第6話
僕は何をやっても最低なダメ人間。
世間一般的には、それをトラウマというのかもしれない。
そんなトラウマがあるからこそ、僕は僕という人間が何かを成す事が出来るなんてこれっぽっちも思っていないし、何かを成そうなんて考えも全く起きない。
ただ生きて。ただ死ぬ。
そう、僕はいつも全ての苦しみから解き放たれる『死』に憧れて…、いや、恋焦がれているのだ。
だから胃潰瘍が見つかり入院となった時、僕は期待していた。
胃潰瘍なんかじゃなく、胃癌になっていて、ようやくこの世という地獄から解き放たれる手段を得たのかもしれないと。
けれど僕は知ってしまった。
生きたいと願う少女がいる事を。
今、自分の家にいる事がストレスになっているのとは逆に、お母さんと一緒に自分の家に帰りたいという、ささやかな夢を叶える事が出来ない少女がいる事を。
恥ずかしかった。
自分が何をやりたいのか分からず、ただ惰性で生き、家族や他人に認めてもらう努力すら放棄してひたすら人生の終焉が来る事に焦がれていた事が。
よくテレビで命を題材にした番組を放送したりしていると『生きたくても生きる事が出来ない人達もいるのだから、命を粗末にしてはいけない』と言っているのを耳にするが、一度も心に響いた事はなかった。
全くの他人事であり、しかも生きる事に何も価値を見出事が出来ない僕にとっては、それはとても羨ましい事だった。
今は全く違う。
彼女に出会い、彼女の運命に触れる事で、僕は命という物の重さを感じるようになった。
出来る事であれば、お母さんと一緒に家に帰りたいと願う彼女の為に、生きる事に何の意味も見いだせない僕の命を差し出せるものならば差し出したいとさえ思う。
自分の心境の変化に驚きながら、同時に何もしてあげられない事に怒りのような、焦りのような、言葉では言い表せない感情が渦巻いていた。
「ただいま」
「お帰りなさい。思ったより早かったのね。あら、お父さんも一緒なの?」
「ああ、今日は特別な日だからな。亮に電話して帰る時間を合わせた」
下から声が聞こえる。どうやら父と兄が帰ってきたようだ。
とたんに僕の胃の中に鉛玉が落ちたような圧迫感を覚え、憂鬱な気分になる。
本来なら父の帰りも遅く、兄は家を出て自分で生活しているので晩ご飯を一緒に食べる事は滅多にないのだが、今日は何か祝い事があるらしい。
何の祝い事なのかは知らないが、出来ればそんな席に一緒に居たくない。
どんな計算式で、打合せもしていない僕の退院と兄の祝い事が一緒になる確率を導けばいいのか分からないが、多分かなり低い確率のはずだ。
そんな偶然が自分の身の上に落ちてくるとは。
本当に神がいるとしたら、かなり意地の悪い脚本家だ。
どうせ祝いの席に僕が居なくても家族は何も気にする事なく、団欒を楽しんだ事だろう。
せめてあと一日入院が長引いていたらと思わず嘆息した。
「勉、夕食の時間よ。下に降りてきて」
ノックと共に母の声。
鉛玉が落ちたような圧迫感を感じていた胃が、鉛玉どころか胃自体が鉛になってしまったようにさらに重くなり、憂鬱どころか発狂しそうな程に、それが僕の精神を追いつめる。
大きく深呼吸をする。
死刑執行を告げられた死刑囚が、どんなにそれを拒否しても刑の執行を許されないように、僕もこの家の人間でいる限り拒否する事は許されないのだ。
大きな溜息をつき、足を引きずるようにして階下に降りる。
「なんだ勉。退院していたのか」
父が僕を見て声をかける。
「…今日退院してきた」
「で?検査入院の結果、なんの病気だったんだ?」
「…やっぱり胃潰瘍だって」
「胃潰瘍だって?胃潰瘍になる一番の原因はストレスだと言われてるが、お前みたいに勉強も努力もしないで適当に生きてる奴が何で胃潰瘍になるんだろうな」
兄がいつもの嫌味を言い始める。
何か言い返せば畳みかけるように言葉攻めで攻撃されるし、その言葉に抗えるような知識や語彙を僕は持ち合わせていない。
「まあその辺にしておけ。今日はお前の祝いの日だ。そんな自分の生き方も決められない男でもお前の弟だ。一緒に祝わせてやれ」
「別にこいつに祝ってもらっても嬉しいとも思えませんけどね」
父の言葉にそう答えた後、僕を見て鼻で笑い、それでもその後の言葉を控えた。
確かに兄は優秀だが、それでも父に逆らう事はしない。
僕から見たら、父の思い描いた理想という名のレールから外れる事がないように言いなりになっている駒にしか見えない。
しかし父や母、そして兄から見たら、僕はただの落ちこぼれにしか見えないだろうし、そんな家族に反発しながら、僕自身も自分を人生の落ちこぼれだと感じているのは事実だ。
「お待たせしました。今日は腕によりをかけて作ったのよ」
母が料理をダイニングテーブルに運んできた。
「運ぶのを手伝うよ」
兄は席を立ち、母の手伝いを始める。
「いいのよ。貴方は今日の主役なんだから座ってなさい」
そういいながらも母を手伝う兄に嬉しそうな笑顔を向ける。
「本当貴方が息子である事が誇らしいわ。それに比べて勉は相談もなく大学を勝手に休学して無駄な時間はたっぷりある癖にお手伝いすらしようとしないんだから」
言い返す気すら起きない。
小さい頃から繰り返される当たり前の光景。
それに僕は確かに落ちこぼれなのだ。
僕の父は倉持法律事務所という大きな弁護士事務所を経営している。
その法律事務所は先々代、つまり僕の曽祖父が起こした事務所で、父は三代目の経営者となる。
かなり大きな事務所で沢山の弁護士を抱え、数多くの大企業の顧問弁護士も務めている。
倉持事務所三代目の倉持正昭と言えば、その業界では知らない人はいないと言われる程の敏腕弁護士なのだ。
僕から見れば、弁護士としては優秀なのかも知れないが、父親としては最低の人間としか思えないのだが。
そして僕の兄、倉持亮は日本一の大学と言われる東大の法学部に現役合格し、難関といわれる司法試験も在学中に一発で合格した優秀な頭脳の持ち主だ。
今は横浜地検で検事の職についている。
兄が検事になったのは兄の意志ではなく、将来は弁護士となり、倉持弁護士事務所を盛り上げていく為に、まずは反対の立場である検事の勉強をして来いと父が言ったからだ。
兄は明るく活発な性格で、初めて会った人にも物怖じする事なくすぐ仲良くなる。
僕と違って友達も多く、親類達からも一目置かれている存在で、両親の自慢の種だ。
だが僕から見たら外面がいいだけで、本当は自分以外の人間を馬鹿にして見下している。
僕の事などは人間以下としか見ていない事だろう。
しばらくして、テーブルの上に母が腕を振るった料理が並び、栓が抜かれてある兄の生まれ年のシャトー・ラテュールが父の手によって全員のワイングラスに注がれた。
正直びっくりした。
父はこの家では絶対的存在であり、自分の手で誰かのグラスに飲み物を注ぐなんて事はしない。
それは定期的に通ってくる家政婦の役目であり、家政婦がいない時は母の役目なのだ。
「父さんから直々ワインを注いでもらうなんて光栄だな」
兄は笑顔を浮かべて言った。
「喜んで注がせてもらうぞ。なにせお前はまだ三十代という若さで横浜地検刑事部の部長になったんだからな。今日はそのお祝いだ。だから家族だけで祝おうと思って、今日は家政婦にも休んでもらったんだ」
母も満面の笑みを浮かべ言葉を繋げる。
「そうよ。貴方が優秀な事はお母さんも知ってるけど、まさかこんなに早く部長になるなんて、改めて貴方の能力の高さに舌を巻いたわ」
「部長と言ったって、検事の場合はそれは階級ではなくて、ただの職名だよ。別に出世した訳じゃない。部長という職名が付いたって、検事はただの検事さ」
兄は母の方を見て、軽く苦笑いを浮かべた。
「そうだとしても、部長という職名が付くという事は、その部署を纏める能力があると上に判断されたという事じゃないか。しかもその若さでだ。そんな謙遜はしなくていい」
父は兄に対してそういったが、僕は知っている。
兄のあの苦笑いを浮かべた否定は謙虚にみえるかも知れないが、本当はとても気分がいい時なのだ。
兄の辞書には謙虚や謙遜なんて言葉はない。ただ己の力への自信と野心しかないのだ。
それがいつか慢心となり、兄が人生の坂道を転げ落ちる事を、僕は幼い頃から願ってきたが未だ叶っていない。
とりあえず皆でワイングラスを軽く持ち上げ乾杯をする。
それ以降は父と母と兄の三人で楽しそうに話をしながら食事が進んでいく。僕なんて蚊帳の外だ。
だが僕にとってはその方が助かる。
どうせ僕に向けられる言葉なんて…
「ところで勉、お前は今何をしてるんだ?仕事とか探してるのか?それとも大学に戻って勉強し直すのか?」
いきなり兄が僕に話を振った。
また胃の辺りの重々しさが増す。
「…別に。特に何も考えてない」
「それじゃダメだろ。お前も成人してるんだし、自分の身は自分で養えるようにならなきゃ」
「…とりあえずはバイトしてる」
「お前バカか?バイトなんてのは高校生や苦学生が小遣いを稼ぐ為か、もしくは能力のない人間達がとりあえず口を糊する為にやる事だろ」
言い争っても無駄だ。
こんな時は何を言っても、兄は兄の世界観を押し付けてくるだけで、僕の言い分なんてゴミ屑扱いをする。
沈黙。それが昔から僕に出来る精一杯の抵抗なのだ。
「まあいいじゃないか。とりあえず勉が何もしないで家にいようと、それで暮らしが苦しくなるような倉持家じゃない。もう暫く放っておいて、大学に戻るなら戻るも良し。やりたい仕事が見つかったら見つかったで良しとすればいい」
余程機嫌がいいのか、珍しく父が僕を擁護した。
「けど父さん。二十代も半ばの男が大学にも行かず、ちゃんとした定職にもつかないでフラフラしてるなんて、倉持家の恥さらしじゃないですか」
兄が苦々しげに僕を見て言う。
「それもそうだが、逆に無理に大学に行ったり、やりたくもない仕事を始めて大きなミスでもしてみろ。それこそ倉持家の名誉を損なう」
「なる程、それもそうですね」
そう言って兄が噴き出した後、父と兄が顔を見合わせて大笑いする。
母も口元を手で隠し肩を揺すった。
「ご馳走様。今日退院して来たばかりでまだ胃の調子が良くないので部屋に戻ります」
そう言って席を立ち部屋に向かう。
そんな僕を誰も引き留めはしなかった。
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