空色の日記②

 4月7日。

 今日、僕達のクラスに、転校生がやってきた。


 それは、本当に突然の出会いだった。

 教室に入ってきたのは、どこか大人びた雰囲気を纏った、大人しい女の子。

「…さきもり…きの、です…。よろしく、おねがいします…」

 静かな自己紹介。俯いた瞳に、固く握られた手。そこから、彼女の抱いている感情が、ただの緊張だけではないことが何となく伝わってきた。

 しかし、単純に考えれば、新しいクラスメイトが加わるというのは、ワクワクする大きなイベントだ。僕達6年1組のメンバーは、歓迎ムードを振りまきながら、彼女のことを迎え入れた。

 しかし、そんな僕達のことを受け入れようとしていなかったのは、どちらかというと彼女の方だった。周りが話しかけても、決して必要以上のリアクションはしなかったし、目線も合わせることができない。内気な性格なのかもしれないとは思っていたが、接していくうちに、どうもそれだけではなさそうだということが分かってきた。

 その証拠と言っていいのかは分からないが、1つ意外に思ったのは、親友である小際照人が、彼女の心の内に踏み込むことができなかったという現実だった。

 照人は昔から社交的で、人とコミュニケーションをとるのが抜群に上手い。その照人でさえ彼女と親しくなれないとは、一体どれだけ壁が厚いのだろうと。

 僕も友達は多い方だが、照人みたいに積極的に人に話しかけるタイプではない。ここは一旦、様子を見よう――そう決めて、僕は彼女と付かず離れずの関係を保っていた。

 でも……その均衡は、ある日突然、崩れ去ることになる。




 5月23日。

 今日は、大きな出来事が2つあった。

 1つ目は、﨑森さんと話をしたこと。

 2つ目は、照人のお父さんが、倒れてしまったことだ。


 それは、放課後のことだった。

 明日に運動会を控えた僕は、病院で定期検査を受けた帰りだった。

 ……残念なことに、僕は学校で運動をすることは禁じられている。体を動かしても問題ないことは分かっていたが、他の人との接触など予測がつきにくい環境で運動を行うのはリスクが高いという、積谷さんの判断によるものだった。

 だから、明日も見学が確定していたのだけど……こればかりは仕方がない。

 誰が悪いでもない。強いて言うなら、悪いのは僕にこんな体を与えた神様だ。

 「ふぅ……」

 それでも、抑えきれない憂鬱な気持ちが、つい呼吸に表れてしまう。これは良くないな……そんな風に考えていると、目の前に、見覚えのある背中が見えた。

 あれ……。

 ちょっと癖のある髪に、細い線を持つ体躯。まだあまり言葉を交わしたことはないが、あれは間違いなく﨑森さんだ。

 手には買い物袋らしきバッグを提げている。もしかしたら、おつかいでもしてきたのかもしれない。

 普段は見られない彼女のプライベートな一面を垣間見た気がして、少し興味が湧いてくる。

 ……声、かけてみようかな。

 不意に、そんな衝動に駆られた。

 彼女が転校してきてから2カ月弱、僕はあまり積極的に彼女には絡んでこなかった。その結果、彼女はクラスにまだ馴染めず、1人で過ごす時間が多くなってしまっていた。

 照人が長らく接触を試みていたけど、最近何かがあったのか、照人でさえも﨑森さんと絡むのを避けているように見えた。

 僕の目から見た感じ、照人の接し方に問題があるというわけではなさそうだった。そうなると、2人の距離が縮まらないのは、彼女側に原因がありそうである。

 親友の努力が報われてほしい――そしてあわよくば、彼女にも楽しい学校生活を送ってもらいたい。

 そんな気持ちが、僕に行動を起こさせた。

「……﨑森さん?」

 背後から彼女に近づいて、そっと声をかけると、﨑森さんはビクッと肩を震わせて振り向いた。

「み、操くん……?」

「こんにちは。偶然見かけたから、声かけちゃった」

 僕の言葉に、﨑森さんはこちらを探るような視線を向けてくる。どうしたら、安心してくれるかな――そんなことを考えながら、自然な動作で彼女の隣に並ぶ。

「良かったら、少しおしゃべりしない? 僕、あんまり﨑森さんと話したことなかったから、ちゃんと話してみたいと思ってて」

「え、えっと……」

 ぎこちなく目を逸らす﨑森さん。やっぱり、僕――いや、”他人”というものに怯えているような瞳をしている。

 知りたい。彼女が何に怯え、どうして他人を拒絶するのか、知りたい。

「少しでいいから。……ダメ、かな」

 僕はずるい人間だ。

 こう言えば人は断りづらくなると、頭のどこかで分かっていて、その上でこういう手法を使ってしまうのだから。

「……ダメ、では、ない、です……」

「そっか。……良かった」

 僕が微笑むと、﨑森さんは萎縮しながらも小さく頷いた。

 ……まずは一歩。

 ひとまず、彼女との対話のスタートラインに立てたことに安堵しながら、僕は彼女と肩を並べて、ゆっくりと歩き始めた。


「……」

「……」

 僕達2人の間に、何とも言えない気まずい沈黙が流れる。

 まぁ、無理もないと思う。僕側はともかく、﨑森さんからすれば、そこまで接点のなかったクラスメイトが突然話しかけてきて、”少しおしゃべりしたい”なんて提案してきたら、怖がるのも当然だろう。

 でも、この好機を逃すわけにはいかないのだ。

 ひとまず、世間話から入るか――当たり障りのない話題を振るために、口を開く。

「明日、運動会だね」

「……うん」

「﨑森さん、運動神経すごく良いよね。羨ましいなぁ」

 彼女が優れた身体能力を持っていることは、体育の授業の様子で分かっていた。

 一時はリレー選手にも選ばれていたのだ。間違いなくクラス最速だったと言える。

 ……でも、彼女は辞退した。その理由も、未だに謎なままなのだ。

「すごい今更だけど……﨑森さん、どうしてリレー選手を辞退したの?」

「……」

「あぁいや、言いたくないなら無理にとは言わないけど」

 顔色が若干悪くなった気がして、慌ててそんなフォローを入れる。ちょっと踏み込みすぎたか……そう思っていると、﨑森さんが口を開いた。

「……目立ちたくなかったから」

「え?」

「確かに、運動は得意、だけど……でも、変に、目立ちたくない……。私は、ただ、静かに……過ごしたいだけ……」

 小さな呟きが耳に入る。

 目立ちたくない……か。

「それは……恥ずかしいとか、そういう理由だったりするのかな」

「別に、恥ずかしいってわけじゃ……でも、注目はされたくない……」

 俯く﨑森さんの横顔を見つめながら、僕は1人考えを巡らせる。

 恥ずかしくはないけど、注目はされたくない。人から関心を持たれることに抵抗感がある? そういう人は少なくないけど、その理由は羞恥心が大半だ。では、どうして目立ちたくないと感じるのか。

 怯え。恐怖。躊躇い。彼女の思考をトレースするために記憶を巡らせる。

 ――そうして、僕は1つの結論に至った。

「……トラウマ」

「え……?」

 僕の呟きに、﨑森さんが戸惑いで瞳を揺らす。

「恥ずかしいわけじゃないんでしょ……? でも、注目されたくない。それは、過去に何かで注目を集めたことがあって、その時の体験が恐怖となって心に染みついているから……とか、そんな感じじゃないのかな」

 僕の言葉に、﨑森さんが目を見開く。

 人からの視線を過度に気にしてしまう人というのは、案外多い。そしてそういう性質は、家庭環境の影響下に生まれた強大な承認欲求だったり、人前で大恥を掻いてしまった経験だったり、様々な理由によって備わる。﨑森さんの場合は、おそらく後者の方が近いと考えられる。

 何らかの過去の出来事が、彼女の心を縛り付けている。その結果、彼女は人前で話すことさえ躊躇してしまうのではないだろうか。

 そう推測し、僕はそのまま慎重に会話を進めていく。

「……過去に何があったのか、さすがにそこまで予測することはできないし、過度に踏み込むべきじゃないとも思うけど……でも、僕は、﨑森さんが何を感じてるのか、知りたい……と思ってる」

「……」

「他人と関わるのは、怖いかもしれない……でも、知ってほしいから。他の人と関わる楽しさを」

 僕はいつだって、周りの人に支えられて生きてきた。

 照人はいつも明るく僕のことを励ましてくれていたし、令那はいつも冷静に僕の体調を気遣ってくれていた。2人は決して似てはいないけど、どちらも僕にとって大事な存在だ。

 彼女にも知ってほしい。誰かと関わり合うことは、こんなにも胸の内を温めてくれるのだと。

 ……でも、彼女は頑なだった。

「……どうして……そんなこと、言うんですか……?」

「え……」

「操くんは……私の、何を……知ってるんですか……?」

 そう言って、﨑森さんは僕の瞳を覗き込んできた。

「……っ」

 その瞳の温度に、気圧されそうになる。

 そこには、怯えの色こそなかったが、僕の態度に対する戸惑いと、自らの領域に踏み込まれることを拒否しようとする非難の色が滲んでいた。

「……何も……知らない、よ」

「……」

「知らないから、知りたいと思う、のは……間違ってるのかな……」

 取り繕っても仕方がない。

 好奇心による行動だったと、彼女に告げる。すると彼女は、意外なことを口にした。

「……今まで」

「?」

「今まで、私に対して、その……私の態度についてとか、聞いてくる人って……いなかったので……ちょっと、驚きました」

「あ……」

 そう言われて、気づく。

 確かに、無口で孤立していた彼女に対して、そういう問いを投げかけた人は、今までいなかったように思う。

 大半の人は、上手くコミュニケーションを取り合えない彼女のことを遠巻きに見ていたか、あるいは照人みたいに玉砕覚悟でガンガンアプローチをかけていたかのどちらかだ。

 彼女がどういう風に考えているのか、それを探ろうとした人は、今までいなかったのかもしれない。

「操くんは……全部、分かってるように見えます。私が、どういう風に考えてて、過去に何があって……。全部、予想できてるように見える……」

「……」

「どうして、そんな……必死に、なれるんですか……?」

「それは……僕が、ってこと?」

「操くんも、ですけど……その……照人くんとか……」

 彼女の口から照人の名前が出たことに、僕は思わず安心してしまった。

 照人。君の行動は、ちゃんと彼女の心に影響を与えていたみたいだよ。

「……照人は、﨑森さんのことが心配なんだと思うよ。早くクラスに馴染んでほしい、できれば﨑森さんと仲良くなりたいって、本気で思ってる。そこに裏なんてないし、照人自身の純粋な思いが行動に表れてるだけだと思うよ」

「……」

「僕は……そうだな……」

 自分が、どうして彼女のことをこうも気にかけているのか。

 色々と考えて、一番しっくりきた回答を彼女に渡した。

「……限りある時間を、誰かのために使いたいって思ったから、かな」

「限りある、時間……?」

「うん。僕は今まで、他人から、他人って言葉では済ませられないぐらいたくさんのものをもらったから。その恩に報いたいって、そう思ってるんだよ」

「でも、私は、操くんに何も……」

「別に、そんな細かいことは気にしなくていいよ。人助けの一環みたいなものだしね。僕が恩返ししたいのは、特定の誰かじゃなくて、世界だから」

「世界……」

「そう。世界」

 自分でも、壮大すぎることを言っている自覚はあった。

 でも、これが僕の素直な想いだ。

 たとえ、昔のような生活を望むことができないとしても。

 せめて、周りの人に対して、優しくありたいと。

 いつの間にか、心の中で、そんなことを願うようになっていたから。

「……﨑森さんはさ。世界を、恨んでるのかな」

「……」

「それとも、世界が怖いのかな」

 僕達の歩みは、いつの間にか止まっていた。

 絡んだ視線。思考がリンクするかのような錯覚に陥る。

「……私、は……」

 揺れる瞳が、焦点を結ぶ。

 絶対に、彼女の本音を、聞き逃してはいけない。

 僕がそんな焦燥感に駆られる中、彼女の唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「私は……人から嫌われることが、怖い」




「嫌われることが、怖い……?」

 僕が再度確かめるように問いかけると、彼女は小さく頷いた。

 嫌われることが怖い、か。誰しもそういう想いは抱えているものだろうけど、彼女にとって、その想いは人一倍強いのかもしれない。

「何か……そう思う、きっかけでもあったのかな」

「……!」

 彼女の顔に動揺が広がる。図星かな……と僕はそれを冷静に受け止めた。

 もう少し。もう少しで、彼女の心の核心に触れられる気がする。

 おこがましいのは承知の上で、僕はさらに問いを重ねた。

「誰かに注目される時って、2種類あるよね。すごいって尊敬されるか、嫌だなっていう負の感情を向けられるか。﨑森さんは……両方、向けられたことがあるのかな」

「……」

「人から視線を集めるって、確かに、怖いことだよね。僕も……ちょっと、普通と違うところがあるから、その気持ちは分かるよ。でも……」

 きっと、君の抱いている感情とは違う。そう言おうとしたところで、彼女が声を荒げながら言葉を浴びせかけてきた。

「あ、あなたに、私の何が分かるっていうんですかっ……!」

「っ!」

「わ、私は、もうっ……。あんな思いは、したくないっ……! あんな……ひどい仕打ち……」

 瞳に涙を浮かべた彼女が、肩を震わせながら呟く。

「信じてたのに……。みんなのことが、ただ、大切で……。正しいことをしなきゃって、思ってて……。でも、その行動は……誰かにとっては、多分、不都合で……」

「……」

「私は……自分の何が間違ってたのか、分からない……。だから……っ……」

「……前の学校で……何か、あったの……?」

 彼女の言葉の断片から、1つの予想を立て、僕は彼女に問いかける。

 彼女は、言葉で断定こそしなかったけど、僕の言葉に、小さく頷いた。

 ……そっか。そういうことか。

 分かってしまえば、それはありきたりな話だ。

 詳しい事情は分からない。でも、大勢から敵意を向けられ、人から嫌われることに過度に恐怖を感じてしまう体験をしたことのある人は、少なからずいるんだろう。

 世間一般的に、そういう行為のことを、人は”いじめ”と呼ぶ。

「僕の考えが間違っていないなら……それは、相当凄惨な体験だったよね」

「……」

「僕は、幸いなことに、人から嫌われてしまうようなことは今までなかったから……多分、完璧に共感してあげることは、できないんだと思う」

 僕にだって、辛いことはたくさんあった。

 思うように動かない身体。意外にも繊細な精神。肉親との突然の別れ。

 苦しい試練に襲われながらも、それでも、前を向くしかないと信じて、ここまでやってきた。

「僕が前を向けていたのは、いつも支えてくれる存在があったから」

 ――両親が他界してからしばらくの間、僕はかなり荒んでいた。

 表向きはいつも通りだったかもしれない。でもそれは、雰囲気の変わってしまった積谷家の日常を取り戻すために、必死に強がっていただけに過ぎない。実際のところは、ぼろぼろの心を何とか立て直そうと、無理矢理不安を抑え込んでいただけだ。

 ……それでも、そんな僕のそばに、いつも誰かがいてくれた。

 いつだったかは分からない。だけど、心に強く残っている言葉がある。

『辛い時は、ちゃんと頼れよ。俺はお前の味方だから』

 両親を亡くし、病気のことを打ち明けた時、照人が言ってくれた言葉だ。

『気持ちを強く持ちなさい。あなたは強い。私が保証するわ』

 これは、積谷家の人間にバレないように、部屋で声を殺して涙を流していた時、僕のことを見つけ出した時の令那の言葉だ。

 弱さを許し、強さを肯定してくれた2人の言葉が、ずっと僕の心を照らしてくれている。

「今は、怖いかもしれない。でも、君に悪意を向ける人は、僕達の学校にはいないよ。だから、大丈夫」

「で、でも……」

「すぐには難しいよね。でも、こういうのって、積み重ねが大事だと思うんだ。一日一歩ずつでもいい。少しずつ歩み寄れば、きっと、心を通わせることもできると思うんだ」

 僕は、人の悪意に触れた経験が少ない。

 だから、彼女の恐怖を和らげてあげることは難しい。

 それでも、言い続けなきゃいけないと思う。信じられる人もいるんだということを。

 その一歩に、僕でも照人でもいい、誰かを選んでほしいと、強く思う。

「孤独は……恐怖を和らげることはできるよ。でも……僕は、寂しいなって、思う」

「……」

「教えて、﨑森さん。……君の、本当の望みを」

「……わ、たし、は……」

 﨑森さんが、潤んだ瞳を彷徨わせる。

 長い思索の時間。迷いと緊張が、空気を通して伝わってくるような感じがする。

 ……それでも、この迷いの時間には、必ず意味があるはずだ。

 僕は、僕にしかできない方法で、彼女に歩み寄りたい。

 照人みたいに、明るく彼女のことを導くことはできなくても、その心根を汲み取って、寄り添ってあげることができるはずだから。

 ――かなり間が空いて、彼女はようやく、その唇を震わせた。

「……私、は……」


 彼女は語った。

 心の奥底に押し込めていた、過去の記憶を。

 そして、望んだ。

 ”本当は、みんなと仲良く話せるようになりたい”と。




 﨑森さんと会話をし、僕達は再び、ゆっくりと歩を進めていた。

 学校の話をしていたからだろうか。気がつくと僕達は、校門の前に到着していた。

「……ごめんね。家に帰る途中とかだったんだろうけど……結局、こんなとこまで来ちゃったね」

「……ううん。むしろ、話を聞いてもらっちゃったのは、私の方だから……」

 出会った時より大分柔らかい表情で話せるようになっている気がする。

 彼女の些細な変化が嬉しくて、思わず頬が緩む。

「操くんは……不思議な人だね」

「え……?」

 さっきもそんなことを言われたような気がして、首を傾げる。

 確か、僕の発言に対して、『驚いた』と言っていた。

 今までこういう風に、心の内に踏み込んでくる人はいなかった、みたいな。

「照人くんも、私のことを、すごく気にかけてくれていたけど……それとは、またちょっと違う感じがしたというか……」

「どういう感じかな……?」

 純粋な興味で聞いてみる。すると﨑森さんは、

「……光と、影」

と、呟いた。

「光と、影……?」

「うん。照人くんは、明るくて、真っ直ぐな目をしてて……。すごく、眩しいなって思った。多分、本当に純粋に、私のことを心配してくれてるんだなって……。まぁ、それすらも、信じるのが難しいなって思ってたんだけど……」

「それは……仕方がないよ。一度信じられなくなったものをもう一回信じるって、結構大変だもん」

 でも、照人に関して言うなら、本当に裏のない純粋無垢な熱意で﨑森さんに接しているんだと思う。それに彼女自身が向き合おうとしてくれているのは、親友としてとても嬉しい。

「操くんは……もちろん、素直に心配してくれているとは思うけど……。でも、それだけじゃない、気がした」

「え……?」

「なんだろう……。優しいんだけど、照人くんみたいに、明るいだけじゃなくて、その……苦しさとか辛さとか、そういう部分まで見えてるっていうのかな……。うぅん、上手く言葉にできない……」

 﨑森さんは頭を悩ませているようだったけど、彼女の言葉で、僕は確かにそうかもな、と合点がいった。

 照人は、良くも悪くも純粋なのだ。照人だって、人並み以上に辛い体験はしてきている。母親を亡くし、家族を支える長男としての役割を長年全うし続けている。その責任に苦しめられることもあっただろう。

 それでも照人が折れなかったのは、照人が人を疑うことのできない真っ直ぐな性格だからだ。自分のことより周りのこと。誰より優しくて、強くて、前を向かずにはいられない。だから彼は、影に目を向けることができない。

 その点、僕は照人とは少し違う。僕は、照人のように、完全に前を向くことができなかった。だから、一筋縄では立ち直れない人間の気持ちを理解できてしまう。

 人生で辛い経験に当たった時に、明るい言葉や無垢な励ましが、時に自分の心を圧迫してくることを知っている。正論が、時に鋭い刃物になって追い立ててくることを知っている。

 だから、僕は照人のようにはなれないし、照人も僕のようにはなれない。どちらが良いとか悪いとかではなく、物事への向き合い方の違いだ。そこに、﨑森さんは気づいたのだろう。

「操くんの言葉は、魔法みたいだね……。人の心を読めるんじゃないかって思ったよ」

「あはは。本当にそんな力があれば良かったんだけどね」

「うん。……今度は……照人くんと、向き合わなきゃ……」

 﨑森さんが、抱いた責任を噛み締めるように目を閉じる。その様子を眺めながら、ふと校庭の方に目を向けると、偶然にも照人の姿がそこにあるのが分かった。

 他にも何人か生徒がいる。全員体操着を着ている様子を見ると、明日のための最終練習をしていたみたいだ。

 気合いのこもった掛け声が聞こえ、解散らしい雰囲気になったところで、僕は﨑森さんに声をかけた。

「……ねぇ。少し、照人のところに行ってみない?」

「え?」

「こういうのは、気持ちが昂っているうちに行動した方が、身を結ぶと思うんだ」

 明日になれば、また気持ちが萎んでしまうかもしれない。

 その前に、照人と話すチャンスがあるのなら、挑戦する価値はあるだろう。

「……わ、分かった。話し、てみる……」

 﨑森さんが、緊張した面持ちで頷く。

 ……少し、フォローを入れてあげた方がいいかもしれない。

 そんなことを考えながら、僕はゆっくりと照人の方に近づいて行った。

「…照人」

 荷物を手に取り帰ろうとしているところに、すかさず声をかける。

「操…。それに、﨑森さん…?」

 照人が、驚いたようにこちらを振り返った。

「どうしてこんな時間にここに?」

「実はさっき、たまたま会ってね。普段はあまり話す機会がないし、せっかくだから照人を見習って話しかけてみようと思って、僕の方から声をかけたんだ」

 極力自然に、いつもと変わらないように。

 照人と﨑森さんの間の溝が、少しでも自然に修復できるように、慎重に言葉を紡ぐ。

「でも、それならなんで学校に…?」

「んー?いや、話しながら歩いてたら、たまたまこっちの方に来ちゃったってだけだよ?そしたら照人の姿が見えたから、一声かけていこうかなーって思ってさ」

 嘘はついていない。どうにかして、﨑森さんと照人に会話をしてもらいたい――そう思っていると、近くから別の生徒達が近づいてきた。

「あれ、須上じゃん。こんなとこで何してんの?」

 クラスメイトだ。本当はもう少しこっちの会話を回していたかったけど……でも、当然無視するわけにはいかない。

「ん?みんなでお喋りだよ。そっちは、明日の練習?」

「そ。俺達リレー出るからさ。やっぱ最後の学年だし、絶っっ対に優勝しねえとな!!」

 力強く意気込む友達に労いの言葉をかけながら、ちらと照人達の方に視線を向ける。……2人は、たどたどしいながらも、少しずつ会話を続けているようだった。

 ……うん、そう。最初はそれでいい。きっかけさえあれば、きっと、2人はもっと分かり合えるはず……!

 しばらくして、一緒に話していたクラスメイトが去ると、僕は照人達の方に向かいながら横槍を入れた。

「…あれ、どうしたのー2人とも。黙り込んじゃって」

「操くん…」

 2人がさっきからこっちをちらちら見てきていたことに気づかないふりをしながら、そんな風に言葉をかける。

「あ…。いや、別に、何でもねぇよ。ただ、2人がどんな話をしてたのかって、気になっただけ!」

「もしかして、勘繰ってたの〜?」

「ばッ…!そんなんじゃねえよ。そもそも、2人の会話は2人の会話なんだから、それをわざわざ探る気はないって」

 そう言いつつ、照人の瞳に宿った好奇心は、僕の目から見ればバレバレだった。

「そんなこと言って、結構気になってるんじゃないのー?僕と彼女がどんな話をしたのか」

「……っ」

 分かりやすいなぁ。

 誰よりも彼女のことを気にかけているから、そういう顔ができるんだろうな。

 そんな照人の姿を眩しく思いながら、彼の言葉を待つ。

「知れないことは想像で補うとするよ」

 またまた、かっこつけちゃって。

「ま、実際のところ、大した話はしてないんだけどねー。今日の給食おいしかったねーとか、僕がひたすら話しかけてただけで」

「うわっ、ただ話を聞かされるだけのやつじゃん…。﨑森さん、つまんなくなかった?」

 僕の軽口に対して、照人が﨑森さんに話を振る。すると彼女は、

「ううん。…嫌じゃ、なかったよ」

と、呟いた。

「そっか!ほらー、﨑森さんもこう言ってるじゃーん」

「……」

 ついいつものノリで明るく言葉を発し――その直後、照人が予想よりもはるかに真剣な顔で考え込んでしまったことに気づく。

 まずい。さすがに茶化しすぎたか。

 気を許しているからこその弊害が出てしまったような気がする。

「おーい、照人?」

 彼の眼前で手を振りながら話しかけると、照人は驚いたような声を出してこちらに向き直った。

「ちょっと、どうしちゃったのさ、本格的にボーッとしちゃってるじゃん。明日本番なんだから、しっかりしてよねー」

「あ…ああ、それはもちろん」

 ……僕達の交わした会話の内容が、気になってるんだろうな。

 さっきの僕の発言が冗談だってことに、さすがの照人も気がついているはずだ。﨑森さんの本音に、僕が触れた可能性について、照人は思案していたのだろう。……できることなら、照人にも、﨑森さんの気持ちを話してあげてほしい。

 過去の詳細まで語ることは難しくても、せめて、﨑森さんの本当の気持ちぐらいは――

「あっ、おい、小際っ!」

 どう話を展開しようか、そう考えていると、何やら焦った様子の先生が校庭に飛び出してきた。

 うちのクラスの担任だ。……その顔色の悪さに、とてつもなく嫌な予感を覚える。

「先生、どうしたんですか」

 名前を呼ばれた照人が、先生を言葉を交わす。……その発言の内容に、僕達は息を呑んだ。

「――お前の父さんが倒れた。今、会社の近くの病院で治療を受けているそうだ」「え――」

 照人の瞳が、感情を失う。まずい――混濁する思考の中、先生の声だけが頭の中に変わらず入ってくる。

「ひとまず、こっちに来てくれ。詳しいことはこの後話す。…須上達も、いきなり悪いな」

「えっ、あ、は、はい…」

 先生が、半ば引きずるようにして、照人の腕を取りその場を去っていく。……この場には、状況についていけない、僕と﨑森さんだけが取り残されていた。

「え……? い、今のって……」

「……」

 戸惑いを声に乗せる﨑森さん。彼女に視線を向けながら、僕は告げた。

「……先生の言ってることが本当なら……多分、照人はすぐに病院に向かうんじゃないかな。詳しいことは分からないけど……照人は片親だから、万が一のことがあると……」

「……っ」

 﨑森さんが息を呑む音が聞こえた。

「な……何か、私達にできること、ないかなっ……」

「え……?」

 驚きに目を見開く僕に対し、﨑森さんが話し続ける。

「照人くん……多分、これから大変になるでしょ……。私も昔そうだった……。だから、何かしてあげなきゃ……」

「あ……」

 僕はもしかしたら、勘違いしていたのかもしれない。

 彼女は、過去の体験に縛られ、自身の弱さに拍車がかかってしまっている状態なのだと思っていたけど。

 正義感に燃え、迷わず照人のことを助けようと口にする、こっちの方が、本来の彼女の姿なのかもしれない。

 ……だとしたらなおさら、彼女は照人と分かり合うべきだ。

 そう強く思う。

「……現状できることは、多分ないと思う」

「そ、っか……」

「でも、僕にはこれがある」

 そう言って僕が取り出したのは、積谷さんから持たされている携帯だ。

 外出する時、何か非常事態があってもいいように、常に持ち歩くようにしている。

「ここに、照人の携帯の番号が入ってる。夜にでも電話をかけてみるよ。……その後何をするかは、それから考えよう」

「うん……」

 僕の言葉に、﨑森さんは、もどかしさを堪えた表情で首を縦に振った。

 優しいな……。

 彼女もまた、照人と同じように、眩しい光になれる存在なのだと強く感じる。

「とりあえず、連絡先を教えてくれないかな。﨑森さん、携帯って持ってる?」

「あ、うん。ちょっと待ってね……」

 﨑森さんが、ごそごそとポケットの中を漁る。取り出された携帯をしばらく操作した彼女は、僕に画面を見せてきた。

「これが、私の電話番号……」

「ありがとう。……何か分かったら、すぐに連絡するね」

「うん……」

 不安そうに俯く彼女に、僕は極力優しく微笑みかけた。

「大丈夫だよ。……僕達2人で、照人のことを支えてあげよう」

「! う、うん……!」

 力強く頷く彼女の姿が、暖かな夕焼けの光に照らされていて。

 ……彼女の心を動かすことができたという達成感が、ようやく今になって、僕の心にじんわりと染みこんでいくのだった。

 

 

 

 

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