第9話(前編)――「赤根台地・拠点完成と運用開始」

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第9話)の【登場人物】です。

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🟦『エルデン公爵家の末子』(第十一章第9話)【作品概要】です。

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 4月19日、風は乾いていた。赤根台地の赤土は朝日で明るく、蹄が踏むたび粉がふわりと舞い上がる。アレク、ヤオ・ジン、ルミラの3人は並んで馬を進め、完成した一帯をぐるりと見渡した。口の中に軽い土の味が広がり、革の手綱は手にしっとりとなじむ。遠くで水車が回る音と、鍛冶場の槌の響きが交互に届く。


 「計画どおり完成した。今日からは運転管理に移る。毎朝の点検で人員配置、家畜の給餌・給水、水路の流量を確認し、乱れはその場で直させろ」とアレクは落ち着いた声で言った。


 「中央の広場に道を集めたから、どの区画へも一直線に行けるわ。人も荷も迷わない配置ね」とヤオ・ジンが頷いた。


 「台所と鍛冶場の煙突がよく引けている。煙も匂いも広場へ降りてこない。塀で音も切れて、ここでは普通の声で指示が通るわ」とルミラが目を細めた。


 ◇ ◇ ◇


 見取りは計画どおりである。中央に大きな母屋と共同の広場。東の緩い斜面は放牧地。北は厩舎と蹄鉄場。西は牛舎と乳加工所。南は羊小屋と毛刈り場。南東は山羊の段柵。南西は馬の丸馬場。人と物の行き来を短い距離に収めるため、道筋は広場へ集まる形で整えた。区画ごとの札と印で、誰が見ても配置が分かる。


 「放牧地と厩舎の間は石塀+木柵の2重柵、通用門は東側1か所だけにした。人は青札の通路、家畜は赤札の回り道、荷車は白印の順路で進め。交わる地点には見張りを立てる。これで混ざらない」とアレク。


 「札の字も大きい。疲れた目でも読みやすいのが助かるわ」とヤオ・ジン。


 ◇ ◇ ◇


 東の放牧地に向かった。柵は新しく、木肌には樹脂の匂いが残る。干し草は甘く、牛と馬と羊と山羊の体温が朝日に混ざってやわらかい湯気を立てる。子牛の鳴き声、蹄のこすれる音、飼槽に落ちる穀粒の乾いた音が重なる。放牧地の高い乾いた場所には塩の台を据え、水飲み場からは距離を取ってある。


 「塩台は水場から50歩離して、いちばん乾いた高い地面に据えたわ。塩をとってから水を飲むから、体の塩分と水分が整う。群れが騒がずに草へ戻るの」とヤオ・ジン。


 「群れは20頭ずつで区切る。各列の間に幅1間の空き帯を残し、南縁に赤札の走路を常に開けておけ。追い込みはその走路を使い、東門へ一直線に流す。曲がり角は縄を下ろして横道を止めろ」とアレクは柵の強度を確かめる。


 「背と腰の毛が寝て艶がそろっている個体が多い。朝の給餌から30分で、各列の飼槽に残る量がほぼ同じ(1割前後)。餌の回りに偏りはないわ」とルミラ。


 ◇ ◇ ◇


 北の厩舎と蹄鉄場は影が深く、日差しを遮って涼しい。床の敷き藁は厚く、踏むと弾力がある。革と獣脂と木の香りが鼻に残り、金具は油が回って黒く光る。蹄鉄台の火床は落ち着き、鉄を打つ音は硬く短く響く。水桶の縁は冷たく、井戸水にはわずかに金っ気がある。指示札と当番表は大書きで壁に貼り出され、手順が一目で分かる。


 「火床が安定しているわ。槌の返りも軽い」とルミラ。



 「人の通り道は母屋→厩舎→蹄鉄場を一直線で結んだ。丸馬場は入口を北、出口を西に分けて一方通行・幅2間。列は詰まらない」とアレク。



 「当番表は『持ち場/担当名/交代時刻/点検項目/報告先』の5列でそろえてある。行の端に完了印の欄もある。誰がいつ何をするか、そして終えたかが一目で分かるわ」とヤオ・ジンが微笑んだ。


 ◇ ◇ ◇


 西の牛舎と乳加工所では、乳の甘い匂いと木樽の香りが混ざる。搾乳台は濡れが少なく、溝へ水が素直に落ちる。凝乳布は洗って干され、チーズ棚の温度と湿りは印の針で管理している。ウインチの鎖に油が回り、音は静かである。


 「余計な音がない。牛が驚かないし、指示が通るわ」とルミラ。


 「静けさは手順が守られている証拠だ。今のやり方を続けさせろ」とアレク。


 「瓶の並べ方が同じ間隔よ。手が迷わないわ」とヤオ・ジン。


 ◇ ◇ ◇


 母屋では台所の火が安定し、煮込みの湯気が廊下に流れていた。玉ねぎの甘さ、肉の香り、焼き立ての黒パンの香ばしさ。床板は固く、足裏に節の位置がはっきり伝わる。雨戸の開閉は滑らかで、木釘の噛み合わせも良い。塩と香草の瓶には名札が付く。食卓に指を滑らせても灰は残っていない。


 「食事の支度が整っている匂いだわ。腹がすいて手が動く」とヤオ・ジン。


「食は士気である。欠かすな」とアレク。


 「台拭きの布が同じ畳み方よ。台所はよく回っているわ」とルミラが笑う。


 ◇ ◇ ◇


 離れは静かで、風が抜ける。寝台の藁マットは乾き、麻布は石鹸の匂いが残る清潔さである。洗面台の排水は速く、石の流しに冷たい水筋が走る。窓枠の木口は滑らかで、棘は立っていない。夜番の交替表が壁に掲示され、灯りの芯の替えも予備が箱に収まる。


 「急な客にも困らないわ。女の支度にも時間がかからない」とヤオ・ジン。


「夜番の刻がそろっている。朝の遅れを作らない」とアレク。


「鍵束の位置も決まってる。探し物で喧嘩にならないわ」とルミラ。


 ◇ ◇ ◇


 兵隊宿舎に入ると、革と鉄の匂いが強い。槍の穂先は油膜で薄く光り、弓弦は張りが均一である。靴は一列に乾き、汗の酸っぱさは風で薄められていた。訓練場では木剣が打ち合わさる音が一定に続く。水瓶の口には布がかけられ、砂が入らない工夫がある。兵の顔色は良く、寝具は日に当ててある。


 「掛け声がそろっている。良い隊だ」とアレク。


 「寝具の干し方がまめね。病が遠ざかるわ」とルミラ。


 「靴が一直線に揃っている。整頓の癖が日常で身につく。こういう宿舎が隊を強くするわ」とヤオ・ジン。


 ◇ ◇ ◇


 従業員宿舎は飯の湯気であたたかい。麦粥の素朴な香り、薄い塩味。長卓には木匙が揃い、欠けは少ない。洗濯場では灰汁の匂いが立ち、手で揉む音と板に打ちつける音が小気味よく響く。子どもが走り抜け、裸足の足音が土間に柔らかく残る。掲示板には当番表と賃銀日が大書きされ、誰でも見て分かる。


 「賃銀日が前に出ている。信頼はこうして積む」とアレク。


 「台所から笑い声が聞こえるわ。お金とご飯、女はここで安心するの」とヤオ・ジン。


 「昼に走れるから、夜はよく眠るわ」とルミラ。


 ◇ ◇ ◇


 鉱山の口は黒く、涼しい風が頬を冷やす。坑外の選鉱台では水が鉱砂を洗い、ざらりとした感触が手袋越しに伝わる。岩肌は鉄の匂いが濃く、時おり火薬の甘い残り香が漂う。ウインチの軋みは小さく、ケーブルは均等に巻かれている。支柱の楔は締まりが良い。安全札は入口に掛かり、入坑人数と時刻が板に刻まれる仕掛けである。粗鉱の山は規格別に整頓され、雨避けの覆いも完成している。


 「音が落ち着いている。事故の前触れが少ない音だ」とアレク。


 「粉じん避けの濡れ布、入口と出口に両方あるわ。喉が守られる」とルミラ。


 「選鉱台の端に手の逃げを取ってある。力の弱い者でも回せるわ」とヤオ・ジン。


 ◇ ◇ ◇


 灌漑装置の周りは涼しかった。取水は山筋からで、台地の縁を浅く切って主水路を通す。吸い込み口のすぐ下に沈砂のため池を置き、泥と細かな鉄の粉を沈めてから澄んだ水を流す。導水路の水面は澄み、石積みの継ぎ目からの漏れはほぼ見当たらない。水車の羽根は軽く鳴り、歯車は乾いた木音で回る。分水は区画ごとに番号のバルブで管理し、誰が立っても順に開閉できる。北側の畑には焼黒土を入れた。炭と土を焼き合わせた肥えた土であり、根がよく張る。ここでは豆と飼い葉を増やせる見込みである。畝はまっすぐ、土は握るとほぐれる程度の湿りを保つ。


 「水が澄んでいる。ため池がよく効いている」とアレク。


 「焼黒土は手触りで分かる。ここは根がまっすぐ張る土よ」とヤオ・ジン。


 「番号札が1から順に並ぶ。夜でも迷わないわ」とルミラ。


 ◇ ◇ ◇


 丘の上から一帯を見返す。赤い大地に白い塀、銀色の水路、藁色の屋根、煙突の薄い煙。東の放牧地、北の厩舎、西の牛舎、南の羊小屋、南東の山羊の段柵、南西の丸馬場が中央の広場へ向けて並ぶ。鼻には草と煙と油の混ざった匂い、耳には家畜の声と水の音と人の掛け声。舌には風に混じる塩気と土の粉。掌には木と革と石の確かな感触。


 「本日の所見は良好。明朝は放牧地の巡視線を一本増やす。昼までに水門の目印を石柱で固定。夕刻に兵の弓稽古を一段上げる。人も家畜も、今日より明日を軽くする」とアレク。


 「承知したわ。布ものと台所を見直す。細かい欠けは私が拾う」とヤオ・ジン。


 「水路と鍛冶場を見回るわ。音や匂いに乱れがあれば、すぐ報告して合流するわ」とルミラがアレクの手綱の革を整えた。


 3人はうなずき、馬首をそろえた。やるべき改善点は細かく残るが、骨組みは立ち上がった。


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次回予告

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夕暮れ、葦で覆った小舟が主水路へ近づき、干し草への放火と水車破壊を狙う襲撃が起きる。

取り押さえた男の印と舟材の刻みから、九河盟議の首長の誰かが背後にいると見るべき状況である。

次回、アレクは拠点を守りつつ尋問と追跡で実行役と指示役を割り出す。

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