空色の日記①

 ごめんね。何も言えなくて。

 

 ごめんね。ずっとそばにいてあげられなくて。

 

 ごめんね。


 勝手に死んじゃって。






 5がつ12にち。

 きょうから、にっきをかこうとおもいます。

 きょう、ぼくは、びょういんにいきました。


「今日は、病院に行く日だね」

 今まで生きてきて、母から1番多くかけられた言葉は、多分これだったと思う。 

 それぐらい、僕の生活の中で、病院に行くことというのは当たり前のことだった。

 昔から病弱で、まともに体を動かすことができなかった。それが先天性の病気の影響なのだということは後から知ったことだけど、当時から薄々、『自分は普通じゃないんだ』ということは分かっていた。

 それでも、それを苦痛だと思ったことは1度もなかった。その理由は、優しい家族の存在があったからだ。

 誰よりも優しく僕のことを育ててくれていた、父と母。特に母は、仕事をしていなかったため、四六時中僕のそばにいてくれていた。この世界で1番尊敬している女性。

 そんな母に連れられて、病院に行ったある日のこと。すでに日常の一部と化していた定期検査を終え、病院内をウロウロしていると、ふと1冊の本が目に留まった。

 それは、小さな売店の隅に売られていた日記帳だった。当時の僕は日記帳の存在なんて知らなかったけど、美しい水色の装丁に、一瞬で心を奪われた。

 青空を思わせる表紙に、金箔が散りばめられていて、それが光を反射してキラキラ輝いている。 

「おかあさん、あれほしい!」

 僕の幼い願望に、母は苦笑しながらも、

「しょうがないな~」

と言いながら、その日記帳を買ってくれた。

 以来僕は、その日記帳に、ひたすら自分の想いを綴り続けている。

 当然1冊では収まらず、その冊数は現在5冊を超えているが、それでも書くことを辞める気はなかった。

 いつか、この日記帳を再び開いた時、何か感じるものがあるかもしれない。あるいは、誰か別の人がこの日記を読んだ時に、僕の今の気持ちが、その人に伝わるかもしれない。

 そんな文章が書けたら素敵だね、と母から教わった僕は、その日、家に帰ってから、早速ペンを握って、文字を書き込んでいったのだった。

 



 9月24日。

 ぼくたちかぞくは、引っこすことになりました。


 日記帳を買ってもらってから、2年が経過した。

 まだ小学校に入学して半年しか経っていない、そんな中、我が家を悲劇が襲った。

 ある朝、目を覚ましてリビングに行くと、いつもはいないはずの父が珍しく部屋の中に佇んでいた。父が座るソファーの向かいでは、母が不安げに瞳を揺らしている。

 何かあったんだ――当時の僕は、幼いながらも、両親の異変を何となく感じ取っていた。

 その時、その部屋には、僕と両親の他に、家で働いてくれている使用人の人達が全員揃っていた。皆一様に口を噤んで、じっと誰かが話し出すのを待っている。

 妙に重苦しい沈黙が続く中、最初に口を開いたのは父だった。

 「……みんな、本当に申し訳ない」

 父の突然の謝罪に、僕はただただ困惑していた。

 しかし、そこに口を挟むことは許されなかった。僕より先に、母が言葉を発したからだ。

 「仕方がないよ、こればっかりは。……お先真っ暗だけど、どうにか乗り越えていくしかない」

 「あぁ。君達にも、長い間世話になったな。本当に……本当に、ここまで僕達家族を支えてくれて、ありがとう」

 涙ぐむ父が、使用人一同に頭を下げる。全員が、見ていられないとばかりに顔を背けていた。

 ……何? 一体、僕が寝ている間に、何があったっていうんだ?

 1人戸惑っている僕の方へ――父が振り向いた。

 「――おはよう、操」

 「……お、おはよう……」

 酷く無感情な声が、胸を抉る。

 「……ごめんな、操。お父さん、しくじっちゃったよ。こんなことになるなんて、思ってなかったんだ。どうか、許してくれ。愚かな僕のことを」 

 「な、なにいって……」

 「……倒産したんだよ。僕の会社が」

 トウサン。

 「つぶれた、って言った方が分かりやすいか? いいや、まだそこまでのことは分からないか…?」

 「……お父さんは、お仕事ができなくなっちゃったの。だから、引っ越さなきゃいけなくて……」

 父の言葉を引き継いだ母が、静かにそう告げてくるけど、あまりに多い情報に、僕は脳の処理が追いついていなかった。

 え、お父さんがもうはたらけない? 引っこし? そんな、急に?

 軽いパニックになりかける中、父が厳かに告げるのが聞こえた。

 「ひとまず、今後の方針は、妻と2人でこれから考える。君達は、今月で晴れて自由の身だ。今まで、本当に世話になった。家族を代表してお礼を言わせてもらう。……ありがとう」

 父が立ち上がり、深々と頭を下げるのを、僕はぼんやりと眺めていた。

 ……固く握られた父の拳が僅かに震えているのを、僕は気づかないふりをして見過ごしたのだ。


 引っ越しの準備は、淡々と行われた。

 長年住んできていた家とお別れするのは寂しかったが、両親がそう決めたのなら従う他ない。僕は誰よりも両親を信頼していたから、それに対して反抗したりは一切しなかった。

 ただ、僕の胸を強く痛めたのは、今までお世話になっていた使用人の人達が、全員いなくなってしまうということだった。中には、賃金が下がっても良いから働かせてほしいと食い下がる人もいたみたいだが、そういう人達には、父が説得を繰り返して丁重な断りを入れていた。先行きが分からない以上、雇える自信がないということらしかった。

 僕達の家は、そこそこな資産家だった。そしてその理由の最たるものは、父が起業した会社の経営が上手く軌道に乗っていたことにある。

 しかし、その経営が傾き、挙句の果て崩れ去った今では、僕達に残されているものは何もなかった。あるのは、地価の高い場所に建てられた、豪華な家が1軒だけ。

 当時の僕は、両親が交わしている難しいお金の話はよく分からなかったが、今思えば、父の会社の経営が芳しくないことの予兆は、もっと前からあったのかもしれない。しかし、それに気づくには、当時の僕はまだ幼すぎたのだ。

 いつかこんな日が来るかもしれないと覚悟はしていたのだろう、両親の動きは素早く、あっという間に引っ越しの準備は進められていった。

 そうして、約1週間後。僕達は、あらかたの荷物をまとめ、幼少期を過ごした自宅を手放すことになった。

 通って半年しか経っていなかった小学校にも別れを告げ、僕達ははるか遠方へと車を走らせるしかなかった。




 10月1日。

 今日は、あたらしいともだちができました。


 引っ越し当日。

 僕達の家には、明確に頼れる親類という存在はいなくて、最初は本当に当てもなく彷徨っているという様子だった。

 しかし、両親はちゃんと行き先を決めていたらしい。僕達がやってきたのは、元の都会からは遠く離れたとある街だった。商業施設もちゃんとあり、決して栄えていないわけではないが、それでも元々住んでいた場所に比べると若干見劣りする。

 やがて辿り着いたのは、元の家の5分の1しかないような大きさの賃貸住宅だった。車から降りた両親が、いそいそと荷物を建物の中へ運び始める。

 ……ここが、あたらしいおうちになるのか……。

 大した実感も湧かないまま、僕は室内に足を踏み入れた。

 がらんどうの室内は暗く、当たり前だが人気がない。

 黙々と作業をしている両親の姿が、やけに不気味に映った。

 …しかし、一通り家具を運び入れて部屋の電気を点けると、徐々に実感が心の内に湧き上がってきた。

 ひとまず、新しい家に到着することができたという安心感が、胸いっぱいに広がっていく。

 休憩を挟みながら荷解きをし、誰も言葉を発さない空間の中――突然、胸に鋭い痛みが走った。

 「――っ」

 まずい、そう思った時には、僕は床に倒れ込んでいた。

 「っ、操!」

 母の声が聞こえ、父が焦った様子で携帯を手に取るのがうっすらと見えた。

 救急車が到着する頃には、僕は完全に意識を手放していて――気がつくと、目の前に、見覚えのない天井が広がっていた。

 「……?」

 首を傾げながら、辺りを見回す。薬を注入されたのか、苦しさは全くなく、体も軽かった。

 そのまま、上体を勢いよく起こそうとする。すると、

「! ちょっと、だめじゃない!」

「わっ」

 突然、死角から女の子が飛び出してきた。

 驚いた僕は、そのままベッドに体を沈め直す。

「だ、だれ……?」

「そっちこそだれよ」

 え、えぇ……。

 見ず知らずの場所に、会ったこともない女の子。この状況は一体……?

 謎のシチュエーションの中で困惑していると、不意に部屋の扉が開いて、見覚えのある影が視界に入ってきた。

 「操、目を覚ましたのか!」

 「おとうさん……!」

 嬉しそうに駆け寄ってくる父の後ろから、見知らぬ男の人が顔を覗かせる。

 「こら令那、勝手に病室に入るなといつも言っているだろう」

 「ごめんなさい、おとうさま。でもこのこ、わたしとおないどしなんでしょ?だからきになって……」

 「それでも、ダメなものはダメだ。申し訳ないですね、須上さん。娘には、しっかり言って聞かせておきますので」

 「いえいえ、そんな気になさらないでください。むしろ、こんなところで積谷さんにお会いできるなんて、思ってもみませんでしたから……」 

 父とその積谷さんと呼ばれた男性が話をする中、件の女の子は、僕の目の前でじっと2人の会話が終わるのを待っているみたいだった。

 「あ、あのぉ……」

 「……」

 鋭い瞳が、こちらを射抜いてくる。

 「……もう、からだはへいきなの」

 「えっ。ま、まぁ、だいじょうぶ、だとおもう……」 

 「そう。……よかったわね」

 ……今も昔も変わらない、不器用な優しさを持つ少女。

 それが、生涯を通じて深く付き合っていくことになる、積谷令那との出会いの一幕だった。


 その日、僕は念のため入院することになった。

 僕が倒れた原因は、精神的な負担の増加ということで結論づけられた。定期検査の結果、薬を飲むことで発作を抑えられることは分かっていたのだが、どうも高いストレス下だと完全に抑え込むことはできないらしい。

 その後僕は、両親から、小難しい話を延々と聞かされる羽目になる。

 ……要約すると、積谷さん達は、僕達家族に恩を感じてくれている、とのことだった。

 元々、僕の父親と積谷家のご夫婦は、大学時代からの知り合いだったらしい。それなりに仲は良好で、父は積谷家のご夫婦の結婚式にも出席したらしかった。

 しかし、積谷家との縁は、ただ仲が良かったからというだけのことではない。1番の理由は、積谷家が経営している病院に、僕達須上家が多額の寄付をしていたという部分にある。

 令那の父親は、大きな病院の院長を務めている。今でこそ安定しているが、昔、1度経営が大きく傾いてしまった時期があったらしい。

 その時僕の両親は、懐が潤っていたということもあり、善意で多額を積谷家が勤める病院に納めた。結果的に病院の経営状況は元に戻り、両親は何度もお礼を言われたのだという。

 僕は直接積谷家の人達と会ったことはなかったので、詳しい事情は知らなかったが、今回病院で出会ったのは、本当に偶然によるものなのだということだった。

 今の須上家が陥っている状況を聞いた積谷家の人達は、その袋小路を瞬時に理解し、力の限り僕達を支援することをその場で約束してくれた。

 さらには、僕の主治医として、今後しっかり面倒を見てくれるという。

 この時、両親が1番心配していたのは、僕の通院や治療周りのことだった。この時点で、僕が新たに通院を始める病院は見つかっていなかった。さらに言えば、僕が健康体であれば余計なお金もかからないが、医療費は馬鹿にならない。かといって、お金を惜しんで僕のことを放っておくわけにもいかない。両親はさぞ頭を悩ませていたのだろう。

 そんな時に現れた救世主。誰かに与えた優しさは、必ず恩となって返ってくるのだと、この時僕は身をもって知った。

 そうして僕達は、積谷家にしばらくの間甘えさせてもらうこととなり、ひとまずしばらくは安定した生活を約束してもらえることになったのだった。




 6月11日。

 今日で、かぞくとおわかれです。


 積谷家と出会ってから、それなりに時間が経過し、僕と令那は2年生になっていた。

 …ここまでの生活がどうだったかというと、正直、決して豊かなものではなかった。

 仕事のなくなった父は、積谷さんに新しい仕事を紹介してもらい、小さなIT企業で働き始めた。元々コンピュータ関連の仕事をしていたおかげで、業務に支障はほとんどなかったらしい。

 ただ、中途採用ということもあり、今までの給与に比べるとどうしても少なくなってしまっていたらしい。もちろんそんな大人の裏事情が僕の方に流れてくることはなかったけど、今までと比べると、僕達の生活は確実に質素なものになっていた。

 そして、さすがに父の給与だけでは生活が厳しいと感じたのだろう。母もついに働くことを決意し、父と同じように仕事を紹介してもらって、ある化粧品メーカーで勤務を始めた。

 ただ、勤労経験があった父と違い、母は長らく専業主婦をやっていたため、慣れない勤労に心身の疲労が積もっていって、体調を崩すことが多くなっていた。

 始めは潤っていた懐も、突然変わってしまった生活への適応が追いつかず、どんどんと寂しくなっていく。

 引っ越してきてから半年も経つ頃には、新しい生活にも慣れてきていたけど、それまでと同じ基準でお金を使えないということに、家族全員が思いの外気苦労していた。

 でも、全部が全部辛かったわけじゃない。幸いだったのは、積谷さんが、僕に対して至極丁寧に対応をしてくれていたことだ。

「……はい、今回の検査はここまでです。お疲れ様でした」

 令那のお父さんは、厳格な人だったけど、的確に僕の治療を進めてくれていた。具合が悪くなるとすぐに診てくれるし、薬もしっかり出してくれる。

 ……しかし、僕は薄々勘づいていた。

 最近、発作の頻度が上がっている気がする、と。

 雨が降りしきる梅雨時。積谷家と須上家で、とある重大な会議が行われた。

 議題は、僕の今後の生活について。

 現状、僕の容態は、あまり良くないと言わざるを得なかった。薬の量も若干増えていて、眠れない日も多い。

 そんな時、令那のお父さんは必ず僕の面倒を見てくれていたけど、僕の両親は僕の体調不良の時にも駆けつけられないことが多かった。両親は共に家から離れた場所で働いており、即座に帰宅することがどうしても難しかったのだ。そのため、家では1人で過ごしていることが多かった。

 しかし、増える発作と薬を見て、積谷家はこんな提案を我が家に持ち掛けてきた。

 すなわち、僕の両親には仕事に専念してもらい、僕は積谷家に居候させてもらう、と。

「今の操くんは、極めて不安定な状態です。薬で発作は抑えられていますが、それでも突発的に体調を崩す可能性は高い。そういう時に、大人が誰もそばにいないのは危険だと判断しました」

 積谷さんの理路整然とした説明に、両親はただただ圧倒されていた。 

「ですが、今の状況下で、勤務を始めたばかりのお2人が、仕事の方を調整するというのは難しいと思います。ですので、ここは1つ、私達に操くんを任せてもらえませんか?」

「……具体的に、どうするおつもりですか?」

「一言で言えば、疑似入院ですよ。本当はしばらくの間入院してもらいたいところですが、学校に行けなくなってしまうのは、私も望んでいません。ですから、病院ではなく、私達の家で一緒に過ごしてもらうんです。我が家には使用人がいますから、操くんに万が一のことがあっても、すぐに私と連絡が取れます。もちろん、何かあればお2人にもすぐに連絡を取るようにしますが、応急処置が間に合わない、という事態に陥ることはまずないでしょう」

「……」

「すぐに決断する必要はありません。ですが、私達は、彼を歓迎しますよ。令那もきっと喜ぶはずだ」

 ……多分、この時に積谷さんが浮かべていた表情が、僕が今まで見てきたこの人の表情の中で、1番穏やかなものだったと思う。

 そこには、僕への気遣いと、娘を想う優しさが僅かながら見えていた。

「……少し、考えさせてもらえませんか」

 1度話を家に持ち帰ることになり、その場は解散となったのだが……家に着いて早々、父は、

「……積谷さんの提案を、僕は受けた方が良いと思う」

と言ったのだった。

「どうして?操を1人で、よその家に預けるなんて……。いや、もちろん、積谷さんを信頼してないわけじゃないけど……」

「信頼してるからこそだよ。ここにいたって、日中はずっと1人だろ? 何、週末が来るたびに、ここに帰ってくればいいんだ。僕達も、頻繁に積谷家に顔を出すようにする。そうすれば、操も寂しくはないんじゃないのか?」

「……操。操は、どうしたい?」

「!」

 部屋の外で聞き耳を立てていた僕は、突然母にそう聞かれ、激しく迷った。

 本当は、ずっと両親のそばにいたい。でも、それは現実的に難しいのだ。仕事で忙しい2人を、自分が縛るわけにはいかない。

 それに……日中、酷く静かな部屋で、1人の時間を過ごすのは、もう飽き飽きしていた。だったら、令那のいるあの家に住まわせてもらう方が、何かと都合が良いんじゃないのか……?

「……うん。いいよ。ぼく、れなの家に行く」

「……本当に?」

「うん。でも、会える日は、ちゃんと会おうね」

 僕がそう言うと、2人は、どちらからともなく、僕の体を強く抱きしめてきた。きっと、2人の両手には、悲しみとか苦しさとか、そういう色んな感情がたくさん詰まっていたに違いない。それを一身に受けながら、僕は決意を固めていた。

 ……だいじょうぶ。せきやさんたちはすてきな人たちだ。きっと、ぼくのことをささえてくれる。

 それは完全に他力本願な思考だったけど、僕はこうして、積谷家の一員として迎え入れられることとなったのだ。

 そして、その生活は、現在も――辛い別れを経てからずっと、今の今まで続いている。




 10月15日。

 ―――~~~~~




 もう、会えないんだ。


 その日、僕は、積谷家のリビングでのんびり寛いでいた。

 何もない、穏やかな休日。今日は、両親と一緒に、遊園地に行く約束をずっと前からしていた日だった。仕事が終わってから、僕のことをここまで迎えに来て、そのまま出かける予定だった。

 だから僕は、リビングで鼻歌を歌いながら、上機嫌に両親のことを待っていた。

 ……しかし、お昼を回っても、両親は一向に姿を見せようとしなかった。これはおかしい。もしかして、何かあったんじゃないか。

 猛烈に嫌な予感に襲われた僕は、積谷さんに、両親に連絡を取るよう聞いてみることにした。その日、積谷さんはたまたま家にいて、すぐに連絡を取ってもらうことが可能な状態だったのだ。

 積谷さんが、両親に電話をかける。……繋がらない。

 すぐにメールも送っていたが、さらに1時間経っても、返信が来ることはなかった。

 不安げにリビングをうろつく僕を、令那と使用人の安西さんが心配そうに見つめている。そんな中、家に大きな電話の音が鳴り響いた。

「……はい、積谷です」

 安西さんが電話に出てくれる。その横顔が……ものすごい勢いで、青く染まっていった。

「はい……はい。わざわざご連絡、ありがとうございます。すぐにそちらに伺います」

 カチャン、と音を立てて受話器が置かれ、安西さんが青い顔をして振り向いた。

「……令那様。今すぐ、旦那様を呼んできてもらえませんか」


 それから、どうやって移動したのか……正直、ぼんやりとしか思い出せない。

 分かっているのは、両親が何らかの交通事故に巻き込まれて、命を落としたということ。記憶に残っているのは、病院で、変わり果てた両親と再会した時からのことだ。

 いつも通っているその場所で、両親の横たわる姿を見た時――僕は、悲しいぐらいに、何の感情も抱くことができなかった。

 ……あぁ。死は、こんなにも簡単に、人を連れ去ってしまうのか。

 両親の前で、積谷さんは自分の無力さに打ちひしがれ、聞いたこともないような声を上げて泣いていたけど――僕は、冷たくなった体に手を伸ばすことも憚られて、何の言葉も投げかけないまま、その場を後にした。

 ……それから、少しの時間が経つ間に、僕は激しい発作を起こして倒れた。

 猛烈な眩暈と吐き気に襲われ、過呼吸になり、一瞬で意識を手放す。

 目覚めた時には――初めて令那と出会った時のように、病院のベッドに寝かされていて。

 そして隣には、今も昔も変わらない、凛とした表情を浮かべた令那がいたのだ。

「れ、な……?」

 掠れた声を出して、そっと手を伸ばす。その手を――彼女は、あろうことか、強めに振り払った。

「えっ」

「……何、平気そうな顔してるのよ」

 令那が、とても寂しそうな表情を浮かべている。先程までとは纏う雰囲気が全然違くて、僕は思わず、

「な、なんのこと?」

と、すっとぼけた返事をしてしまった。

「! 分かってるくせに、変にごまかさないでよ!!」

「うわっ」

 布団の上から、令那が僕の体を叩く。でも、その力は全然強くなくて……とても心配してくれていたんだということが分かると、僕は小さく息を吐いた。

「……ごめん。心配、させちゃったよね」

「あやまらないでよ。つらいのは、あんたのはずでしょ……」

 僕よりもよっぽど泣きそうな顔をしながら、令那がそう言って布団に顔を伏せた。

 ……この子は、優しいな。

 僕の代わりに泣いてくれる彼女の頭を撫でながら、そんなことを思う。

「……ぼくも、悲しいよ。悲しいけど……なんか、それが顔に出ないんだ。泣いたりとか、おこったりとか……昔から、よく分かんなくて」

「……」

 今思えば、僕は昔から、感情を剥き出しにするということがあまりなかった。ポジティブな感情は積極的に周りに見せていたけど、ネガティブな感情は、基本的にどこかで押し込めていた。

 それは、両親が僕にネガティブな感情を抱かせないよう最大限配慮してくれていたのもあるし、僕自身がそういう感情を毛嫌いしていた部分もあると思う。

 ただ、抑え込んでしまった辛い気持ちは、表情や言葉ではなく、如実に僕の体調に現れてしまうみたいだった。今回の発作も、十中八九突然のストレスが原因のものだろう。

「……ねぇ。顔、上げてよ」

「……」

 呼びかけても、令那から返事はない。どうしようか……思い悩んでいると、布団から、くぐもった声が聞こえてきた。

「……病気、つらくないの」

「え……」

「いたいんでしょ。くるしいんでしょ。わたしじゃ……何も、してあげられないんでしょ」

「……」

 何も、言うことができなかった。

 そばにいてくれるだけでいいんだよとか、いつも十分助けられてるとか。今だったら、そんな気の利いた言葉が言えたのかもしれない。

 でも、この時の僕は、自分の気持ちを処理するのに精一杯で、彼女に優しさを与えている余裕はなかった。

「え、っと……」

 何を言えばいいのか分からず、まごまごとしていると、突然、彼女がスッと顔を上げた。

「れ、令那……?」

「……わたし、決めた」

 彼女の瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。

 そこには、確かな決意が宿っていた。

「わたし、将来、お医者さんになる。そうすれば、操のこと、助けられるから」

 温かな言葉に、胸が締め付けられる。

「……任せてよ。わたしが……医者になって、あなたのことを守ってみせる」

「……――っ」

 ――強い眼差し。

 力のこもった声。

 そして、差し出された手。

 この手に、僕は、この先もずっと、何度も、救われることになる。

「――――ぁ」

 布団に、ポタっと染みができた。

 灰色の染みは次々に増えていって、だんだんと広がっていく。

 決壊した感情が溢れ出して、顔をぐしゃぐしゃに濡らしていく中、令那はずっと、僕の横にいてくれていた。

 どうして、こんなことになったのか。どこで間違えてしまったのか。

 本当だったら、両親じゃなくて、病を抱えていた僕の方が先に死んでもおかしくなかったのに。

 神様。どうしてあなたは、僕に試練ばかり与えるのですか……――。

 理不尽な運命に抗いたくて、でも、現実は絶対に覆らなくて。

 悲しみに暮れる中、僕達2人は、様子を見に来た大人が部屋に入ってくるまで、ずっとそうやって嗚咽を漏らし続けていた。僕達が、4年生の時のことだった。




 それから僕は、正式に積谷家の人間として迎え入れられることになった。

 といっても、別に戸籍を変えたりとかの手続きは何もしなかったし、生活は今までと大して変わらない。ただ、両親に会うことは、もう二度と叶わなくなっていた。

 令那はその日以来、すごい勢いで勉強をするようになっていた。元々私立中学に行くつもりで塾に通っていた彼女だったけど、以前の比にならない量の課題をこなし、着実に学力を上げている。

 それ自体は決して悪い変化じゃなかったのだけど……家に漂う空気は、どことなく重たいものへと変わりつつあった。

 一番変化が大きかったのは、積谷さんだ。両親の死が余程堪えたのだろう。以来笑顔を見せることが全くなくなり、口数も減った。そして何より、仕事を一切休まなくなった。

 両親の非常時に、自分が医者としてその場に立ち会えなかったことを、ずっと悔やみ続けている。その姿は、とても痛々しかった。

 そして令那の方も、悪い方向への変化が全くなかったかと言われると、そんなことはない。

 令那は、件のことがあってから、僕に執拗に世話を焼くようになっていた。

 僕のことを、”守らなきゃいけない存在”として、強く意識していたのだろう。それ自体は嬉しかったし、精神的に助かる部分も多々あったが、彼女の干渉は少し過度だった。四六時中僕のそばにくっついて、体調に問題がないか問いかけてくる。隙があれば参考書を開き、『医者になるため』と言って勉強を始める。

 塞ぎ込む父親と、躍起になる娘。2人の感情がすれ違うのも時間の問題で、案の定、2人の関係はだんだんと歪なものへと変わっていった。

 令那は、自分の理想に近づくため、自分にも、そして周りにも厳しく当たるようになっていたし、積谷さんも、令那に対する態度がどこか荒っぽくなっていた。厳格で規則に厳しいのは以前と変わらないが、今までは僅かに見えていた心根の優しさが、今はどこにも見当たらない。

 令那のお母さんは、決して厳格というわけではなかったが、基本的に夫を立てるための行動が多く、僕や令那の事情について踏み込んでくることはほとんどなかった。そのため、僕も令那も、あまり心を開くことができていなかったのだと思う。

 厳しさの中に漂う温かさが消えた今、積谷家の纏う空気は、どこか陰鬱でじっとりとしたものへと変わってしまっていた。

 そんな中、僕達は小学校の最高学年へと進級し――そして、出会うことになるのだ。

 僕が送る、最期の1年の始めを飾る、ある少女に。

 

 

 

 


 

 

 

 


 

 

 



 

 

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