第9話(後編)――「葦舟襲撃と追跡・工房の影」
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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第9話)の【登場人物】です。
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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第9話)【作品概要】です。
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4月26日。午後6時。赤根台地/拠点
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夕暮れ、葦で覆った小舟が主水路に忍び込んだ。帆はなく、櫂だけで音を殺して寄ってくる。見張り台の若い兵が煙の匂いに気づき、角笛を2度鳴らした。火の合図である。
当直の兵が駆け出し、「干し草、火だ!」と叫ぶ。母屋の廊下で帳面を見ていたアレクが顔を上げ、玄関へ出ながら命令を飛ばした。
◇ ◇ ◇
「濡れ帆布、干し草に被せろ。水車は『抜き
※『抜き
※『3番縄』=堰に仕掛けた捕獲用の横縄。落とすと水面を横切り、舟の舷を引っかけて傾ける。
◇ ◇ ◇
2人が井戸端の帆布をつかんで走り、干し草の縁に覆いをかけて踏み消す。別の1人が水門脇へ回り、
捕えた者の腕の印と舟材の刻みは板に写し取り、道具袋と火種は袋ごと押収した。負傷は軽微である。拠点の被害は干し草の表面の焦げにとどまった。
アレクは続けた。「干し草は水際から5歩下げろ。消火桶を倍にしろ。堰の前に浮き丸太を張れ。夜番は2名固定+1名遊撃。囮に使えるなら、この舟は偽装のまま置いておけ」。記録役が板に書き、当番表の赤線が引き直された。
◇ ◇ ◇
追跡はヤオ・ジンが受け持つ。彼女は隊を半円に集め、説明した。
「まず2班に分ける。水上6名は、奪った小舟と丸木舟で下流へ『見失わない距離』を保ってつけろ。追い越しは禁止だ。陸上6名は葦原の外側を歩き、犬と並走しながら岸の痕跡だけを拾い続けろ」
「足跡は、新しければ深く縁が立つ。見つけたらそのまま追跡せよ」
◇ ◇ ◇
ヤオ・ジン率いる追跡班は、刻み幅と間隔、樹脂の匂いを手がかりに中流沿いの工房を特定した。昼は離れて監視し、夜に出入りする者を泳がせる。
夜半、工房裏で縄と樹脂を抱えた男が動いた。班は包囲を縮め、退路を塞いで確保した。男の腕の印は捕縛者と同じ、腰の道具袋からは一致するノミ一式と刻印木札が出た。
証拠袋と板札に番号を振って押収を終える。後は確保した男を尋問するだけだ。
一体、動機はなんだったのか?
尋問したらこのことはすぐに白状した。
中流の工房は、水門に石柱が立てば分水と閉開の裁量が奪われ、修繕の指名と口利きも痩せると読んだ。自分たちの許可なしに水が流れるのは、面子と稼ぎの両方を失う合図である。だから小破壊で先に手を出した。
背後関係については難航した。気長にやるしかないようだ。
◇ ◇ ◇
交渉はルミラが受け持つ。巫女長の姉であり、首長たちに話を通しやすい立場である。彼女は使節班を率い、塩1樽・鉄鍬10本・蜂蝋の塊・山羊2頭を土産として上流へ運んだ。狙いは三点セットの正式化、すなわち「占用の認可(放牧・居住・水車)」「水利の承認(儀礼)」「共同負担(堤・舟道・舟兵)」である。
最初の席は、上流の長老、九河盟議の代官、巫女院の書記である。ルミラは地図を開き、使う範囲を示して境界石の位置をA1〜A4と定めた。期間は収穫期の終わりまで、と明記する。これで占用は通る。
次は水の取り決めである。分水口と使う時刻帯、渇水時の優先順、そして水車の回転数の上限を決めた。罰は金ではなく労役とする。午後、小さな儀礼で境界石柱を立て、巫女院の書記が口上を述べた。番号を石に刻み、記録は貝札と板帳に写して保管する。
三つ目は共同負担だ。堤の修繕は季ごとに2日、舟道の清掃は月1日、洪水期は舟兵2名を差し出す。代替として塩や鉄具で支払ってもよいことを互いに確認した。禁足の泉や祠、焼畑の火入れの注意も同じ場で取り交わす。中裁先はカラド評定所、取消事由には「敵対行為・破壊行為」を入れておく。
費用はいっさいアレクが負担する。工房の手間賃と石工の日当は先に約束し、贈り物はその場で渡す。形式が整えば、後からの横槍は立ちにくい。
◇ ◇ ◇
夜になり風が止んだ瞬間、胸の奥に冷たい水が差し込むような感覚が走った。皮膚の表面が細かく粟立ち、耳の奥で薄い鈴の音が揺れる。湿った土の匂いと、樹脂の甘い香りが同時に深くなった。次いで、誰かの強い感情が波のように押し寄せ、言葉が形になる。
(あなた。アレクという若者の作った赤根台地の牧場へ、工房の者たちを入れたのでしょう。アレクは巫女長の婿ですよ。巫女長に知られれば、あなたの中流の堤と舟道の利権も、首長の座も危うい。今すぐやめなさい)
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※①……「心聴(しんちょう)」――アウリナから授かった、『心の声を聴く術』。
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声は若い。芯が強く、焦りを隠していない。アレクは目を閉じて息を整え、指先の血の巡りを静かに落とした。言い回しの端々に、祭祀と記録の作法に通じた者の匂いがある。巫女長アウリナの身近にいる女――たぶん妹である、と当たりをつけた。
アレクはひと呼吸で決めた。足元に風を編み込み、草葉を逆立てるほどの流れをつくる。裾がひるがえり、身体が羽のように軽くなる。頬に当たる空気は冷たく、舌の上に微かな土の粉の味が残る。次の瞬間、彼は巫女長の屋敷前の石段に立っていた。
屋敷は板道と白い石柱に囲まれ、灯りは蜂蝋の穏やかな光である。雨上がりの木の匂いと、香脂を焚いた甘い煙が混ざり合い、胸の奥を温める。門の前で足を止めると、内側から涼しい風が抜け、結貝札の揺れる小さな音がした。
戸が静かに開き、アウリナが姿を見せた。薄い藍の衣が月明かりを吸い、胸元の彩羽がわずかに光る。彼女はアレクの顔を見て、すぐに頷いた。
「来ると思っていた。あなたが感じた声は、私の妹の心から漏れたものだ。事情は察している」
「推測どおりであれば十分だ。工房の手は引かせられるか」
「引かせる。だから――首長の罪は、今回は許してほしい」
言葉は静かだが、声の底に固い緊張がある。アレクはしばし沈黙し、石段の冷たさを足の裏で確かめる。遠くで川がゆっくり流れ、屋敷の庭では水の落ちる音が規則正しく響いている。彼は顔を上げ、短く答えた。
「わかった。不問とする。ただし二度目はない」
「恩に着る。力を惜しまないあなたが、ただ恐れさせて終わらせないことも知っている」
アウリナは一礼し、廊の影から小さな包みを持って来た。薄い香の匂いが立つ。包みの上に置かれた板片には、丁寧な字が刻まれている。
「礼として、あなたが探している者の行き先を伝える。名はカシム・ファルガス。いまはアウロラニア大陸の東にあるクバナ村と、アマラン大樹海連邦の都市モリガ――樹脂と香木の川市――を行き来している。季の風が弱まる頃、必ずモリガに寄る」
板片に触れると、薄い樹脂の膜が指先に張りつき、甘い香りが鼻に抜ける。刻まれた線は深く、刃の走りがまっすぐである。裏には小さく日付と結び目の印があった。情報の手触りは確かである。
「助かる。準備ができしだい、モリガへ向かう」
アレクは包みを袖に収め、夜気を胸いっぱいに吸い込んだ。風は乾いて軽く、遠くで犬が一声鳴いた。石段から見上げる空は深い紺で、雲の縁がわずかに白い。彼は踵を返し、足元にふたたび風を編む。草がさらりと伏し、外門の鈴がかすかに鳴った。
屋敷のあかりが背中で遠ざかる。指先には樹脂の微かな粘り、耳には川の低い響き、舌には土と塩気の残り。モリガの名を心で繰り返しながら、彼は風の魔法を用いて赤根台地へ戻った。
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