議な体験ではあったけれど、あの少女と話した記憶もおそらく本物だ。
しかし気になることが二つ。一つは持っていなかったはずの荷物が、なぜか今ここにあるということ。
そしてもう一つ。僕は……どうやら、生きていたらしい。
「とにかく飲めそうなら、ゆっくりでいいのでお水を飲んでください」
男性に紙コップに入った水を手渡された。受け取り、恐る恐るそれを口に含む。ごくり、と生ぬるい水が喉を通った。
「うん、ちゃんと飲めてますね。あのお店の店長、グラスの水が全然減ってなかったって言ってましたよ。駄目ですよ、室内は涼しくてもちゃんと水分は摂らないと」
「す、すみません」
まだ水の残ったコップを台に置いた。つまり、あれは"僕に出した水"だったということだ。
だけど、だとすると、彼女は……
「あの、さっきのお店って、店長の他に誰かいませんでしたか? 僕と同じくらいの女の子とか」
「? さあ、お客さんはずっとあなただけだったと聞きましたけど。お友達が一緒だったんですか?」
「いやっ、友達、ではないんですけど」
頭が真っ白になって、続く言葉が出なかった。幽霊は……彼女のほうだった?
そんな、そんなことがあっていいのか。彼女は、僕よりずっと"生き返れた"はずじゃないか。
彼女はただ、生まれつきの環境に翻弄されてしまっただけだった。僕とは違う。僕は何度も挑戦して、その末に気付いてしまった。自分は『オカルト好き』で『小説を書きたい』、ただそれだけで、目的も目標もないカラッポな人間なのだと。そして、そんな人間が上達するはずもないことも理解して、その上で『それでもいいか』と思えてしまう自分に、気付いてしまったのだ。
僕は幽霊だ。何よりも『幽霊でいい』と思ってしまっているがゆえに、幽霊なのだ。
でも彼女は、そうじゃなかったのに。
「――ああそうだ。熱中症のほうはもう問題なさそうですけど、倒れた時に頭を打っているようですので、念のためこのまま病院に搬送します。なので今のうちに、あなたからも親御さんに連絡を」
言葉を続けない僕に愛想を尽かしたのか、彼は話を切り上げ、傍にあったバッグを掴んで手渡した。
僕は言われるがままに受け取って中を開き、スマホを探した。するとスマホより先に、見覚えのない物が見えた。
「……本?」
取り出してみると、その茶色いブックカバーには覚えがあった。彼女が読んでいた、あの文庫本だ。
どうしてこれがバッグに? 無性に気になって、適当なページを開く。
中身は普通の小説だった。だが、見たところ日に焼け紙もよれ、随分と人に読み込まれた様子だった。
タイトルは……カバーをずらして表紙を見る。タイトルは『サリエルの白日夢』か。知っている。というか読んだこともある。6年前に出版された未完の小説だ、ジャンルは僕の好きなオカルト。
カバーを元に戻し、ぱらぱらとページを流し見た。本を見ればあの少女のことが分かる、なんて期待はしていないけれど。ただなんとなく。
指が最後のページにたどり着いた。ふむ、文庫とはいえ初版本か。と感心していると、その余白にボールペンで書かれた文字を見つけた。
そこには大きく『7月11日!』と書かれていた。
だがしかし、その文字には上から線が二本横に引かれていて、その下に『11月20日』と新たな文字が。
けれどまた取り消し線が引かれて、下に小さく『5月9日』と。
さらに同じように取り消され、下に『8/20』。
そして最後は取り消し線でなく、ぐしゃぐしゃとした乱雑な線で消されていて――その下にはもう、日付は書かれていなかった。
それもそのはず。ここに書いてあるのは全て『サリエルの白日夢』の下巻の発売予定日なのだが、しかしその本は発売延期を三回も繰り返した挙句、その日が来る前に作者が亡くなってしまったのだ。
結局、今現在も下巻は世に出ていない。何年も続きを待ち望んでいたファンたちは、それはもう悲しみに暮れたという。未完で終えるのはあまりにもったないと、最近では『自分たちで続きを書こう』なんて動きもあるとか。
僕は、本に目を落としていた彼女の顔を思い出す。彼女もファンだったんだろうか。何度も読み返したこの本に、何度も発売日をメモするほどに。
だとしたら、延期が発表されるたびに肩を落とし、発売日が発表されるたびに胸を躍らせたことだろう。
なのに、続きも読めないまま……
「ん?」
もう何も書かれていないと思ったがよく見ると裏表紙の裏面に真新しい文字が書かれていた。
急いで目を動かす。そこには、
「あのー、携帯は?」訝しげな声をかけられ、ぱっと現実へ引き戻された。
そうだ、今はスマホを探していたんだった。
僕は慌てて本をバッグに戻し、すぐにスマホを見つけて取り出した。
「…………」
僕はスマホを置いた。
「ちょっと、すみません」
「?」
空いた手を伸ばして、台の上の紙コップを取った。
未練があるからこの世に残り、未練が消えればあの世に行ける……なんて、所詮は創作話だ。だって僕は本物の幽霊を知らない。
だから、彼女がいつもあの席にいるというのなら、もっと幽霊のことを知ろう。知りたい。
そうしていつか、オカルト作家にでもなれたなら――
僕は紙コップを口に運び、残っていた水を一気に流し込んだ。もちろん乾き切っていた体には、それだけじゃ足りない。
足りない、全然足りない。もっともっと、まだ喉はからからだ。
僕はもう、自分が生きているかさえ分からなかった。
「はぁ、びっくりした。お店の前で倒れちゃうなんてねぇ」
救急車が去っていき、ようやく落ち着きを取り戻した店内で母が言った。
「でもあの子、どうしてお水飲んでくれなかったのかしら。お水も飲めないほど具合悪かったとか?」
「いや、アレはただの"知恵熱"でしょ。難しく考えすぎる人だったから」
私はカウンター席で頬杖をついた。「だから『生きてるなら証明なんていらない』って言ったのに」
「? また幽霊の話?」
「一応そう、かな」
「ふうん。とにかくケイもいつもお水飲んでないし、熱中症には気を付けなさいね。それとあんた、また準備中の札出し忘れてたでしょ。ケイのお友達しか入ってこなかったからいいけど、お客さんに見られたら大変なんだからね」
お友達、じゃないけど。面倒なので訂正はしない。
「前にも言ったけど、店主の娘でも従業員として働いてる以上、客席でくつろいでるなんてバレたら絶対ダメよ」
「うん、ごめん。分かってるよ。もうあそこに座るのはやめる。札のことも本当、うっかりしてて」
「いやまあ。ケイは色々と大変だし、気を付けてくれるならいいんだけどね。変な噂でも流れるとお店が大変なのよ。元々ここ、住んでた人が火事で亡くなったとかで、いわくが――」
「あ、お母さん、もう」
「え?」
「……いや。とにかく、もう、あそこには座らない」
『もう変な噂は流れてた』と言いかけて、言っても何の得もないなと寸前で思い留まった。そして代わりに
「私、夏休み明けたら学校行くから」
「へ? ど、どうしたの急に。ってこれ、理由訊いてもいいやつ?」
「変な気遣わないでよ。いつまでも家の手伝いだけしてるわけにいかないでしょ? それに本も貸しちゃったから、彼に会わないと。学生証には住所書いてなかったし」
言いながらふと視界に時計が入り、そろそろ営業再開だと気付いた。
「そっか。ケイがそう思ったなら、それがいいわね」母は穏やかな声で答えた。かと思うと、すぐにいつもの軽い調子へ戻った。
「ところで貸した本って、いつも読んでるあの本のこと?」
「そう。彼のバッグを背もたれにしちゃってたから。お詫びも兼ねて貸してあげたの」
私は椅子から降りて、端っこの薄暗い席まで歩く。
さっき――その椅子を立ち上がった瞬間。背中の感触に気が付いて、それはもう驚いたものだ。そりゃあ彼がどれだけ見回したって、バッグが見当たるはずもなかった。
まあ。だから、というほどでもなかったけれど。『オカルト作家になりたかった』って言ってたし。
私は席まで着くと、水の入ったグラスを持ち上げて簡単に机を拭いた。
「でも驚いたわ」わざわざ傍まで近づいてきた母が、感心の声を漏らした。
「ケイ、人と話すの苦手だったわよね? いつの間に克服して、大事な本まで貸せるお友達を作ったの? しかも男の子!」
「別に克服してない。元々、幽霊と話すのは苦手じゃないし……それに、ただ貸したわけじゃないし」
「?」
母は疑問符を浮かべた。わざと分からないように言ったんだから無理はない。
机を拭き終えた私は、右手にグラスを持ったまま席を離れ、カウンターの中へと入った。そのままシンクへ向かう。
「それにしても、ケイってあの小説ほんと好きよねぇ。今度私も読んでみようかしら」
カウンターの向こうで母が言った。そのセリフは、もう何度も聞いた覚えがあるけれど。
「んー、いや、まだ読まないほうがいいと思う」
私はグラスの水を一息に飲み干して、流しへ置いた。
「私が下巻を読むまでは、ね」
(End)
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