【外伝③】琥珀色の音

 ――昔から、音楽が好きだった。

 生まれてからずっと、私の周りには、常に音楽が溢れていた。

 ライブハウスを営んでいる両親の影響でギターを弾くようになったのも、その技術を見込んでもらって人前で演奏するようになったのも、全ては音楽を愛していたから。

 でも本当は、ギターを弾くことよりも好きなことがあった。


「――~~~~♪」


 一人に一つしか持つことが許されない、この世界で唯一無二の『音』。

 ……私は何よりも、人の声を聴くことが、そして歌うことが大好きだった。






「こんにちは、勇佳ちゃん」

「あ、お疲れ様です、金井さん」


 それは、小学5年生の春休みのことだった。

 後1カ月足らずで、私は小学校の最高学年に進級する。それは誇らしくもあったけど、同時に校内で様々な責任を負わなければいけないことを意味していて、何とも言えないプレッシャーを私に与え続けていた。

 こういう落ち着かない時は、音楽に触れるに限る!という思いつきで、私は春休みに入ってから、休むことなくライブハウスで運営のお手伝いをしていた。


「今日のライブ、どうだった? 結構良かったっしょ」

「はい、すごくかっこよかったです。圧倒されちゃいました……」


 金井さんは、うちの常連さんだ。スリーピースバンドを組んでいて、ベースボーカルを担当している。気の良いお客さんで、ライブが終わった後は、こうしてよく声をかけに来てくれるのだ。


「勇佳ちゃんさ。ちょっと大事な話したいんだけど、今って時間あったりする?」

「え、大事な話ですか……?」


 突然改まった口調でそんなことを言われ、びっくりしてしまう。

 普段はニコニコ陽気な印象があるだけに、真剣な話題というのは一層緊張感があった。


「……勇佳ちゃんさ。バンドって、興味あったりしない?」

「バンド……?」

「そう。勇佳ちゃん、ギターも歌も上手いからさ。ぜひ、俺達のバンドに入ってほしいなって思ってて」


 ずいぶんと急かつ大胆な勧誘。

 当然『はい分かりました』と頷くこともできず、戸惑いながら問い返す。


「えっと、ば、バンドに入るって、具体的にどういう……」

「ほら、俺達ってスリーピースだろ? 正直、ベースボーカルって、楽しいけど結構しんどくてさぁ。できれば、ボーカルを兼任してくれる人がもう1人ほしいんだよな。後、音数増やすためにも、ギターをもう一人入れたいと思ってて。そうなったら、もう考えられるのは一択だろ?」

「ギター、ボーカル……」

「そう、そういうこと!」


 グッと親指を立てる金井さんのことを、私は困った顔で見つめ返した。

 ……こういう風に誘いを受けたことは、今までにも何度かある。

 ただそのどれもは、いわゆる社交辞令のようなもので、『いつもライブの運営手伝ってくれてありがとう』というお礼代わりの挨拶のようなものだった。だから私も、『そうですね、いつか機会があれば』なんて上手くかわすことができていたのだ。

 でも、今回は多分違う。

 金井さんの瞳に宿っている熱情が、冗談ではなく本気の勧誘なのだと、私に訴えかけてきていた。


「で、でも私、小学生ですよ……? 金井さん達って、みんな社会人なんじゃ……」

「最年少は高校生で、俺が最年長の社会人だな。ま、怖がっちゃう気持ちも分からんでもないけどな……。ただ、俺達はここにもう何度も通ってて、勇佳ちゃんの人柄とか技術とかも全部知ってるからさ。信頼してるわけよ」

「っ……」

「まぁ、そんな急に決めるのは難しいだろうからさ、お母さん達と相談しておいてくれよ。俺からも話はつけておくから」

「あ……」

「じゃあ、また次のライブで!」


 そう言って、金井さんはヒラヒラと手を振って去っていってしまった。

 ……自分の言いたいことだけ言って去るなんて、卑怯じゃないですか……。

 そんな言葉が喉元まで出かかったけれど、ここはグッと呑み込む。

 金井さんだって、善意で誘ってくれてるんだ。それは素直に嬉しい。

 でも、バンドか……。

 今まで、サポートギターとして、何回かステージに立ったことはある。当然年上の人ばかりのところに紛れ込んで演奏するわけだから緊張もしたけど、その経験自体はどれもすごく楽しいものだった。

 ただ、それはあくまで臨時のお助け要員として演奏しただけだ。正式メンバーとは責任の重さが違う。ましてや小学生の自分に、大人の人達と混じり合って一人前に演奏していく覚悟があるのだろうか。


「……」


 金井さんがいい人なのは十分理解している。

 でも、きっとあの人達は、誰よりも本気で音楽をやっている。

 私みたいに、ただ好きだから、ただ楽しいからって理由じゃなくて、ちゃんと上を目指してる……――。

 バンドをやってみたいという好奇心こそあったが、それ以上に私の中には、バンドメンバーになるにあたって伴う責任の重さへの不安があった。






「え、いいんじゃない? やってみたら?」


 しかし、私のそんな気持ちとは裏腹に、母の言葉は楽観的なものだった。

 その日の夜、私は両親に金井さんから持ち掛けられた話の内容を打ち明けていた。それに対する母の反応がこれだ。


「金井さんのことは十分信頼できるし、練習場所もこのライブハウス周辺にしてもらえば問題ないと思うし。正式に入るのが怖いなら、お試し期間みたいな感じで組んでもらえばいいんじゃない?」

「お試し……」

「うん。ちょうど金井さんからさっき連絡来てて、勇佳のことバンドに誘ったって聞いてたのよね。その時言ってたわよ、『お試しでもいいから入ってほしい』って」

「そ、そうだったんだ……」


 まさか、すでに母親の方に連絡が行っていたとは。

 金井さんの行動の速さに驚きながらも、一人考え込む。

 お試し、か。

 確かにお試しであれば、正式メンバーに比べて責任は減るし、何か問題があっても抜けることができる。それだったら、少し気楽に接することができるかもしれない。

 今まで特定の誰かと組んで演奏したことは、サポートメンバーとして以外なかったけど、これも何かの良い経験になるかもしれない。


「……分かった。そしたら、期間限定で、お試しバンド、やってみようかな……」

「うん、いいと思うよ。大丈夫、何かあったら必ず助けるから。ま、金井さん達との付き合いも長いし、平気だとは思うけどね!」


 そう言って、母が私の頭をポンポンと撫でる。

 こうして私は、限定バンドメンバーとして、金井さん達と一緒に演奏していくことが決まったのだった。






 それから私は、定期的に金井さん達と一緒にセッションをするようになった。

 金井さんと同じバンドのメンバー達は、私のことを快く受け入れてくれた。楽器の技量も高くて、私達の演奏は日に日にそのクオリティを上げていった。

 お試し期間二週目のある日、ライブハウスで試しにライブに参加させてもらった。サポートメンバーとしてではなく、一人のバンドの仲間として紹介されるのは、仮のメンバーとはいえどこか誇らしかった。むず痒さを感じながら弾いたギターの音色は、今までで一番輝いていたと思う。

 その日から私達の練習日は増え、ライブにも進んで出るようになり、全体の士気がどんどん上がりつつあった。私自身も、新しい環境を純粋な気持ちで楽しめていた。

 だけど……。


「今回のボーカルは、俺にやらせてくれないか?」

「いいぜ。そしたら、この曲のキー、調整しなきゃいけないな」

「あー、それだったら、今日の夜やっとくよ。ついでに作業通話しない?」


 それは、セッションした後の、ちょっとした休憩時間だったり。

 あるいは、ライブ前の待機時間だったり。

 タイミングはまちまちだったけれど、たまにふと、彼らの纏う仲間内の空気感に、ついていけてないと感じる瞬間があった。

 多少は仕方がないことなのかもしれない。彼らとは過ごした時間も年齢も違う。ある程度は覚悟していたつもりだった。

 それでも、ふと感じてしまうのだ。今、私がここにいなくても、大して影響はないんじゃないかと。じゃあどうして私は、今ここにいるのかと、つい考えてしまう。

 そんな私の葛藤を見抜いたのだろうか。お試し期間が始まって一カ月ほど経った頃、金井さんから一人で呼び出しを受けた。


「ちょっと、二人で話さないか?」


 その日は、馴染みのスタジオで練習をした帰りだった。他のメンバーには先に帰ってもらい、私と金井さんは近くのコンビニの前で立ち話をすることにした。


「ほら、やるよ」


 金井さんが、コンビニで買ってきたアイスのカフェラテを差し出してくれる。


「あ、ありがとうございます……」

「あ、いつものことながら、お金はいいからな?」


 鞄から財布を取り出そうとした私の動きを見て、金井さんが素早くそう言葉を挟む。

 よく考えてみれば、これまでのスタジオ代やこういうちょっとした食費は、全部金井さんや他のメンバーの人達が補ってくれていた。そういう意味では、私の待遇はかなり良かったと言える。

 これ以上を望むのは、間違っているのかもしれない……。

 そんな風に感じながら、私はカップに口をつけた。


「お試しを始めてみて、そろそろ一カ月くらい経つけど。どう? うちのバンドは」

「あ……。えっと、すごく、楽しいです。皆さんすごく良くしてくれて……。こんな風に、同じメンバーで何度も音楽やるって、今までなかったので。それが、すごく新鮮でした」

「そっかそっか」


 金井さんが微笑みながら、濃い色のコーヒーを呷る。


「楽しめてるんなら良かった。ほら、結構強引に誘っちゃった節もあったからさ。もし迷惑に思われてたらどうしようって思っちゃって」

「そんなこと……! むしろ、私が足を引っ張ってないか不安なぐらいで……」


 彼らの技術は、日に日に高まっていた。練習量が増えたというのもあるけど、メンバーが増えたことで演奏に安定感が生まれたのだと思う。それぞれが自分のパートに打ち込めているのが、演奏中によく伝わってきた。


「勇佳ちゃんはいつだってすごいから大丈夫だよ。ただ……ちょっとだけ、話しておきたいことがあって」

「……?」

「一緒にいて、薄々感じてるかもしれないけど……。俺、今、本気でプロを目指そうって考えてるんだ」

「!」


 彼の言葉に、私は大きく目を見開いた。


「もちろん、大それた夢だって分かってる。うちのバンドは年齢もバラバラだし、現実的じゃないってことも……。でも、目指さないことには何も始まらないだろ? みんなで演奏してて、ずっと考えてたことだったんだ」

「そう、だったんですね……」


 ずっと、予想はしていたことだ。

 彼らの、演奏に対する熱量。そこに、私と違う想いがあることは、ずっと分かっていた。

 分かって、目を逸らし続けていたのだ。


「俺個人としては、勇佳ちゃんが一緒に来てくれたら嬉しいなって思う。ただ、まだ小学生の子に背負わせるには大きなことだと思うし、勇佳ちゃんのやりたいことが必ずしもバンドだとは限らないだろうから、無理強いはしない。少なくとも、今はバンドお試し期間だしな。ただ、もし本気で検討してくれるっていうんなら、俺は歓迎するよ」

「……他の人は、どう考えてるんですか……?」


 ふと、気になって聞いてみた。

 金井さんは自分自身の意見を伝えてくれているけれど、他のメンバーのことは話題に出してこなかったから。


「あぁ、他のやつらか? 俺と概ね同じ意見だと思うよ。ただ、それぞれがプロになることに対してどこまで本気かは分からない。夢見ているのはみんな同じだと思うけど、じゃあそれをどこまで現実にしようとしてるかはそれぞれだと思うし……。まぁ、そこら辺も含めて、一度全体で話し合いたいとは思ってるんだけどな」

「話し合い……」


 ということは、そこまでにある程度自分の意見を固めておいた方が良いということだろうか。

 私がそんな淡い緊張感を抱いているのを察したのか、金井さんは突然私の頭にポンと手を置くと、


「……あんまり、真剣に考えすぎるなよ?」


と言って笑った。


「勇佳ちゃんは真面目だから、こういう雰囲気で話すのは良くなかったかもしれないな。もうちょい軽いノリで話すべきだったわ、ごめんごめん」

「いや、金井さんが悪いわけじゃ……」

「そうかもしれないけどさ。こういうのは、リーダーである俺がちゃんとするべきことだと思うから」


 そうやってまた、一人で全部背負い込もうとする……。

 金井さんはすごく面倒見が良かったけれど、こうやってメンバーの責任を全部一人で抱え込もうとする節があった。他の人達はそれをやんわり防いでいたけれど……でも、子供の私には、その任は務まらない。


「ひとまず、お試し期間はまだ続けてくれていいからさ。今の話、軽く気に留めておいてくれ」

「……」

 

 その場で私は、ただ黙って頷くことしかできなかった。


「ありがとうな、話聞いてくれて」

「いや……」

「それじゃあまた明後日、今度は勇佳ちゃん家で頼むよ!」


 陽気な笑顔を浮かべて、金井さんが去っていく。

 本当に、太陽みたいな人だな……。

 明るくみんなを照らして、時にはそっと支えて、ひとしきり輝いたらあっという間に去っていく。

 空は、まるで金井さんの去り際に釣られたように、優しい夕焼け色に染まりつつあった。






 それからしばらく経ち、ついに春休みが終了した。

 新しい学年になったが、生活に大きな変化はない。金井さんには、『もう少しだけお試し期間を続けさせてほしい』と頼んであった。


『うん、いいよ。勇佳ちゃんの心行くままに楽しんでいってよ』


 金井さんはそんな風に言ってくれていたけど、それが彼の優しさゆえに成り立ってる関係なんだってことは、私も重々承知していた。

 できれば、早めに結論を出したい。

 春休みが終わって数日後、私は久々にアコースティックギターを持ち、近所の公園に遊びに来ていた。

 朝はお散歩中のご老人がよく談笑していて、この時間は学校終わりの子供がたくさん遊びに来る。今は午後三時過ぎなので、ちょうど小学生達がぞろぞろとやってくる時間だった。

 彼らの賑やかな声をBGMに、私はケースからそっとギターを取り出すと、膝の上にその大きな楽器を置いて構えた。

 右手には何も持たず、そのまま指を弦にかける。

 ポロン……♪

 優しい音が溢れ、一部の子供達がこちらに視線をやるのが分かった。

 ……悩んでいることがある時は、ゆっくり音楽に浸るに限る。

 色々考えなきゃいけないことはあるけど、今はまず、この開けた空間で音を出して、気持ちをスッキリさせたい。

 たまにエレキギターで弾き語りをすることもあったけど、弾き語りは個人的にアコースティックギターでやりたいという信条が私の中にあった。今日は何を弾こうか。ゆったりとした空気の中でそんなことを考えながら、弦にそっと触れる。


「――――♪」


 ゆっくりと奏でられる音色が、徐々に空気に浸透していく。

 それに合わせてそっと口を開けば、聴き馴染みのある歌詞が次々に紡がれていった。

 ああ、やっぱりいいな、こういう時間。

 誰かと奏でる音も好きだけど、こうやって一人でじっくり演奏する時間もやっぱり楽しい。

 穏やかな気持ちのまま演奏を続けていると、周りには徐々に人が集まってきた。路上ライブをするのは久しぶりだったが、思いの外注目を集めていたらしい。

 普段はそんなに人前で話したりするのは得意じゃないが、どうも私は音楽を始めると心持ちが変わるらしく、大勢の人の前でギターを持ちながら歌っていても、そこに気まずい緊張のようなものは一切なかった。あるのは、音楽が好きという純粋な想いだけ。


「――~~~~……♪」


 一曲歌い終わり、小さく息を吐く。と、周囲から一斉に拍手が上がった。

 最初の方は小学生しかいなかったが、通りすがりの大人も足を止めて聴いていてくれたらしい。贈られる拍手に会釈で応えながら、もう一曲ぐらい弾こうかな、なんて調子の良いことを考え始める。

 ……いや、今日の目的は、自分の気持ちを確かめることだ。誰かにちやほやされに来たわけじゃない。

 家で一人で弾かなかったのは、こういう開けた空間で演奏した方が、開放感があって心に良いんじゃないかと思ったからであって、誰かに聴かせようと思って弾きに来たわけじゃない。今日はここまでにして、また後日来よう。

 次の曲を聴きたそうにしている人達に軽く頭を下げ、私はいそいそとギターを片付け始めた。演奏がこれ以上続かないことを察した人達が、まばらにその場を離れていく。

 ……しかし、しばらくしても、そこから離れない人が一人いた。ギターケースを背負い、さぁ歩くかというところで、その男性――見知らぬお客さんから、声をかけられる。


「すみません。少しだけお話、よろしいですか?」


 スーツを着こなした、清潔感のある大人の男性。

 年は……少なくとも、私の両親よりは若そうだ。手に、名刺のようなものを持っている。


「え、えっと……は、はい……」

「突然お声がけしてしまい、申し訳ありません。私、芸能事務所”Lienリアン”でスカウト活動を行っております、和泉と申します」


 その人は、私に持っていた名刺を差し出しながら、そんな風に自己紹介してきた。


「いずみ、かなと……」

「はい。現在、当事務所に所属していただける方を探しておりまして。先程の歌声と演奏に感銘を受けまして、こうしてお声がけさせていただいた次第です」

「は、はぁ……。えと、何のスカウトなんですか……?」

「端的に言ってしまえば、アイドルです。現在当事務所で、新規のアイドルグループを立ち上げたいと考えておりまして」


 あ、アイドル?

 提案が斜め上すぎて、最早身構えるどころの話ではなかった。


「あ、アイ、ドル……」

「はい、アイドルです。先程の歌声は大変素晴らしいものでした。現状、まだグループのメンバーを募集している段階でして……。よろしければ、少し検討していただけませんか?」

「は、はぁ……」

「こちらに連絡先が載っていますので、お困りの際はご連絡ください。それでは、失礼いたします。お時間をいただき、ありがとうございました」


 流暢に用件を伝えたその人――和泉さんは、爽やかな笑顔を浮かべると、優雅にその場を去っていった。ああいう人が、仕事のできる大人なんだろうなぁ……と、場違いなことを考えてしまう。


「……」


 いや、しかし。

 それにしても、アイドルって。

 ミュージシャンならともかく、アイドルはちょっと、音楽のジャンルが違いすぎやしませんかね。

 いささか疑問に思わないでもなかったけど、もらったものを捨てるわけにもいかないので、私はひとまずその名刺をポケットに捻じ込んで家に帰ることにした。






『え、アイドル!? 何それ、すごい楽しそう!!』


 話を家に持ち帰った私に真っ先にかけられたのは、母のそんなはしゃいだ声だった。

 

『アイドルだろう? まぁ確かに、勇佳の趣味ではないかもしれないけど……。それでも、プロはプロ。やっぱり、なっておくに越したことはないと思うけど?』


 父にも概ね似たような反応を示され、動揺してしまう。

 プロ。やっぱり、その響きは普通のものとは違って聞こえる。

 事務所に所属するということに、憧れがなかったわけじゃない。でも、それにどんな意味があるのか、まだ本当の意味では理解できていないんだろうと思う。

 それに……。

 もし私がプロになったとして、その時、金井さん達はどうなるんだろうか。彼らは、バンドとして私と一緒に歩むことを期待してくれていた。それを、裏切ることになってしまうんじゃないのか。


「っ……」

 

 自分一人で決断するには、あまりにも重すぎて。

 両親に相談しても、簡単には決められなくて。

 受け入れるには重すぎたし、突っぱねるには夢が大きすぎた。

 与えられた選択肢はすごく魅力的で、その分理想が私の心を締め付けた。

 ……ダメだ。自分の中で考え込んでても、何も出てきやしない。

 元々私は、嘘をついたり駆け引きをしたりは得意じゃない。ここは真っ直ぐ、ぶつかってみるしかないんだ。

 母にお願いしてスマホを借り、連絡帳から金井さんの番号をタップする。数コール待つと、いつも聞いている、明るく優しい声が電話口から聞こえた。


「あ、金井さん。すみません、急に電話しちゃって……。あの、少しお時間もらえませんか……?」






 バンドのメンバー達は、快く私の家――両親が営むライブハウスに集まってくれた。電話で呼び出しをしてから、僅か一時間後のことである。

 その日はたまたま全員予定がなかったらしく、『大事な話がある』という私の言葉を受けて、早々に家を出てくれたそうだ。比較的近所に住んでいるメンバーばかりとはいえ、驚異のフットワークである。


「……それで勇佳ちゃん。話って?」


 誰もいない、片付けられたステージの上で、金井さんが私にそう問いかける。彼の瞳が宿しているのは、いつもと変わらない熱情と、僅かな不安だ。


「えっと……口で説明するより、これを見せた方が早いかと思いまして……。これ、見てもらえますか?」


 私はそう言って、みんなの前に一枚の名刺を差し出した。

 それは、ついさっき和泉さんから受け取った名刺だ。事務所の名前と和泉さんの名前、それに連絡先が載っている、薄い一枚の紙。


「これは……」

Lienリアンって、確か、芸能事務所じゃなかったか……?」


 話の内容に、大体検討がつき始めたのだろうか。全員の表情が険しいものになっていく。


「これって、つまり……」

「はい。……スカウトされたんです、この事務所に」


 私の言葉に、全員の視線が一気に鋭くなった。

 でもそれは、私を非難するようなものではなく、話の真偽を確かめようとする、妥当な警戒心に基づいたものだった。


Lienリアン……。聞いたことはある。ただ、ここは音楽レーベルではなかったはずだ。どういう経緯でそんな話に?」

「なんか、新しいアイドルグループを作るために、女の子を何人か探していたみたいなんです。それで、その、路上ライブをしていたら、声をかけられて……」

「なるほど……」


 金井さん達が真剣な顔をして黙り込む。私も生唾を呑み込みながら、三人が言葉を返してくれるのをじっと待った。

 ……しばらくして口を開いたのは、金井さんだった。


「……それで? 勇佳ちゃんは、これを俺達に見せて、何を話そうと思ってたんだ?」

「あ……。えぇっと……」


 そうだ、これを見せたからには、何かを言わなきゃならない。

 そう思ったけれど、じゃあ自分が何を伝えたかったのかと問われると、実際にはよく分からなかった。

 ただ、この行き場のない気持ちが何なのか、そのヒントがほしかった……そんな感じだろうか。


「……これを受けて……私は、どうしたいのかなって」

「勇佳ちゃん……」

「私は別に、アイドル目指してたわけじゃないし、音楽も、ただ ”好き” だからやってて……。だから、それが正しいのか、よく分からなくて……」


 気がつくと、すっかり敬語が外れていた。

 幼い頃の自分に戻ったような気分になって、思いの外スラスラと言葉が出てくる。


「でも、純粋に歌声を褒められたのは……嬉しかった。私が一番好きなのは、ギターじゃなくて歌だったから」

「! そうか……」

 

 私の言葉に、金井さんが驚いたように目を見開いた。

 まぁ、無理もない話かもしれない。金井さんは昔から、私がギターをかき鳴らしている姿ばかり見てきただろうから。

 歌も歌ってはいたけど、ギターを手放して歌ったことは指で数えられる程度しかない。違和感があって当然だった。


「……どうすればいいか、分からなくて。この人……和泉さんは、私のことを認めてくれて、私に可能性を示してくれて。そのことは、すごく嬉しい、けど……でも、それにどう応えるのが正しいのか、分からなくて……」

「……」


 私の言葉に、メンバー全員が黙りこくってしまう。まぁ、仕方のないことだろう。ミュージシャンとしてではなくアイドルとしてスカウトされるなんて、想像もしていなかっただろうし。私だって戸惑っている。


「……勇佳ちゃんは、どうしたいんだ?」

「え……?」


 メンバーの一人が、不意にそう声をあげた。


「俺達は……前からちょこちょこ言ってたかもしれないけど、プロとしてバンド活動を続けていくことにずっと憧れてて……。だから、勇佳ちゃんの今の境遇は、正直、嫉妬心を抱いちゃうぐらいには羨ましいんだ。それこそ、バンドじゃない形だったとしてもな」

「……」

「ずっと、届かない夢だと思って、だから楽しいって気持ちだけで音楽を続けてきた。でも……もし、君みたいに、選択肢があるんだとしたら……俺は、それを手放すのは、もったいないって思う。だって、同じチャンスは二度と巡ってこないかもしれないから」


 告げられた言葉。その重みが、じんわりと心に沁みていく。


「……俺は、必ずしも事務所に所属することが全てじゃないと思う」

「!」


 今度は別のメンバーが、ポツリとそう口にした。


「事務所に入った知り合いがいるんだけどさ。やっぱ、プロになるって、ただ利益があるだけじゃなくて、その分事務所の看板を背負わなきゃいけないから、しがらみもいっぱいあるらしいんだよ。そういうゴタゴタに巻き込まれた結果、自分のやりたかったことが分からなくなったって言ってた」

「……」

「勇佳ちゃんの気持ちがどうかは分からないけど、自分に利益があると思えない限りは、安易な気持ちで踏み込むべきではない……と思う。いや、俺も何か、上手く言えないけどさ……」


 しどろもどろになりながらも、懸命に紡がれる言葉。

 ……みんな、本当に優しいな。

 私は、この人達に支えられてたおかげで、これまで自由に音楽ができてたんだなと、改めて思わされる。


「……まぁでも、最終的に決めるのは、勇佳ちゃん自身だからな」


 二人の言葉を受けて、最後に口を開いたのは、金井さんだった。


「俺の気持ちを正直に述べるなら……まぁ、悔しいってのが本音かな。だって、先を越されちゃったわけだしよ。ジャンルが違ってもプロはプロ、音楽に本気で向き合ってる人であることに変わりはない。特に勇佳ちゃんは、バンドって形態にこだわりもなかっただろうからさ。”歌う”のが好きなんだろ?」


 金井さんの言葉に、小さく頷く。

 そうだ。私が本当に愛しているのは、自分の気持ちを声に乗せて歌うこと。

 楽器を弾いていたのは、歌を歌うための伴奏を奏でる手段に過ぎなかった。


「勇佳ちゃんの挑戦を、俺達は応援する。でも、もし、それでも俺達と一緒にやりたいと望んでくれるんなら、当然俺達はそれを受け入れるさ。その時は、歓迎会と称して盛大にパーティーしようや」


 そう言って、金井さんが屈託なく笑った。


「……」


 本当は、複雑な思いを抱えているんだろう。

 自分達が夢見ていた世界にあっさりと足を踏み入れようとしている私のことを、もしかしたら許せないと思っているかもしれない。

 それでもこの人達は、そんな絡み合う感情を飲み込んで、私の背中を押してくれようとしている。

 私は……その期待に、応えたい。


「……ありがとうございます。たくさん、相談に乗ってくれて」

「いいってことよ。俺達の仲だろ?」

「ふふ、そうかもですね」


 迷いが、晴れたような気がする。

 そうだ、立ち止まっていても仕方がない。

 これでも、行動力には自信があるのだ。

 興味があるのなら、飛び込んでみればいい。後悔するのは、それからで十分だ。


「あの、皆さん。一つだけ、お願いがあるんです」

「お願い?」

「はい。……私、決めました」






 金井さん達と話してから、一週間が経過した。

 あの日と同じ、ステージの上――その脇で、私達は待機していた。

 

「まさか、ここでラストライブをしたい、なんて言い出すとは思わなかったよ」

「だって、事務所に所属したら、もう簡単にライブとかできないかもしれないし……」


 あの後私は、和泉さんに連絡をし、事務所へ加入することを決めていた。

 他でもない、私の歌声を評価してくれた人の言葉を、素直に受け止めたいと思ったのだ。それに、今まで全く関わりのない世界だったから、純粋な興味もあった。


「確かにな。勇佳ちゃん、遠い存在になっちゃうもんなぁ」

「! そ、それは……」

 

 口ごもる私に、金井さんは「冗談だよ、冗談」と言って笑うと、頭の上にポンと手を置いてきた。


「プロとアマチュアじゃあ、活動場所は違うかもしれないけどさ。それでも、俺達は長い付き合いの音楽仲間だ。それは、いつになっても変わらない」

「金井さん……」

「最後、とは言わせないぞ? ほら、これ。俺達からの餞別」


 そう言って金井さんが私に差し出してきたのは――綺麗な黄金色のピックだった。


「これは……」

「これから頑張れよっていう、応援の印。それから、ギターは弾き続けろよっていうメッセージでもある。……確かに勇佳ちゃんの歌声は魅力的だけど、ギターだってめちゃくちゃ上手いんだからな? ここでやめちゃったらもったいないって」


 はにかむ金井さん達の顔が、ライトに微かに照らされて、輝いていて。

 ……本当に眩しいなと、心から思った。


「……私、頑張ります」

「勇佳ちゃん……」

「金井さん達がくれた思い出……絶対に、忘れませんから」


 客席から、観客の期待に満ちた声が聞こえる。

 行かなきゃ。

 逸る足を抑えて、私はここにいるみんなを振り返った。


「……行きましょう!!」


 全員が、一斉に頷く。

 ステージに駆けだして、そのまま勢いよく弦に指をかけた。

 煌めく音色が照明に照らされて、琥珀色に煌めいていく……――。


 


  

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