虹色の未来③

「――――」

 教室に姿を見せた先生は、見たことがないぐらい真っ白な顔をしていた。

 一切言葉を発しようとしないその姿に、ただならぬ気配を感じる。

「せ、先生? どうしたんですか?」

 見かねた照人くんが先生に声をかけると、先生は、「あ、ああ……」と息を漏らし、その後きつく目を閉じた。何かを堪えるような、痛ましい表情で。

 ……しばらくして顔を上げた先生は、ゆっくりと口を開くと、重々しい口調で話し始めた。

「……須上が……危篤、らしい」

「え…………?」

 先生の言葉を聞いた照人くんの口から、掠れた声が漏れる。

 他の人達も、言葉の意味が分かる人から順に青褪めていった。

「き、とく……? 危篤って、一体何があったんですかっ? 事故、とか……?」

 クラスメイトの一人が、震える声でそう尋ねる。危篤……ということは、おそらく彼は今、命の危機に晒されている。決して国語が得意というわけじゃないが、父親が同じような状況に陥った時にお医者さんから同じような言葉を聞かされたから、知識としては知っていた。

 でも、その理由が分からない。

 事故? 事件? それとも、もっと他に何か……――

 頭の中が真っ白になっていく。自分の知らない何かが背後で蠢いているような気がして、背筋が震えた。

「――お前達には、話していなかったんだったな……」

 先生が、辛そうにしながらも、その瞳に確かな決意を宿して口を開く。私達が不安げな視線を向ける中、先生は、意を決したように言葉を吐き出した。

「須上は――先天性の病気だ。そして、その病状が進行してしまった今、彼は命の危機に晒されている」




 先生の言葉に、教室が静まり返った。

「え……」

「病気……?」

 微かに呟きが漏れている人もいるが、大半の生徒は言葉を失っているようだった。

 それもそうだ。今の今まで、そんな情報、一切知らされてこなかったのだから。

「……今まで話せなくて、すまなかった。本人の意志と、親御さんの方針もあって、迂闊に口外できなかったんだ。それが……こんなことになるなんてっ――」

「せ、先生のせいってわけじゃ……」

 項垂れる先生に対し、生徒の一人が慰めの言葉をかけようとする。でも、それが大した効力を持たないことは、その場にいる全員が理解していた。

「……操は、今、どこにいるんですか」

 ぽつりと、言葉が漏れ聞こえた。

 今までに聞いたことのない、感情の抜け落ちた声。照人くんが、先生にそう問いかけていた。

「……積谷国際病院だ。3組の積谷さんのご実家で――」

「っ」

「あ、小際くん!!」

 突然、照人くんが教室を飛び出した。慌てて追いかけようとした先生の足が、教室に残っている生徒達の視線を受けて止まる。

 この場でどう動くのが最善か、必死に考えを巡らせているようだった。

「せ、先生……。私達、どうしたら……」

 生徒の一人が、不安げに呟く。先生は、戸惑いを瞳に浮かべた後、小さな声で呟いた。

「……ごめん。まだこっちも対応中で……。申し訳ないけど、もう少しの間、教室で待機していてほしい。頼めるかな……?」

 先生の言葉に、みんなの表情がさらに不安げなものになっていく。しかし、今の自分達では何もできないことも分かっていた。だから、先生が教室を出ていく直前には、全員の生徒が自分の席に着いていた。

「…………」

 信じられない。信じることが、できない。

 ついこの間まで。それこそ、昨日まで、普通に会話をしていたのに。

 急すぎる出来事に、頭が追いついていかなかった。

 自分の席で固まっていると、バン!!と大きな音がして、教室に一人の女子生徒が入ってきた。

「! ちょっと、あんた!!」

 入ってきた生徒は、一直線に教室の中を進むと、私の机の上に手をついて訴えかけてきた。

「さっき、照人がすごい顔して学校を出てくのが見えたけど、これってどういうこと? 何かあったの!?」

「……」

「ちょっと、答えなさい……よ……」

 彼女――夏茂さんの威勢の良い声が、周りの雰囲気に影響されてだんだんと萎んでいく。

「え……? 何、この空気……。ほんとに何があったの……?」

「……」

 分かりやすく戸惑っている夏茂さん。直後、1時間目の開始を告げるチャイムの音が鳴り響いた。

「っ……」

 今問い質しても、どうしようもならないことを察したのだろう。夏茂さんは苦い顔をした後、早足で教室を出ていった。部屋の中は、再び居心地の悪い沈黙に包まれる。

「…………」

 ……私は、どうしたら……。

 本当は、照人くんみたいに、すぐにでもここを飛び出して彼のいるところに行きたかった。でも、足が動かない。――今、彼と顔を合わせる勇気がない。

 そもそも、今の私が、現実を受け止められているのかも分からない。体が震えて、視界がだんだん白くなっていくのが分かる。

 私は、わたしは、いったい、なにを、どうしたら……――

 

 結局私は、その場から動くことができなかった。

 どれぐらい時間が経ったのかは分からないが、次に先生が教室に入ってきた時に私達は、操くんが息を引き取ったということを知らされたのだった。




 その日の放課後。

「――﨑森さん」

 教室で帰り支度をしていると、龍也くんが教室の入口から声をかけてきた。

「今……少し、話せないかな」

「……」

 あまり人と話す気分ではなかったけれど、断る理由もない。私は、彼に続いて教室を出た。

「……急にごめんね。少しだけ、話がしたくて」

「……」

「他にも、会ってほしい人がいるんだ。今、体育館の裏で待っててもらってるから」

「……」

 私が頑なに口を開かない中でも、彼は懸命に話を振り続けてくれている。相変わらず、こういうところはすごく優しい。

 前話した時、彼は、自分のことを誇れないと言っていた。でも、こういう時に自然な気遣いができるのは、彼のらしさなんだろうな、とふと考えてしまう。

 ……しばらく歩いて体育館の裏に行くと、そこには夏茂さんが仏頂面で立っていた。

「ごめん、夏茂さん。連れてきたよ」

「……ん。ありがとね、龍也」

 腕を組んで壁に寄りかかっていた夏茂さんが、体を起こしてこちらを真っ直ぐ見つめてくる。

「まずは……そう。朝は、その……変な空気にしちゃって、ごめん。あたしも、全然空気が読めてなかったっていうか、状況を分かってなかったから、あんな無神経なことしちゃって……。クラスのみんなにも、改めてちゃんと謝ろうって思ってる」

 普段は強気な夏茂さんの口から出てきたのは、意外にも謙虚な謝罪の言葉。その姿勢が、なんだか少しだけいじらしく思えてきて、私はつい口元を緩ませてしまった。

「……なんで、笑ってるのよ」

 夏茂さんが、不思議なものを見るような目を向けてくる。

「なんでって……だって、夏茂さん、ずいぶん律儀だなぁって思って……」

「いや、律儀って……。そりゃあ、あんな空気の中に何も考えず飛び込んでいったら、明らかにヤバいっていうか……。そもそも、今回のことだって……」

 突然言い淀んだ夏茂さん。口を閉ざしてしまった彼女に代わり、龍也くんが口を開いた。

「その……僕達は、﨑森さんとはクラスが違うから、情報が来るのが遅くて。というか、正直、状況を飲み込めてなくて……」

「……」

「なんて言えばいいのか、俺も分からない、けど……。今はとりあえず、気持ちを落ち着けるのが優先だと思うんだ」

 そう言って、龍也くんがこちらに視線を向けてくる。……そして、その目が、少しだけ見開かれた。

「……どうしたの?」

「いや、その……。思ったより、落ち着いてるな、と思って」

「え……」

「もっと……ごめん、取り乱してると思ってて……。いや、僕達が目の前にいる状況だから、必死に耐えてくれてるのかもしれないけど……。なんか、いつもと変わらないというか、いつもより冷静に見えるというか……」

 そう言って、龍也くんが戸惑いを浮かべながらこちらの顔を窺ってくる。それに対して私は、「……だって」と言葉を続けた。

「先生が、たちの悪い冗談を言うから」

「……え?」

「先生もひどいよね。操くんが……そんなことになってるなんて、あるわけないのにね」

「っ……え……」

 私の言葉に、龍也くんが口元に手を当て、夏茂さんが表情を歪めた。一体どうしたというのだろうか。

「どうしたの、二人とも。そんな苦い顔しちゃって」

「……本気で、言ってるの」

 夏茂さんが、震えた声でそう呟いた。

「先生が言ってたことが冗談だなんて……。それこそ冗談でしょ?」

「いや……何言って……」

「みさおくんは……っ……あたしだって、認めたくないけど……」

 やめて。

 それ以上言葉を発してほしくなくて、慌てて声を被せる。

「ち、違うよ。操くんは、今日たまたま、ちょっと体調が悪かったから、学校に来なかったんだよ。そんな、急にいなくなっちゃうなんて、そんなはずが……」

「っ、じゃあ、照人はなんで帰ってこないの?」

 夏茂さんの声に、私は思わず息を呑んだ。

「あいつはすごい過保護だから、みさおくんのことを心配して教室を飛び出していったんだと思ってた。実際そうだったんでしょ? ……﨑森さんの言う通り、本当に大したことがなかったんだとしたら、あいつは学校に戻ってきてるはず」

「そ、それは……ほら、面倒になって、一度家に帰っちゃったとか……」

「真面目なあいつに限ってそんなことはしない」

 夏茂さんの口調が、だんだんと強いものになっていく。

「……辛いのは分かるよ。多分、あたしより﨑森さんの方が、ずっとみさおくんと仲が良かったんだと思うし。それはいいよ。でもさ、だからって、目の前で起きたことを否定するのは違うんじゃないの」

「ひ、否定してなんか……」

「してるでしょっ!!」

 ガッ。

 突然胸倉を掴まれ、体がほんの少し持ち上がる。

「ちょっと、夏茂さんっ」

「龍也は黙ってて!」

「っ……」

 止めに入ろうとした龍也くんが、夏茂さんの言葉に押されて、出しかけていた手を引っ込めた。その瞳が不安そうに揺れる中、夏茂さんはさらに畳みかけてくる。

「辛いんでしょ? 受け入れられないんでしょ? だったら、そうやってはっきり言えばいいじゃない! どうしてそれを正直に言わないの!?」

「だ、だって、そんなこと、現実に起きるはずがなくて……」

「別に弱音は吐いたっていいって言ってるじゃん!! あんたがやってるのはただの現実逃避でしょ!?」

「夏茂さんっ……。確かに夏茂さんの言ってることは正しいけど、誰もがそんな簡単に割り切れるわけじゃ……」

「でもだからって、みさおくんが死んだことを否定するのは違う!!!」

「――――」

 ……ドサッ。

 夏茂さんが、私の胸から手を離した。

 脱力していた体が、そのまま地面に落とされる。

「……あたしは、ただ……」

「……」

「……」

「……もう、いい。あたしは帰る」

「っ……!」

 その場を去っていく夏茂さん。それを追いかけようと一歩を踏み出した龍也くんが、ちらと私の方を振り返った。

「……」

「……﨑森さん。俺は……君に、助けられたんだ。君に、自分を信じることの大切さを教えてもらった」

「……」

「俺は、君のことを信じてる。だけど……夏茂さんの言っていたことも、分かってあげてほしいんだ」

「……」

「……ごめん。彼女を、追いかけなきゃ」

 諭すかのような優しい口調で、龍也くんは私に言葉を残していった。

 その言葉が、深く深く、胸の内に染み渡っていく。

 ……現実逃避、か。

 確かに、そうなのかもしれない。

 人は傷ついた時、自分を守るために、あらぬ行動に走ることがある。

 突然周りに暴力を振るったり、誰とも関わりを持てなくなって引きこもったり。

 でも、私は至って普通だ。こんなにも冷静で、思考も冴えてる。ちゃんと人と会話もできていたし……あぁ、でも、夏茂さんは私に対して怒ってたな。あれはなんでだったんだろう。

 立ち上がろうと足に力を入れようとしたけれど、どうやら腰が抜けてしまったらしい。なかなか上手く立ち上がることができなかった。

 しばらくその場に座り込んだまま、私はこの学校に転校してきてからの経験を思い返していた。

 波乱の運動会。雨の日のお祭り。みんなで行ったプール。協力しあった勉強会。友達とのお泊り。

 そのどれもに、大切な人達の顔があって。

 みんながいたからこその体験があって、誰かが欠けていたら成立しない情景があって。

「っ……あぁ……」

 ……本当に、どうして、なんだろな。

 頬を伝う生温い液体の正体を、本当は分かっているのに、どうしてもそれを認めたくなくて、私は俯いた。

 地面に広がっていく染みから目を逸らしたくて、今度は上を向いた。

 本当に、何が、どうして、どうなって。

「う……あぁ……」

 せっかく、取り戻せたと思ったのに。

 また私は、大事なものを失うのか。


 その日の空は、恨めしいぐらいに鮮やかな夕焼け色に染まっていた。




「あら、黄乃ちゃん、おかえりなさい」

「……」

 家に帰ると、母親がいつもと変わらない笑顔でそこに立っていた。

「今日は、ちょっと帰りが遅かったわね。何かあったの?」

「……」

 答えることが、できない。体が、対話することを拒否している。

 そのまま母親のことを無視して階段を上ろうとすると、「……黄乃ちゃん」と、再び遠慮がちに声がかけられた。

「……話したくなった時でいいから……ちゃんと、教えてね」

「……」

「私はいつだって、黄乃ちゃんの味方だから」

 そう言うと、母親はそれ以上話しかけてくることはせず、リビングへと姿を消した。

「……」

 階段を上り、自室の扉を開ける。

 元々簡素な部屋だったけれど、今の学校に転校してきてから、少しずつ物が増えてきていた。学校が変われば、持ち物も変わる。そう思えば、ある意味当然のことなのかもしれない。

「……」

 私は、その一つ一つを手にとると、それをそのまま無造作に床に落とした。そして、部屋の中にあるほぼ全ての小物を床の上に散らばせると、帰宅直後に玄関横から引っ張ってきたビニール袋を広げた。

 そして、その袋の中に、散らばった雑貨類を全て詰めていく。

「……」

 不思議と、手はすんなりと動いた。

 もう少し躊躇うものだと思っていたけれど、案外物に対する執着はないのかもしれない。

 そうして部屋が空っぽになり――部屋を改めて見回したところで、一つだけ、ぽつんと残されている小物に気がついた。

「ぁ……」

 勉強机の上にそっと置かれた、煌めく粉を降らせている球形の小物。――あの日、照人くんがくれたプレゼント。

「……」

 無造作に、そのオルゴールを手に取る。これも、一緒にしてしまおう――そう思って、袋の中に手を突っ込むけれど。

「っ……」

 なぜかそのオルゴールから、手を離すことができない。今これを手放したら、二度と取り戻すことができないかもしれない――それを望んで行動に移そうとしているはずなのに、矛盾した感情が私の体を支配していた。

「はぁ、はぁ……」

 だんだん呼吸が浅くなってきて、平常心でいられなくなってくる。まずい、これじゃあ……。私は、一度心を落ち着かせるために、オルゴールを元の場所に戻すと、深く息を吸い込んだ。

 大して綺麗でもない部屋の中に空気が、肺に勢いよく入ってくる。

「……」

 ……私は、一体、何がしたいんだろう。

 ふと胸の内に生じた疑問に、思いを馳せる。

 夏茂さんは、『現実を見ろ』と私に言った。じゃあ、この現実を受け入れて、苦しむことが正しいことなんだろうか。本当に?

 龍也くんも、私に言葉を残してくれた。でも、最終的には、夏茂さんのところに行ってしまったのだ。それはつまり、心の内では、夏茂さんと同じ意見だったということなんじゃないだろうか。……私に対して言ったことだって、どこまでが本心なのか分からない。

 何を心の拠り所にすればいいのか分からなくて、途方に暮れてしまう。

 誰を信頼すればいいのか分からない。今の状況を冷静に俯瞰することができない。そもそも、夏茂さんの言う『現実』って、何……――

「ッ……」

 突然、喉に熱いものが込み上げてきた。胃の中を掻き回したような、猛烈な気持ち悪さ。……体が、精神の限界を告げていた。

「っはぁ、はぁ……」

 全てを吐き出してしまいたかったけれど、すんでのところでそれを堪え、荒い呼吸を整えようとする。冷や汗が出てきて、こんな季節なのに、服がじっとりと湿るのが分かった。

『私はいつだって、黄乃ちゃんの味方だから』

 ふと、先程の母親のセリフが蘇る。

 ……味方。

 母親は、本当にどんな時も、私の味方でいてくれた。私が以前部屋に引きこもっていた時も、極力外に出てほしいと促してはきたけれど、無理矢理連れ出そうとしたり、私のことを叱ったりするようなことは一切なかった。……本当に、ずっと、母親は私のことを見逃してくれていたのだ。

「――」

 ……また私は、逃げるのか。

 心の内で、それはダメだと誰かが叫んでいる。でも、抗えなかった。……抗うだけの力が、今の私には、残されていなかった。

 ふらふらと揺れる体が、ベッドに吸い込まれていく。そのまま足を折ると、弾性のあるクッションが柔らかく私の体を受け止めてくれた。

「……っ、ふ」

 口から、意味のない吐息が漏れる。

 いや、意味はあったのかもしれない。でも、それを言語化することは、もうできそうもない。

「はは、あははははははあああああああああぁぁあぁ!!!!!」

 ――歪な哄笑が、眼前の布団に吸い込まれていく。


 その日から私は、家から一歩も出られなくなった。




 ――気がつくと、冬が終わって、季節は春になっていた。

 まだまだ肌寒いが、それでも大分過ごしやすい気温になっている。

「……黄乃ちゃん」

 朝、いつものように、母が私の部屋を訪ねに来た。

「……今日も……行かないの?」

「……」

 ……母がこんな風に問いかけてくるのは珍しい。

 私が、排泄と入浴以外で部屋から出なくなってから、母は最初こそ私に学校に行くようさりげなく促していたが、焦らせるのも良くないと判断したのか、必要以上に私に話しかけてこなくなった。私もその配慮に遠慮なく甘えて、外に出ることなく生活を続けていた。

 そんな母が、今日は声をかけてきた理由。それは、カレンダーを見れば明らかである。

 部屋に置かれたデジタル時計が示している日付。3月1日――ここまでの学生生活における、1つの節目となる日だ。

「……みんなと同じところに行くのは、不安?」

「……」

 それが、どういう意図で発された言葉なのかは分からない。

 今日のことを指しているのか、それとも4月以降のことを指しているのか。

 どちらにせよ、今更みんなと顔を合わせる気にはなれなかった。

「……私は……黄乃ちゃんに、また笑ってほしいって思うの」

「……」

「前、うちに来てくれた子がいたでしょう……? ああいう友達は、大事にしてほしいなって……。きっとあの子は、黄乃ちゃんのことを、大切に想ってくれると思うから」

「……」

 私は答えない。……答えを出すことが、できない。

 確かに、彼女は私と真剣に向き合ってくれた。受け入れてくれた。

 でも、それだけだ。受け入れてもらえたからといって、現実が変わったわけじゃない。私の過去の行いも、決して揺らぐことはない。

「……待ってるからね」

「……っ」

 一言残して、母は部屋から去っていった。ぱたん、と扉が閉じられ、部屋に無機質な空気が戻ってくる。

 ――待ってる、なんて、言われたところで……。

 今更外に出ることなんてできない。どれだけお母さんが私のことを待ち続けていたとしても、そんな日はきっと来ない。

 塞ぎ込んだ気持ちが、固く固く閉ざされていって、周りのあらゆる情報を受け付けなくなっていく。

 ――それでも、心のどこかで、救われたいという想いがあったのかもしれない。

 だから、その日の夕方、部屋に何人もの友人が訪ねに来てくれた時、本当は嬉しかったのだ。

 すぐにでも部屋の扉を開けて、みんなに飛びつきたかった。『ありがとう』って、『ごめんね』って、ちゃんと自分の言葉で伝えたかった。

 ……でも、できなかった。

 みんなに合わせる顔も、みんなに聞かせる声も、何もかもが醜く歪んでいるような気がして、自分から動き出すことができなかった。

 遠慮がちに開けられた扉の隙間から、見覚えのある顔が覗いた時も、私は視線を一切動かさずに、ベッドの上でじっとしていることしかできなかった。……そして向こうも、余計な言葉を一切発しようとしてこなかった。きっと、私の今の状況を見て、何も言うことができなかったんだと思う。

 そうやって何ヵ月かぶりの対面を終えて、その場に残ったのは、気まずい沈黙と、込み上げてくる寂寥感だけだった。




 時が流れていく。

 何もせず、何にも染まらず、日々が過ぎていく。

 卒業式の日を境に、みんなはちょくちょく私のところに顔を出しに来るようになった。そしてその度に、彼らは様々な言葉を残して帰っていく。

 みんなの様々な態度に対し、私は必要以上の反応を示さないようにしてきた。変に動じたら、これまでに抱え込んできた自分の気持ちが全部放出されてしまうような気がして、どこかで自分を抑え込もうと考えている節があった。

 それでも、堪えきれずに動揺してしまったことはあった。一番心に響いたのは、積谷さんが部屋にやってきた時だ。

 ――風の強く吹き付けるある日。彼女は私の肩を掴みながらこう言った。

「ねぇ、見えてるんでしょ?聞こえてるんでしょ?その逸らせない瞳に私が映ってるなら…受け止めてよ。この…現実を…。辛い、過去を……」

 彼女の、見たことのないような歪んだ泣き顔。他の誰も直接口にしなかったことを、彼女だけはあっさりと口にした。

「×××××××××××××んだって、いい加減受け入れなさいよ」

 認めたくなかった。

 だから、それを言われた時、私は彼女を突き飛ばした。全ての音が、その瞬間だけノイズに聞こえた。

「っ……。そんなことして、私が怯むとでも?」

「っ……!」

 突き飛ばされて、床に尻もちをついた状態でも、彼女は強気だった。その意志の灯った瞳に、気圧されなかったと言えば嘘になる。

「あなたは変わらなきゃいけないの。受け入れなきゃいけないの。あなたは私に言ったわ。”きっと乗り越えられる”と。だったら、あなた自身も乗り越えなきゃダメでしょう?」

「……」

「――あの日、私はあなたに助けられた。何度でも言うわ。今度は私があなたのことを守る。だから、信じて」

「ぁ……」

 彼女が、真っ直ぐに私の瞳を見つめてくる。

 逸らせない。それは、一時凌ぎにしかならないから。きっと彼女は、何度でも私の目線を追いかけてくる。

 照人くんとも操くんとも違う。有無を言わせない強い力。そっと手を差し出すのでも、優しく支えるのでもなく、ぐいぐいと引っ張っていくような、そんな彼女の芯の通った姿勢。

「……これだけ言っても、まだ私の手を取る気にはなれない?」

「……」 

 じっと彼女の手を見つめる。その細く白い指が、そっと引っ込められた。

「……そう。私じゃ、まだ役不足ってところなのかしらね」

「……」

「いいわ。また出直す。……そんな簡単に諦める気もないしね。あなたを取り戻すまで妥協はしないって、もう決めてるの」

 一切揺らぐことのない視線が、私のことを絡めとる。いつの間にか、彼女の瞳から、涙の影は完全に消え去っていた。

 ――今まで、私のところに訪ねてきてくれた人達は皆、私のことを肯定してくれる人が多かった。私の辛さに共感し、”あなたの味方だよ”と諭してくれることが多かった。

 でも、彼女は違う。彼女は、明確な意志を持って、私のことを叱りに来てくれた。”あなたは間違ってる”と、その行いを正そうと一歩を踏み出してくれた。

 どちらが正しいとか、そういうものではないと思う。でも、彼女の行動は、確かに私に変化をもたらそうとしていた。その証拠に、

「あ……――」

 ……いつぶりだろう。

 ちゃんと、涙を流したのは。

 彼女が部屋を去った直後、私の頬を濡らしたのは、紛れもない、私自身が流す涙だった。

 それが、現実を部分的にでも受け入れたからなのか、それとも彼女の叱責の言葉に傷ついたからなのか、具体的には分からない。

 それでも、今の私が、”悲しい”と感じて涙を流しているのは明白だった。

「ぅ……あぁ……」

 呻き声が漏れて、そのまま布団に顔を埋める。

 最近は、表情を変化させることもめっきり減って、まるで自分から感情が抜け落ちてしまったかのように変わり映えのない日々を送っていた。

 だから、まだ私にも泣くことができたのだと、今の状況を俯瞰して感心している自分がいた。

 ……これも、彼女が与えてくれた変化なんだろうか。 

 だとしたら私は、操くん達だけじゃなく、彼女にもちゃんと助けられてしまったのかもしれない。

 先程の彼女の宣言が頭を過り、再び私は思案する。

「っ……」

 頭のどこかでは分かっている現実。

 それでも、それを言葉にすることは、今の私にはまだできない。

 口にしようとすると――抑えきれない吐き気で、意識さえも手放しそうになってしまうから。

 自分の精神の脆さを、まざまざと見せつけられているような気がして、本当に情けない。

 でも、不幸の後に得た幸せはそれだけ大きくて、その後に訪れた不幸は更に大きかったのだ。

「……」

 ……あの時みたいに、変わらなきゃと思える日が、来るのだろうか。

 かつて、転校しようと思い立った、あの日みたいに。今日じゃなくてもいい、”いつか”を信じて頑張ろうと思えたあの時みたいに、少しずつでも立ち上がることができるんだろうか。

 ――本当に、この心の傷は、時間が癒してくれるんだろうか。

 そんな疑問を抱えながら、また日が過ぎていく。変わらずみんなは家に来てくれるけれど、私の態度は変わらない。でも、内心の揺らぎは、日に日に強くなっていった。……みんなから少なからず受けていた影響が、積もり積もって芽を出し始めたのかもしれない。


 そうして、また季節は流れて。

 初夏の空気が湿り気を帯び始めてきた、5月末のある日。

 

 2人の友人が持ちこんだ1冊の本が、全ての出来事に決着をつけた。

 



 

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