【外伝①】菫色の夢
――このご時世、人脈が持つ力というのは、存外大きいものだ。
偉い人と知り合いになれば、その人から出世のチャンスをもらえるかもしれないし、喧嘩の強い人と仲良くなれば、いざという時に守ってもらえるかもしれない。
自分1人では成しえないことをするためには、必ず他の人の手を借りる必要がある。私はそれを、幼い頃から強く実感してきた。
両親が離婚し、経済的に苦しかった頃、あたしのことを助けてくれたのは、この恵まれた容姿とそれまでに積み上げてきた人間関係という名のパイプだ。そのおかげで、あたしは今、一人前にお金を稼ぎご飯を食べていくことができている。
”上手く人に助けてもらえる人間として生きる”。それが、あたしがこれまでの人生で培ってきたスキルだった。
「……何してるんですか」
「あ、かなと」
「……呼び捨てにしないでくださいって、何度言えば分かるんですか」
そう言って、かなと――あたしのマネージャーは、あたしの横にストンと腰を下ろした。
季節は夏手前。じっとりとした空気が暑さを連れてくる、汗が鬱陶しい時期がだんだん近づいてきているのを感じる。
「……かなとはさ。なんで、あたしにアイドルなんてさせようと思ったの」
「え」
「あたし、人前でしゃべったり歌ったりするの、別に好きじゃないんだけど」
あたしの言葉に、かなとは少しだけ顔を顰めると、
「……あなたに、向いていそうだと思ったからですよ」
と呟いた。
「向いてる? あたしが?」
「はい。あなたは人前で話すことを好ましく思ってないかもしれないですが、そのコミュニケーション能力を仕事に生かさないのは勿体ないですよ。才能があるなら、それはチャンスを掴むために惜しみなく使うべきだ」
「そうは言っても……」
彼の言っていることは分からなくもない。確かに、あたしのコミュニケーション能力は低くないと思う。でも、それが一体何だというのだろうか。
周りの空気を読み、自分が一番優位に立てるような言葉を選んで吐き出す。自分を取り繕ってるつもりはなかったけど、かといって、それが自分自身かと問われると微妙だった。
「モデルとして活躍できている今がチャンスですよ。新しい分野に手を伸ばしてみてもいいのでは?」
「新しい分野、ねぇ……」
あたしは遠い目をしながら、彼に聞こえない音量でため息を吐いた。
……かなとなら、あたしがなんでこんなところで黄昏れてるのか、その理由まで察してくれてると思ってたのに。
結局、仕事のことしか考えてないのかな、この人も。
事務所の隅の方にある非常階段。そこの踊り場で、あたし達は並んで地べたに座り込んでいた。
あたしがかなとと出会ったのは、確か8年前。
そのさらに2年前、両親が離婚し、あたしは母親に引き取られることになった。
うちは元々そこそこ裕福な家庭だったけど、どうやらその背景には、資産家だった父の家の援助があったらしい。そのありがたい助けがぱったりと途絶え、家計は突然困窮することになった。
それまでは一切働くという行為をしてこなかった母親も、さすがに焦ったのか、慌てて求人のチラシを読み漁り、様々な場所へ面接を受けに行っては落とされを繰り返していた。そして、会社員にこそなれなかったが、パートの仕事を掛け持ちすることで何とかあたし達2人の生活を回してくれていた。
そんな生活が2年ほど続いたある日のこと。その日、たまたま家に、母親の高校の同級生が遊びに来ていた。いわゆる同窓会というやつだったのだろう。
母親の友達だという理知的な女性は、テレビ局に勤めているらしかった。あたし達からすると縁遠い華やかな世界。日々忙しく、残業なんて当たり前だが、やりがいがあってその人にはとても合っているらしい。
そんな彼女が、あたし達に、とある話を持ち掛けてきた。
「……ねぇ。いい機会だし、ちょっと賭け事をしてみない?」
「賭け事……?」
「そ。って言っても、別にお金を賭けた博打をしろって言ってるわけじゃないよ。でも、そのルックスがあれば、芸能界でもワンチャンやっていけると思うんだよね」
その女性が言うには、あたしと母親の容姿が比較的整っているから、その人のコネで芸能界に潜り込めば、もしかしたら大成する可能性があるんじゃないか、というものだった。万に一つの可能性。あまりにも大それた話に、母親は当初面食らっていた。
「いやいや、菫はともかく、私は無理だよ。最近は美容に割いてるお金もなくて、メイクとかも久しくしてないし。何より年が、ね」
「年齢ねぇ。同年代の中じゃ全然イケてると思うんだけど……。じゃあさ、菫ちゃんだけでも、何かオーディション受けさせてみたら?」
「え……」
思わず口から声が漏れた。……母親の友人の視線が、あたしの全身に突き刺さる。
「まだ幼いから、これから先どうなるかは分からないけど、かなりの逸材だと思うよ? いきなりCMデビュー!とかはさすがにちょっと厳しいけど、読モとかだったら全然チャンスあるんじゃないかなぁ?」
「読モって、読者モデルってこと? こんな小さい子でも、そういう仕事があるの?」
「もちろん。小学校とか幼稚園の女児を対象にした雑誌もいっぱいあるし、片っ端から受けてみたら1冊ぐらいは引っかかると思うよ。まぁもちろん、我が子をメディアに出すことに抵抗があるってんなら無理強いはしないけど……。でも、せっかくお金を稼ぐ術があるなら、生かした方がいいんじゃないの? あんた、ちょっと頑張りすぎみたいだし」
当時のあたしは、彼女の言う細かい話はよく分からなかったけど、最後のセリフだけは激しく同意していた。まだ幼稚園生だったとはいえ、あたしの成長に伴い投資しなければいけないお金もどんどん増えてくる。それを見越して、母親はかなり無理して働き詰めていた。正直、いつ倒れてもおかしくない。
「あんたさえ良ければ、私が信頼できる事務所をいくつか紹介してあげる。大丈夫だよ、悪いようにはしないから」
「……」
きっと、母親も怖かったんだろう。
今まで関わってこなかった未知の世界に、母子共々足を踏み入れるということが。
でも、あたしは違った。
「……お、娘ちゃんの方はやる気みたいじゃん?」
「菫……」
立ち上がって近づいてきたあたしのことを見て、2人がそれぞれの反応を見せる。
細かいことは分からないまでも、 ”げいのうかい” という場所が、アイドルやモデルの属しているキラキラした世界だということだけは何となく分かっていた。
そして、よく分からないが、あたしであればそこに入ることができるかもしれない、ということも。
この時のあたしは、困っている母親を助けたいという気持ちが半分、そして芸能界という華やかな場所への好奇心と憧れが半分を占めていた。
行けるものなら行ってみたい。先行きは分からないけど、挑戦してみたい!
「……まぁ、詳しいことは追々連絡するよ。とりあえず、今は飲も?」
「……うん」
母親が、困ったように笑いながら、その友達とグラスを合わせる。
その光景を横で眺めながら、あたしは未知への期待に胸を躍らせていた。
それから数週間後。
「……はじめまして。芸能事務所Lien所属の、和泉叶斗と申します」
「……はぁ……」
あたしは、母親に連れられて、とある芸能事務所に足を踏み入れていた。
小さいけれど小綺麗なオフィス。母親の友達の話によると、創業からそこまで時間の経っていない新しい事務所らしい。
『個人的に仲良くさせてもらってる事務所があるんだけど、新しい子を募集してるみたいだから、ちょっと顔出してみてよ。まだ知名度こそ高くないけど、あそこは伸びると思ってるんだよね』
これは、先日家に電話をしてきた母親の友人の言葉だ。結局、まんまと彼女の口車に乗せられた母は、しぶしぶといった様子であたしのことをその事務所に連れてきていた。無論、あたしの方はノリノリだったのだけれども。
「本日は、ご足労いただきありがとうございます。早速ですが、佐崎様からのご紹介ということで、手続きの方を進めさせていただきますね」
「は、はい」
緊張した様子の母親。まぁ、無理もないと思う。今まで知らなかった領域に足を踏み入れてるわけだし。
でも、そこまで固くなる必要ないんじゃないかなぁ……と、当時のあたしは能天気に考えていた。
その後もあれやこれやと詳しい説明が続けられていたけど、正直あまり面白い話ではなかったので覚えていない。1つだけ確かだったのは、このままトントン拍子で所属というわけではなく、簡易的なオーディションを受けさせられて、その後所属の可否を判断されるということだった。
「菫ちゃん。どうかな、受けてくれるかな?」
あたしにそう問いかけてきたかなとの顔が、未だにあたしの脳裏にこびりついている。
「うん。あたし、受ける!」
「ちょっと菫、そんな安請け合い……」
「ふふ、いいじゃないですか。チャレンジ精神旺盛な子は、我々も大歓迎ですよ」
胸を張ってドヤ顔をかますあたしに、苦笑いをする母親と、微笑ましくそれを見つめてくるかなと。今考えればかなりシュールな状況だったけど……ともかくこれが、全ての始まりの現場だったわけである。
さらにそれから1週間後、あたしはかなとに言われた通り、簡易的なオーディションを受けた。
ただ、オーディションといっても、その実情は所属を前提とした下準備のようなものだ。宣材写真の撮影や、健康状態のチェック、そして活動に支障がないか確認するための簡単な面接。後から分かったことだが、当時所属タレントが少なかった事務所にとって、あたしのような幼い人材は救世主だったらしい。また、あたしの容姿もこの時は強い味方になってくれたようだった。
そんなこんなですんなり入所が決まり、その日からあたしは、芸能界の端くれで簡単なお仕事をさせてもらえるようになった。
「ねぇーかなと」
「何ですか」
「あたし、これからなにするの? うたったり、おどったりするの?」
当時のあたしは、タレント業に種類があるなんてことはよく分かっていなかった。だから、漠然とアイドルのような姿を想像していたのだが、
「あなたにやっていただくのは、モデルのお仕事ですよ」
「もでる?」
「はい。お洋服を着て、その魅力を伝えるために、写真に写ってもらうんです」
「へぇ……」
Lienは、元々モデルを輩出するための事務所として創設されていた。今でこそ他の仕事をやっている人達がいるが、当時の所属タレントは全員モデル業から活動をスタートしていて、他の職種に挑戦する人はごく稀だったのだ。
「モデル、あまり興味ないですか?」
「ううん。よくわからないけど、やってみたい」
「そうですか。……その好奇心は、私も見習いたいものですね」
そう言って、かなとが微笑む。
当時のあたしは、本当に何事にも興味があって、それに対して、できないかもしれないとか、そういう不安を抱くことは一切なかった。まぁ、ただ単に怖いもの知らずだっただけなのだが、それにしても未知に飛び込んでいく勇気に関しては、誰にも負けていなかったんじゃないかと思う。
だから、モデルに挑戦するということにも、あたしには一切の躊躇いがなかった。
「じゃあかなと、おしえてね。どうやってもでるになるのか」
「言われなくても。それにあなたは、もううちの事務所所属の立派なモデルですよ」
……後になって考えると、この時のかなとはかなり甘かったと思う。
元々子供の扱いには慣れていたらしく、あたしのことを甘やかすのが上手かった。あたしが多少生意気なことを言っても、それを笑って許してしまっていた。
だから、なのかもしれない。だんだんとかなとに対する態度が悪くなっていって、それはいつの日か、他の現場でも適用されるようになっていった。
ほら、子供って、悪気なく鋭い言葉を吐いたりするでしょ? あれをあたしは、かなとがいない、つまり誰もあたしのことを守ってくれない場でやらかしたわけだ。
当然周りはちゃんと良識のある大人ばかりだったから、その場で怒鳴られるなんてことはなかったけど……それでも、確実にそのしわ寄せは、あたしの身に迫りつつあった。
そしてそんな時、あたしを庇って真っ先に被害を肩代わりしてくれていたのは、いつだってかなとだったのだ。
「お疲れ様でしたー」
あたしが事務所に所属してから、2年ほど経ったある日のこと。
仕事を終えたあたしは、スタジオを出て、そのまま家に帰ろうと事務所の廊下を歩いていた。
「……和泉さ。ちょっと考えた方が良いと思うよ?」
「!」
そんな声が、ふと廊下の奥から聞こえてきた。
あっちは確か……あまり使われない非常階段だったはず。
あんなとこで人が話してるなんて珍しい。誰だろ?
そんな軽い気持ちで、あたしはそっと壁からその場を覗き込んだのだ。
そこにいたのは、あたし達モデルにレッスンをつけてくれている先生とかなとだった。
「あの子。見た目は最高級だけど、あれじゃあ長く続けさせるの難しいと思うよ? 特に年齢が上がれば上がるほど、そういうの大事になってくるんだから」
「そう、ですよね……」
好奇心で始めた盗み聞き。満足したらすぐに飛び出していってやろうかと思っていたが、先生の声色がどことなく不気味で、あたしは息を呑んでその光景を見つめていた。
「ビジュも技術も申し分ない。あの年齢で撮影に適応できてるのは良いと思う。でも、あの子は適応しすぎ。しかも、それを自覚してるってのがタチが悪い。君も、そこの辺りは分かってるよね?」
「はい……」
「初めて担当できた子で浮かれるのは分かるけど、いい加減、菫ちゃんを甘やかすのは辞めなよ」
「……!」
突然自分の名前が出てきて、困惑する。
……今、確かに先生は、あたしの名前を呼んだ。しかも、なにやらあまり良くない内容の話の時に。
それを聞いたかなとは、項垂れながらも小さく首を縦に振っていた。その様子を目の当たりにして、あたしは生唾を呑み込む。
どういうこと……?
話題は間違いなくあたしのことだったはず。なんなら、最初の方はあたしのことを褒めてるみたいだった。ビジュも技術もいい、みたいなこと言ってたし。
でも……――
『いい加減、菫ちゃんを甘やかすのは辞めなよ』
先生の言葉が、再びあたしの頭をもたげる。
甘やかす……? かなとが、あたしを?
確かに、かなとはいっつもあたしに優しくて、あたしはそれを受け入れて……。それが、今まで当たり前で……。
じゃあ、今、かなとが先生に怒られてるのって……。
色んな考えが頭を巡って、体が完全に固まってしまう。そんなあたしの前で、先生は締め括るようにこう言った。
「あの子の行動は君の責任の元にある。あの子の全ての行い……もしそれが悪いものだった場合、それは全て君のせいになるんだってことを、忘れないでね」
「……ぁ……」
――先生にそう言われたかなとは……ただただ、じっと地面を見つめていた。
首をもたげたまま、何も口にせず、じっと耐え忍んでいる。
その光景が、見ていられなくて。
「っ……!」
あたしは1人、その場から逃げ出した。
「はぁっ、はぁっ……!」
廊下を、一直線に駆け抜けていく。
幸い、荷物は全て手に持っていたから、そのまま階段を駆け下りて事務所を飛び出しても、大した問題はなかった。
外に出て、肺いっぱいに空気を吸いこもうとすると、息が詰まってそのまま咳き込んでしまう。
「げほっ、ごほっ……!」
涙目になりながら辺りを見回すけれど、当然助けてくれるような人はいない。
人通りが少ない時間帯というのもあったけれど、そもそも他人に興味などないという顔をした大人達が数人目の前を通りすぎていくのを見て、あたしは目の前が真っ暗になった。
……そっか。あたし、かなとのじゃまになってたんだ。
その事実が、あたしの心を真っ黒く塗りつぶしていった。
当時のあたしは、まだまだ幼かったから、芸能界でやっていく上でコミュニケーション能力はすごく大事なことなんだとか、子供だからといって甘やかされるべき世界ではないんだとか、そういう細かな事情は一切理解できていなかった。
それでも、あたしの本能が、あの場で警鐘を鳴らしていたのだ。自分の存在は、彼に多大な迷惑をかけているのだと。
でも、何が原因なのかさっぱり分からなかった。見た目も華やかで、モデルとしてちゃんと撮影に臨めてもいる。これ以上何を志す必要があるのかと。
必死に考え考え、それでも分からず……まずは、先生達の気持ちを探る必要があると考えたあたしは、次のレッスンの日から、つぶさに先生や他のモデルの子達を観察し始めた。
先生の指示の出し方や、それを受ける生徒達の態度。別に普段と変わらない光景だったけど、意識して見るだけで、ずいぶん印象も変わるのだなと強く実感した。
例えば、ポージングのレッスン。先生からお題を言われて、それに沿ったポーズをアドリブで考えて披露するという内容のもの。
あたしが披露したポーズに対して先生は、『躍動感がない』と指摘を入れた。それに対してあたしは、
「でもー、このポーズだってかっこいいじゃん! 先生見る目ないー」
と笑って一蹴した。先生の意見なんて微塵も興味がなかった。
でも、他の子達は違った。1つ年下の女の子がポーズをとった時、先生は、『もっと大きく、表情まで使って』という風に言葉を発した。その時彼女は、
「先生、こういうポーズをとる時に合う表情は、例えばどういうものがあるんでしょうか……?」
と、丁寧に問い返していた。
……まぁ、正直なところ、今例に挙げた彼女は、年の割にできすぎていたから、当時のあたしと比較するにはちょっとハードルが高すぎたかもしれない。この時の女の子とあたしが、後ほど不思議なことに同じアイドルグループに属することになるのだけど、それはまぁひとまず置いておいて。
とにもかくにも、あたしには人の意見を受け入れるという習慣がなかった。いつだって自分は正しいと思っていたし、他の人のことなんて全く興味を持っていなかったわけだ。でも当然、それだと人間関係が破綻する。
後から思い返してみると、撮影後にスタッフさんが、苦い顔をしながらカメラを睨んでいたことが多かったように思う。あれは、撮影の出来栄えとか以前に、あたしの人間性に問題があったからあんな表情をしていたのではないか。
考え始めたらきりがないが、とにかくあたしはそんな不安に駆られまくり、どうしたらこの状況を改善できるか本気で考え始めた。
考えて考えて……その結果辿り着いたのは、いわゆる営業的な振る舞いを覚えるということだった。
大人の前では愛想良く振る舞い、とりあえず相槌を打つ。そこに感情が乗っていることは一切なかったが、それでも笑ってその場をやり過ごした。あたしが明るい表情を浮かべているだけで、場の空気が白ける回数は明らかに減った。相変わらず自尊心の高かったあたしは、人の意見を受け入れる気などさらさらなかったけど、それでも表面上穏やかにそれをやり過ごせるくらいには心が成長し始めていた。
正直、あんな薄っぺらい笑顔のどこがいいのかと問いたいけれど、少なくとも、大人から敵視されることはなくなった。これで、かなとに対する偏見の目も薄れる。そんな風に、あたしはどこかで安心していたのだ。
これで、あたし達2人で、足並みを揃えて上を目指せる。
幸い、あたしの態度が多少軟化してから、あたしの仕事の成績は右肩上がりのものへと変化していた。レッスンにも例の件を受けてから積極的に取り組んでいたので、ちゃんと実力もついてきていたし、何よりモデルという仕事のことがだんだん好きになってきていた。
――だから、かなとから話を持ち掛けられるまで、あたしは本気でモデルの頂点を目指す気でいたのだ。
「え……。アイドル?」
それは、モデルの仕事を始めてから6年目のことだった。
「そう。実はうちの事務所で、近々新しいプロジェクトを始めようと考えているんだ。そこで、君にその先駆者になってほしいんだよ」
「いや、先駆者って……」
かなとの言葉に、あたしははっきり言って困惑していた。
モデル業を始めてから、もうかなり時間が経つ。キャリアもそれなりにあったし、今更別の業種に挑戦する気はなかった。何より、かなと自身の評価もここ数年でかなり上がってきていたのだ。あたしはただただ彼の発言に困惑していた。
「なんでいきなり? あたしはモデルとして十分やれてるし、かなとだってそれを望んでたんじゃないの?」
「それは、華野さん個人で見た場合の話です。事務所全体で見ると、最近伸び悩んでいる子が多いんですよ。業界で生き残っていくためにも、新しい方策を考えなければならなくなった。これは、その一環ってことです」
かなとの説明に、あたしは頭を悩ませる。
「いや、理屈は分かるけどさ。それにあたしが協力する意義って何?」
「期待されているんですよ、事務所から。私達がやろうとしているのは、現在若手のタレントを集めた新規プロジェクト。メンバーは小中学生を中心にしたいというのが上の考えなんです。その点、あなたは理想的なんですよ」
この時点でのあたしの年齢は12。まぁ、確かに妥当ではある。
あるけど……。
「あたし、別にアイドルになるためにこの事務所に入ったわけじゃないんだけど」
「では、あなたはモデルになるためにこの事務所に入ったんですか?」
かなとにそう返されて、あたしは言葉に詰まった。
モデルになるため……。
「あなたはまだ幼かったですから、詳しい事情は分からなかったかもしれませんね。でも、もうあなたも自覚しているでしょう。自分が、純粋にモデルを目指して事務所に入ったわけではないということを」
「それは……。でも、今はあたしだって、純粋に上目指して頑張ってるし……」
「それは私も十分理解してますよ。でも、今はそれだけじゃ生き残れないんです。マルチなスキルが求められている今の時代に、強みが容姿とモデルとしてのキャリアだけというのは華に欠ける」
「っ……」
かなとにしては珍しい、はっきりとした物言い。
決して傷ついたとかそういうのではないけど、あたしは少し面食らっていた。
「ちょ……ちょっと、考えさせて」
「はい。まだ先の話ですから、ゆっくり考えてみてください。無理にお願いするつもりもありませんから」
そう言って、かなとがその場を去ろうとする。しかし、完全にあたしの視界からかなとの背中が消える直前、彼は振り返ってこう言った。
「……それでも私は、あなたに挑戦してほしいと思っていますよ」
「っ……」
――そんなことを言ったら、断れないじゃないか。
直前まで抱いていた思いが、みるみるうちに萎んでいく。
別に、アイドルなんて興味ない。今は、自分のキャリアを伸ばすことで手一杯なのだ。他の分野になんて手を出してられない。
そりゃあ、他の業種を経験して伸びた子も中にはいるけど……そんなの、ごく稀なケースだ。どうせあたしには適用されない。
また、高い壁にぶつかったな……。
こうしてあたしは、1番信頼している人物から、人生の岐路を選ぶ機会を与えられたのだった。
――そうして、話は冒頭に戻る。
かなとから話を振られて数日後。事務所の片隅で悩んでいたところを、彼に見つけられてしまったのだ。
「モデルとして活躍できている今がチャンスですよ。新しい分野に手を伸ばしてみてもいいのでは?」
「新しい分野、ねぇ……」
そんなこと言われても、実感が湧かない。
あたしにとって、モデルとしての活動は、安定した生活を得るための手段だった。もちろん今は、純粋に仕事へのモチベーションが上がっているから頑張れているけど、スタートは違う。今更別の道に進むなんて信じられない。
それに……。
かなとが責められている現場を目撃してから、もう何年も経っているが、あの後もあたしは、かなとに対する態度だけはずっと変えずにいたのだ。
それは、彼のことを誰よりも信頼していたというのもあったし、彼を今近くにいない父親の代わりのように思っている節があったからでもあった。
そうやって、自分に足りないものを彼で補い、彼を守るためにあたしはさらに神経をすり減らしていたのだ。これを、悪循環と呼ばずして何というのだろうか。
「……あたしは、別に、そこまで考えてキャリア設計してない」
「華野さん……」
「あたしは……かなとのために、今の仕事を頑張ろうって思ったんだよ。どういう始まりであれ、あたし達のことを助けてくれたのはかなとだったから。だから、それに報いたいと思って、今の仕事を続けてたのに……」
思いの外、自分の気持ちがするすると口から出てきた。
あたしがかなとに抱いていた想い。改めて口にすると、恥ずかしい反面、どこかすっきりするような感覚もあった。
「――いつからだっけな。かなとがあたしのことを、”華野さん”って呼ぶようになったのは」
「あ……」
「別にいいよ、そういう呼び方でも。いつまで経っても”菫ちゃん”じゃあ、恰好がつかないっていうのも分かるし。……でも、気安く接することも許してくれなくなったよね」
「それは……」
あたしが10歳になる頃には、かなとは今のかなとになっていた。ただあたしを甘やかすのではなく、1人の分別ある芸能人としてあたしに接してきていた。
多分、かなとは正しい。それでも、あたしは彼の態度の変化が許せなかった。突然突き放されたような気がして……何となく、寂しかったのだ。
「かなとは、あたしのこと理解してくれてるって思ってた。それでもかなとは、あたしより、事務所の利益のことを優先するっていうの……?」
「……」
これが、何より卑怯な質問だということは、あたしも十分理解していた。
でもその上で、あたしは彼に聞きたかった。あたしがモデル業に打ち込んでいることを誰より理解している彼が、どうしてこんな話をあたしに持ち掛けてきたのかを。
「私は……あなたのことを、信じています」
「……」
「昔からあなたは、無鉄砲で、腕白で、手に負えないぐらい真っ直ぐで」
「ちょっと」
「愚直で、一生懸命で、いつも前を見据えてて。……あなたには、怖いものなんてないように見えましたよ。表向きは」
表向き、という言葉が引っかかる。
「それ、どういう意味――」
「あなたは、涼しい表情で仕事をしている裏で、色々計算している。そして、技術を上げるために努力もしている。でも不器用だから、それを表でアピールすることも、さりげなく伝えることもできない。飄々とした態度で誤魔化しているでしょう」
「そ、それの何が悪いのさ」
「悪いとは言いませんよ。ただ、あなたに私を責める権利はないんじゃないかと思っただけです」
「なんでっ……!」
「あなたは、アイドルになりたくないと、私に一言も言っていないでしょう」
「っ……!?」
……そう言われて、やっと気づいた。
あたしは、かなとに、その提案をしてきた理由を問い詰めたり、言い訳をしてなんとか提案を撤回させようとしてきた。でも、それだけだ。直接拒否したわけではない。
ずっと自分の気持ちを誤魔化してきたのは、あたしの方ってこと……?
「あなたはそれを望んでいないかもしれない。……それでも私は、信じていますよ。他でもないあなたが、別のステージでも輝けることを」
「どうして……そこまで……」
「決まっているじゃないですか。――菫のことを、ずっと見ていたから」
かなとの言葉に、一瞬だけ呼吸が止まった。
真っ直ぐ投げかけられた言葉が、スッと胸の内に響く。
ずっと……そう、彼は本当にずっと、あたしのことを見てくれていた。
だからきっと、あたし自身以上に、あたしのことを理解していて……――
「……あたし、飽きっぽいよ。多分、そんな長く続かないよ」
「知ってます」
「歌とか、全然やったことないし。多分、そこまで才能ないよ」
「知ってます」
「そこは否定してよ!」
強く反発してみるけど、かなとは涼しい顔で微笑んでいる。
ああ、もう……。
「それでも、あなたは挑戦するんでしょう。そういう人なんですから」
「それは、ちょっと過信しすぎ……」
「大丈夫ですよ、あなたは強いんですから。きっと上手くやれます」
何の根拠もない、無責任なエール。
……でも、それを送ってきた相手が相手だったから。
あたしには、それを受け入れることしかできない。
「あぁーーーもう、分かったってば」
頭を掻きむしって、宣言する。
「しょーーーーーがないから、あんたの口車に乗せられてあげる」
「ずいぶん伸ばしましたね」
「このぐらいしないと、あんたは分からないかなって思って!」
あたしが皮肉たっぷりに舌を出すと、かなとはクスリと笑ってこう言った。
「……どうぞ、好きにやってみてくださいよ」
こうして、あたしとかなとの付き合いは、少しだけ形を変えてまたしばらく続いていくことになる。
新しく出会った人達。今まではあまり関わってこなかったけど、顔だけは知っていた人。突然徒党を組むことになった、運命共同体とも言える少女達。
それでも、怖くないと思えているのは、きっとそばに、彼がいるから。
この先何があっても――多分、彼のことを考えていれば、大丈夫。
だって、あたし達は、2人で最強の、スペシャルなビジネスパートナーなんだから。
間違っても、甘酸っぱい関係に転ぶことはないはず……だよね?
そんなことを馬鹿みたいに考えながら……あたしは今日も、仲間達と共に、ステージへと歩みを進めていく!!
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