虹色の未来②

 4月。

 桜が舞い散る中、私は再び、学校という生活の舞台の門をくぐった。


「……教室に入って少ししたら、君のことを呼ぶから。そしたら、教室の中に入ってきてくれるかな」

 新しい担任の先生は、爽やかな雰囲気の若い男の先生だった。

 母親がすでに何度か会話をしているが、こちらの事情をしっかり理解しようと親身になって話を聞いてくれたらしい。あくまで母親の判断だが、”信頼しても大丈夫なんじゃないか”ということだった。

「それじゃあ、ちょっと待っててね」

 ガラッと音を立てて扉を開け、先生が教室の中に入っていく。

 教室の中の騒がしい空気が、一斉に廊下まで漏れ出てきた。

 予想よりもはるかに賑やかで、少し気圧されてしまう。

 ……こんな状態で、ちゃんと挨拶できるんだろうか。

「じゃあ﨑森、入ってくれ」

 そんな私の葛藤を知ってか知らずか、無慈悲にも先生に名前を呼ばれてしまう。

 恐る恐る教室に足を踏み入れると、生徒達の視線が一斉に自分に集まるのを感じた。

「……っ」

 体が震えそうになるのを必死に堪えて、教壇の前に立つ。

 先生が黒板に私の名前を書いて、チョークを置いた……そのタイミングで、私は口を開いた。

「…さきもり…きの、です…。よろしく、おねがいします…」

 ぼそぼそとした、聞き取りづらい声。

 他人に向かって話をするというのが久しぶりすぎるせいだろうか。自分の声がちゃんと出ているのか、実は自分にしか聞こえていないんじゃないだろうか、と不安になる。

 しかし、どうやら私の声はちゃんとみんなに届いていたらしい。どこからか拍手が起きて、それが止んだ頃、先生がある男子の横の席を指差した。

「席は…あそこに座ってくれるか」

 ぽつんと空けられた一つの席。隣では、柔らかい笑顔を浮かべた、元気そうな男子生徒が、私のことを興味深げに見つめてきている。

「…はい」

 一体どういう子なんだろう。好奇心ではなく恐怖心を抱えたまま、私はゆっくりとその席に腰を下ろした。

「さて、ここでの生活も残り1年となったが、みんな、悔いを残さないようにな。﨑森も、いきなりの環境の変化で戸惑うことも多いと思うが、何かあったら相談してくれ」

「…はい」

「それじゃ、これで朝の会は終わりだ。1時間目の準備をしておけよ」

「「「はーーい」」」

 生徒達の大きな声が響き、みんなが一斉に席から立ち上がる。

 これが、学校だったっけ……。久々の騒がしい環境にどぎまぎしていると、何人かの生徒がこちらに近づいてきた。

「﨑森、って珍しい苗字だね。ね、黄乃ちゃんって呼んでもいい?」

 一人の女子が声をかけてきた。それに続き、別の生徒も次々に質問を投げかけてくる。

「背高いねー。何センチ?」

「どっから来たのー?」

 彼女達に悪気がないのは分かっていたが、如何せん人とコミュニケーションをとることに不慣れなせいで、手際よく返事をしてあげることができない。

 どうしよう、今の私、絶対に困った顔をしちゃってる……。 

 実際困っていたから間違いではないのだろうけど、そんな私の態度が彼女達を不快にさせてしまうのではないかと怖くなる。

 怯えながらも何もできずにいると、意外なことに、横から助け船が入った。

「ちょっと、そんな風に質問攻めしたら、﨑森さんが困るだろ」

 隣から差し込まれた声。新しく隣の席になった男子だった。

「えー、何さ、照人のくせに生意気ー」

 楽しそうに笑う女子に対し、「ちょ、それどういう意味さ!」と軽快な返事をする男子。

「あー…。ごめんな、うちの女子騒がしいから…」

 周りにいた生徒達が去った後、先の男子がそんな風に声をかけてくれた。

「……」

 正直、すごく助かった。一気にあの人数と話をするのは、今の私には難易度が高すぎたから。

 本当は、ちゃんとお礼が言いたい。でも……――

「えっと…」

「…別に、大丈夫。気にしないで…」

 ありがとう、と言おうとした口は、まるで彼のことを突き放すような言葉を吐き出していた。

 今の私の表情も相まって、きっと彼の目には、私がもう構ってほしくないと思っているかのように映ったんじゃないだろうか。

 申し訳なさと、それでもやはり拭えない怯えを持ったまま、彼のことを見上げる。……すると彼は、にこっと微笑みながら、口を開いた。

「…俺は、小際照人」

「…こぎわ…?」

 突然の名乗り。戸惑いながらも復唱すると、彼が優しく言葉を続けてきた。

「しょうと、でいいよ。よろしく、﨑森さん」

 差し出された手。そこに、純粋な厚意しかないのが分かり、逆に怖くなってしまう。

 きっと彼は、私のことを歓迎してくれている。受け入れようとしてくれている。ううん、彼だけじゃない。クラスのみんなが、私を新たなクラスの一員として迎え入れようとしてくれているのが分かる。……そうじゃなきゃきっと、あんな風に私に質問をしてきたりしないはずだから。

 それでも、やっぱり怖い。誰かを信じることが。傷をつけることしかしてこなかったこの手で、誰かの手を握るのが怖い。

 だけど……。

「…よろしく、お願いします…」

 ……まずはこれが、最初の一歩。

 気がつけば私は、差し出された手に、自分の手を重ねていた。

 踏み出さなきゃ、事態は動かない。”変わる”と決めてここに来たのなら――まずは、行動を起こさなきゃ。

 強く握り返すほどの勇気はなくて、弱々しく彼の手を握る。すると彼は、変わらない温かな笑みを浮かべながら、深く頷いた。

 まだ、完全に信用できたわけじゃない。それでも……――

 与えられた優しさには、ちゃんと応えたい。そう、強く思った。




 それから私は、何人もの人達と新しく関わることとなった。

 クラスメイトを始め、その関わりの幅は、少しずつではあるが確実に広がっていた。夏休みには、新しい友達と一緒に遊びに行ったりもした。

 ……まさか、私にまた友達ができるなんて。半年前じゃ考えられなかったことだ。

 新しい学校で出会えた、新しい友達。その一人一人に、思い入れがある。

 その中でも、特に私の心に影響を与えたのは――やっぱり、照人くんと操くんの二人だと思う。

 二人とも、関わり方こそ違ったけれど、間違いなく私の心の支えになってくれていた。

 まずは、照人くん。私にもう一度、「友達を作ろう」と思わせてくれた人。

 教室で、初めて私に声をかけてくれてから、照人くんは何度も何度も私とコミュニケーションをとろうとしてくれた。なかなか他人に対して心を開けず、まともに話すこともできなかった私に、照人くんは根気強く接し続けてくれていた。

 そうやって誠実な姿勢を自ら示すことで、彼は「自分のことを信頼してほしい」と、暗に私に伝えたのだ。

 そして――その信頼を試されたのが、5月に行われた運動会だった。

 運動会の前日。放課後の学校で、操くんと照人くんと三人で話をしていた時に、慌ててやってきた先生から告げられた言葉。

 ――それは、照人くんの父親が倒れたという内容のものだった。

 真っ青な顔をしたまま、先生に連れ去られていく照人くん。その様子を見ていたら……勝手に、口が開いていた。

「な……何か、私達にできること、ないかなっ……」

「え……?」

「照人くん……多分、これから大変になるでしょ……。私も昔そうだった……。だから、何かしてあげなきゃ……」

 照人くんは片親だ。うちは母親しかいないけれど、照人くんの家には父親しかいない。その父親が倒れたとなれば、それは一大事だろう。

 ……3年前、お父さんが事故に巻き込まれたという情報を耳にした時の、あのぞっとするような感覚が蘇ってくる。

 今、照人くんが同じ状況なんだとしたら……きっと、正気じゃいられない。誰かが助けてあげなければ、きっと彼は押し潰されてしまう。

 縋るように操くんの方を見ると、彼は悔しそうに目を伏せながら言った。

「……現状できることは、多分ないと思う」

 告げられた言葉は、今の私達が無力だというもの。

 分かってはいたけれど、正面から現実を突きつけられると、堪えるものがある。

「そ、っか……」

 落胆を隠しきれずに俯くと、操くんが、

「でも、僕にはこれがある」

と言って、携帯電話を掲げてみせた。

「ここに、照人の携帯の番号が入ってる。夜にでも電話をかけてみるよ。……その後何をするかは、それから考えよう」

 それから、か……。ちょっともどかしかったけれど、現状何もできない以上、それが一番いいのかもしれない。

 それに、操くんは照人くんと仲が良い。彼のことは、操くんが一番よく理解しているはずだ。

「うん……」

 ひとまず、その場では頷き、操くんと連絡先を交換して解散することとなった。

 ……解散の直前、操くんが言ってくれた、『僕達2人で、照人のことを支えてあげよう』という言葉。

 ここまでの日々、照人くんから、本当にたくさんの優しさをもらった。でも、それに応えてあげることは、今のところできていない。

 何かをしてあげられるんだとしたら……それはきっと、今、この時。

 具体的なアイデアなんて何もなかったし、相変わらず自信はないままだったけれど、この時の私の中には、彼の力になってあげたいという活力が漲りつつあった。




 その日の夜。

 家でぼんやりしていると、電話がかかってきた。

 頭の中には、先程の操くんとのやり取りが残っている。

「支えてあげよう……か」

 ぽつりと呟いて、携帯を手に取る。

 ……そこに表示されている名前を見て、ハッとした。

 操くん……!

 慌ててボタンを押し、携帯を耳に押し当てる。

「……はい」

 クラスメイトと電話するなんて、初めての経験だ。

 若干の緊張と共に電話に出ると、『あ、﨑森さん?』と柔らかい声が返ってきた。

『急に電話しちゃってごめんね』

「操くん……」

 彼から電話がかかってきたということは、何か進展があったのだろうか。早く話を聞きたいと思う反面、これからどんな話が出てくるのか少し怖がっている自分がいる。

『ついさっきまで、照人と電話をしてたんだ。その報告をしたかったんだけど、今大丈夫?』

「あ、う、うん。大丈夫、だよ」

 やっぱり、その話だ……一人納得する私に、『そっか、なら良かった』と安心したような声がかけられる。

 ドキドキしながら黙り込んでいると、操くんが照人くんとの電話の内容を話し始めた。

『照人だけど……詳しい事情は教えてくれなかった。でも、先生も言っていた通り、お父さんに何かあったんだと思う。それで、明日の運動会に出られなくなりそうだって言ってた』

「……」

 運動会。

 そっか、明日なんだ……今まで意識の外にあった現実が、一気に迫ってきたような気がする。

『照人は……もちろん、お父さんのことを心配して打ちのめされてたっていうのも、あるとは思うんだけど……何より、明日、自分の役割を全うできないことに責任を感じてるみたいだった。ほら、照人、リレーの選手だから』

「うん……」

 彼が、日々運動会のために練習を重ねていたことは、クラスメイトとして知っていた。その責任を、人より重く受け止めていたことも。

『何か力になってあげられたらなって思ったけど、僕じゃ何もできないし……』

 詳しい事情は知らないが、操くんは体育の時間は見学していることが多かった。運動も得意そうという印象はない。今回照人くんのことを助けるには、明らかに不向きだった。

『でも、照人のことを助けてあげるのは、何も僕じゃなくていいんじゃないかなって思ったんだ』

「え……?」

 思わず呆けた声が漏れる。

 操くんの想像よりも明るい声に、僅かに戸惑いを覚える。

『照人が出なきゃいけなかったのは、学年混合のリレー。﨑森さんほどじゃないけど、照人も十分足は速い方だからね。照人が抜けた穴を埋めるのは、他の競技と比べても簡単じゃない』

「……」

 何となく、話が見えてきたような気がする。

 頭の中に生じた、一瞬の迷い。それを断ち切るかのように、操くんの言葉が、私の耳に届いた。

『﨑森さん。……照人のことを、助けてあげてくれないかな』

 託された願い。

 自分の中で、スイッチが切り替わるのを感じる。

『無理を言ってるのは分かってる。﨑森さんは、クラスメイトからリレーの出場を勧められてなお、それを断ってるんだから。今思えば、その理由も少しは分かるし……』

 私が以前操くんに話したことを気にしてくれているのだろう。私が彼に語って聞かせた、私自身の過去。彼がどう受け止めたのかは分からないが、少なくとも理解は示してくれた。

『でも、やっぱり僕は、照人に悲しい思いをしてほしくない。これ以上照人に、自分のことを責めてほしくないんだ』

 操くんの、優しく諭すかのような声。

 照人くんのことを、本当に大事に想っているんだな……そう、伝わってくる。

 私は、どうしたいんだろう。

 操くんみたいな深い感情は、生憎持つことができない。でも、できることなら、力になりたいと思う。

 じゃあ、私がやるべきことは。

 自分の中で、ある程度決意が固まる。……そのタイミングで、再度操くんから言葉が放たれた。

『お願い、﨑森さん。照人のことを……助けてあげて』

「……!」

 ――ここまで言われて、彼の望みを拒むことが、どうしてできようか。

 二度目の救援要請に、私の気持ちはすっかり外堀を埋められてしまっていた。

『夜にわざわざごめんね。……おやすみなさい。今日はありがとうね」

「……うん。おやすみなさい」

 切られた電話。携帯をぎゅっと手の中で握り締め、考える。

 ……本当だったらこういう時は、補欠の選手が代理を務めるのがベストなんだろうけど。

 多分それだと、照人くんの望みを叶えることはできないんだろう。

 彼が望んでいるのは、クラスの勝利。その栄光を、仲間に掴ませてあげること。

 少しでも確実に、その願いを叶えてあげるには……――

「……」

 ――昔、かつて通っていた小学校で参加した運動会のことを思い出す。

 校庭を駆け抜け、ゴールテープを切った時の、あの感覚。

 あれと同じものを、再現できたなら。

「……」

 大丈夫。

 私が、やってみせる。

 静かに目を閉じ、息を吐き出して、もう一度目を開けた。

 これは、私からの恩返し。

 これまでに受け取ったものを、彼に、返すために、動くんだ。

 窓の外を眺めると、ささやかながらも星がキラキラと瞬いていた。その光に視線を向けながら、私は深く息を吸い込んだ。




 翌日。

 運動会が始まり、会場内が相応の熱気に包まれる中、私達1組の生徒の間には、どこか不穏な空気が立ち込めていた。

 それは当然だろう。なんせ、クラスの主要人物である照人くんが欠席しているのだから。

 先生から彼がリレーに出られなくなったという通達こそあったものの、詳しい事情については一切説明がなく、皆照人くんのことを一様に心配しているようだった。

『照人のことを……助けてあげて』

「……」

 昨日、操くんからかけられた言葉。

 ……私には、クラスに貢献する資格なんてない、そう思ってた。

 私はすでに前の学校で失敗しているんだ。だからもう、友達なんて作れないし、作りたくもない。そんな考えに縛られていた。

 でも。

 私にも……また、誰かを助けることができるかもしれない。

「……﨑森さん。……任せたよ」

 クラスメイトのみんなが、緊張した面持ちで私のことを見つめている。

 リレーが始まる少し前の時間。事の発端は、操くんが口にした言葉。

『今回の運動会、点差を覆すなら、最後のリレーしかない。……だから、僕としては、照人の代わりに、﨑森さんに走ってほしいって思ってるんだ』

 操くんの突然の発言に、クラスメイトがざわめいた。もちろん当然だ。私には、元々リレー選手に推薦されていたのにも関わらず、それを断ったという前提があるのだから。今更走ってもらえるわけがない、と思っているのだろう。

 でも、私の心はもう決まっていた。それに、仮に反対意見が出たとしても、操くんの意見を覆すことは難しいだろう。

 ……なぜなら彼も、照人くんに負けず劣らず、クラスの中で厚い人望を得ている人間だから。

「……分かった」

 託された想いを、胸に。

 ……いざトラックに立つと、周囲の喧騒が一気の静まっていくような錯覚に陥った。

 周囲の音が消えていき、世界に自分しかいないような気がしてくる。

 集中力を極限まで高め、イメージを固めて……――

 精神を研ぎ澄ましていると、ズサァッ!という音が背後から聞こえてきた。どうやら、選手の一人が転んでしまったらしい。私と同じ赤組の生徒だ。

 普通であれば、こういう時、ひどく焦ってしまうものなのかもしれない。

 でも……――

「……」

 運動だけは、昔から得意だった。その事実が、私に自信をくれる。

 大丈夫。後は、何も考えずに、ただ走るだけ。

 体を動かすのは、意外と単純だ。難しいことは考えずに、ただ本能のままに足を出せばいい。そうすれば、自ずと景色は流れていく。

 他のクラスから大分遅れて渡されたバトン。前のクラスとの差は半周。

 ……いける。

 そう直感した直後、私は猛然と地を蹴り、前を走る選手を追走し始めた。景色が流れ、視界が霞んでいく。でも、その背中からは絶対に目を離さない。

 ……1人抜いた。さらにその前を走るのは、長い茶髪を振り乱している女の子。

「……ッ」

 息が跳ね、体が言い知れぬ高揚感に包まれていく。……あぁ、やっぱり、この瞬間は、嫌いじゃない。

「はッ……!」

 隣で息を呑む音が聞こえた気がしたけれど、それには意識を向けずに、そのままゴールテープを切る。

「優勝は……1組!! ハプニングを乗り越えて1位に躍り出たぁぁぁぁ!!!」

 放送委員の生徒の興奮した声が響く中、私は1人、照人くんのことを考えていた。

 ……照人くん。これで私、少しはあなたに、恩を返せたかな……。

 



 それから、私と照人くんは、改めて”友達”として関わっていくこととなった。

 『友達になってほしい』と改まった形で告げるのはすごく緊張したけれど、照人くんは私の申し入れを笑って受け入れてくれた。

 それからずっと、彼は私の心の支えになってくれている。

 ……そして、もう1人。私に強い影響を与えた人物がいる。

 過去に押し潰されそうになった私。他人と上手く向き合えずに藻掻いた私。

 そんな私のことをそばで見守りながら、照人くんと友達になるまでの過程で、たくさん力を貸してくれた人物。

 そう。操くんだ。




 ……思えば、他人に自分の今の気持ちを話したのは、彼が初めてだった。

 どうして、彼にはすんなり話ができたのか。その理由は、私自身にもよく分からない。

 ただ、彼には異常ともいえるほどの鋭さがあった。洞察力、とでもいうのだろうか。見聞きした僅かな情報から状況を分析し、自分の考えを述べる力。しかも、その分析はかなり正確である。

 言葉を発しなくても、目線や表情から、考えていることを全て読み取られてしまうんじゃないかというような気にさせられる。だからこそ、私はひどく

動揺した。私の過去なんて絶対に知らないはずなのに、その裏に隠されている感情をあっさり暴かれて、彼に恐怖心を抱いた。

 それでも――

 彼の瞳が、彼の佇まいが、象徴していた。これが、彼なりのやり方なのだと。照人くんと同じ、自分なりの正義の貫き方なのだと。

 今思えば、私は今の学校に来て、つくづく友人に恵まれたものだと思う。転校してから出会った人達はみんな、その態度や性格に多少の差はあれど、全員善意に満ちていて、とても私のことを大切にしてくれている。こんな優しい世界もあるんだな、と、私に改めて実感させてくれた。

 彼は、どこまでも私の味方だった。疑うことではなく、信じることから関係を始めてくれた。きっと、それが大きかったのだと思う。

 正面から真っ直ぐぶつかってくる照人くんと違って、操くんは心の隙間からスッと内に入り込んでくるような話し方をする。物事の表面をそのまま受け取るのではなく、その裏側まで理解しようと、細かな部分まで目を配っている。私には、そんな風に感じた。

 彼に話を聞いてもらった時、私は照人くんと操くんのことを、”光と影”と表現したけれど、本当に二人はそういう存在だと思う。どちらが良いとかではなく、二人が揃って初めて均衡が保たれる、そんな感じ。

 気がついたらそばにいて、困っている時にはすっと手を差し伸べてくれる。

 この日以降、二人きりで話をするような機会はなかったけれど、彼が近くにいるだけで、私はどことなく安心感を覚えていた。




 照人くんや操くんの他にも、新しい学校で、私は色んな友達と出会うことができた。

 隣のクラスの、夏茂葉さん。明るくて元気で、裏表のないサバサバとした女の子。

 彼女とは、知り合ってからすぐにちょっとしたトラブルこそあったけれど、それ以降なんだかんだ言いながらも私と関係を続けてくれていた。

 決して私に対して優しかったわけじゃない。でも、その真っ直ぐな態度が、却って私のことを安心させてくれた。

 それから、同じく隣のクラスの記月龍也くん。あんまり積極的に話すタイプではないけれど、すごく頭が良くて学年から注目を浴びている優等生、らしい。

 彼とは特別接点があったわけじゃないけれど、普段の話し方や態度から、すごく真面目な人なんだなということが伝わってきた。周りに対して気を配れる優しい人。

 一度プールに遊びに行った時は私が教える側だったけれど、その後みんなで勉強会をした時は、私が教わる側だった。得意なことは全然違うけれど、一緒に過ごしていると、なんとなく落ち着いた。それに、尊敬もしていた。周りからすごいと言われるだけあって、その節々に積み重ねた努力の跡が滲んでいたから。

 それぞれの人達に、それぞれの個性があって。みんなが、それぞれの方法で、私と関わりを持ってくれた。そのことが、たまらなく嬉しい。

 転校当初に私に影響を与えてくれたのは照人くんや操くんだったけど、そのおかげで後に関われるようになった人物もいた。操くんのそばにいつもいて、彼のことを本当に大切に思っている人物。

 そう、積谷令那さんだ。

 始めは、無表情で怖い人だと思っていた。自分にも他人にも厳しくて、距離感の掴みづらい相手。操くんといつも一緒にいる理由がよく分からなくて、なんとなく近寄りがたさを感じていた。

 でも、彼女に抱いていた印象は、彼女と一晩を共にしたことで変わった。今まで知ることのできなかった彼女の内面を知り、私自身も、自分の内側の感情を吐き出すことができた。自分のことを話したことで、彼女に対して抱いていた警戒心のようなものは、完全に取り払われたと言っていい。誰かに促されることなく、初めて自分から過去について話せた。その事実は、私の中ですごく大きかった。

 きっと、事前に操くんと話をしていたのも大きかったのだと思う。彼は、積谷さんのことをすごく心配していたから。彼が動けない以上、私がなんとかしなきゃ、という義務感があったのは確かだ。

 そして、その結果、私の口からは、思った以上にするすると言葉が零れ出てきていた。自分が話したかったというよりは、彼女に話してほしかったからこその行動。かつてのように、同性の友達と一緒に過ごすことができて、いつも以上に嬉しかったのかもしれない。

 普段の彼女の立ち位置とは違い、私が会話をリードしていたあの夜。勢いのまま話された私の過去を……積谷さんは、静かに受け止めてくれた。

 翌朝も、いつも冷静な積谷さんが珍しく取り乱していて、なぜか私の方が冷静で……本音を話し合ったからだろうか、どこかお互いに砕けた雰囲気で一日を過ごすことができた。

 照人くんや操くんとはまた違う。やっぱり、同性の友達には同性の友達の良さがある。

 彼女との間に生まれた独特な距離感は、私に新しい友達関係を築かせてくれたのだ。

 今度こそ、心から信頼しあえる、そんな関係を。




 ――それでも。

 どれだけ頑張って幸福を取り戻しても、何かを失ってしまうことはきっとあって。

 ようやく得た感情も、新しく生まれた思い出も、全てが不意になってしまうような出来事は、本当に突然訪れるものだ。

 十二月。冬の寒い日、朝。

 すっかり通い慣れた学校の校門をくぐり、昇降口で上履きに履き替えて、階段を上っていく。

 クリスマスが近いからだろうか。どこか、学校全体が浮足立った雰囲気に包まれている気がする。

 教室に飾られている小さなオーナメントを目にしながら顔を綻ばせていると、背後から声がかかった。

「おはよ、黄乃! 今日も寒いのなー」

「おはよう、照人くん」

 上着を襟元で擦りながら、照人くんが「うぅ~~~」と声を上げている。

 今朝も雪が降りそうな冷え込みだ。もしかしたらホワイトクリスマスになるんじゃ……なんて淡い期待を抱いてしまう。

「そういえば、今日は操くん一緒じゃないんだね」

「あぁ、今朝は見かけなかったな。寝坊でもしたんじゃないか?」

 あの二人が寝坊なんて、聞いたことないけどな……不思議に思いながらも教室に足を踏み入れる。

 自分の席で荷物を片付けていると、寒そうな表情を浮かべている生徒達が続々と教室の中に入ってきた。すでに暖房の効いている空間なので、みんな幸せそうに一息吐いてから着席している。

 しかし、そんな風に登校してくる生徒達の中に、操くんの姿はなかった。ただの偶然なんじゃないか、そんな甘い気持ちが、だんだんと不安に変わっていく。

 ……遅いなぁ……。

 なぜか担任の先生さえもなかなか来ない。先生が来ないことに違和感を覚え始めた生徒達が、どことなくそわそわし始める。

 そんな時だった。担任の先生が、真っ青な顔をして教室の扉を開けたのは。

 

 

 

 

 


 

 

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