【SF短編小説】月の光の下で ―縮小する地球、拡大する愛―(約20,000字)
藍埜佑(あいのたすく)
第一章:「静かなる世界の終焉 ―消えゆく地球のシグナル―」
東京大学天文台の望遠鏡室は、いつもなら静寂に包まれている。しかし、この日は違った。卯月理人(うづき・りひと)は、モニターに映し出されたデータを何度も確認しながら、額の汗を拭った。三十一歳の彼は、天体物理学者として数々の研究論文を発表してきたが、今見ているデータほど奇妙なものはなかった。
「おかしい……これは絶対におかしい」
モニターには、過去二週間分の月の観測データが表示されていた。直径の変化を示すグラフは、わずかだが確実な上昇カーブを描いていた。
窓の外には、夕暮れの空に浮かぶ薄い月が見えた。まだ三日月だが、昨日よりも少し大きく見える気がする。それは気のせいではなかった。データが示すように、月は確実に大きくなっていた。
理人は眼鏡を押し上げ、ため息をついた。
「これを報告したら、絶対に笑われる」
彼は自分の計算を疑い、測定機器の誤差を疑った。しかし、何度確認しても同じ結果だった。
そのとき、研究室のドアが開いた。
「卯月さん、まだいたんですね」
声の主は助教の川崎だった。彼女は理人の隣に座り、モニターを覗き込んだ。
「何を見ているんですか? そんなに真剣な顔して」
「川崎さん、これ見てください」
理人は月の直径変化のグラフを指さした。川崎は一瞬眉をひそめ、それからくすりと笑った。
「測定ミスでしょう。機器の調整をしてみては?」
「三種類の異なる観測装置で同じ結果が出ています。しかも……」
理人はもう一つのグラフを開いた。
「GPSと地球観測衛星のデータによると、地球の直径も同じペースで減少しているんです」
川崎の表情が凍りついた。
「それは……冗談ですよね?」
「冗談だったらどれだけよかったか」
理人は髪をかき上げながら続けた。
「変化率は毎秒約10センチメートル。一日にすると約8.6キロメートル。小さな数字に見えるかもしれませんが、このままだと……」
彼は言葉を詰まらせた。計算上は約4年で地球の直径がゼロになる。そんなことがあり得るはずがない。しかし、データはそう示していた。
「上層部に報告するべきです」
川崎の声は震えていた。理人はうなずいた。
「ああ、だけど……」
彼は夕空に浮かぶ月を見た。
「パニックを起こさないよう、慎重に進めるべきだ」
理人はこのとき、世界の運命が変わる瞬間に立ち会っていることを悟った。しかし、それが自分の人生まで根本から変えることになるとは、まだ想像していなかった。
---
春見月香(はるみ・つきか)は、東京湾の埋め立て地で地質調査を行っていた。二十八歳の彼女は、地質学と海洋学を専攻した研究者で、現在は国立環境研究所に所属していた。
月香は地面に膝をついて、最新の測定器で地殻変動を調べていた。最近、東京湾岸で微細な地殻変動が頻発しており、その原因を探るのが彼女の仕事だった。
「またか……」
測定器の画面には、わずかだが明らかな地殻の圧縮が表示されていた。これは一週間前から観測され始めた現象で、日を追うごとに顕著になっていた。
彼女は測定器をカバンにしまい、海を見つめた。夕日に照らされた東京湾は美しく輝いていたが、彼女の心は不安で満ちていた。
携帯が鳴った。
「もしもし、春見です」
「月香、大変だ。すぐに研究所に戻ってきてくれ」
声の主は上司の佐藤春子教授だった。東京大学から国立環境研究所に移った佐藤教授は、地球物理学の権威として知られていた。普段は冷静沈着な教授の声が、今は明らかに動揺していた。
「何があったんですか?」
「説明している時間はない。とにかく急いで」
通話は唐突に切れた。月香は不安を募らせながら、急いで車に乗り込んだ。
研究所に着くと、会議室は既に人でごった返していた。テレビ会議システムで世界中の研究機関と繋がれており、ヨーロッパや米国の著名な科学者たちの顔が画面に映っていた。
月香が席に着くと、佐藤教授が全員に向かって話し始めた。
「既に多くの方々が気づいているかもしれませんが、現在、前例のない現象が地球規模で発生しています」
大型スクリーンには、地球と月の画像が並んで表示された。
「東京大学天文台からの報告によると、地球の直径が毎秒約10センチメートルの速度で縮小している一方、月の直径は同じ速度で拡大しています」
会議室にどよめきが広がった。
「これは冗談ですか?」誰かが声を上げた。
「私もそう願いますが、複数の独立した観測によって確認されています」
佐藤教授は続けた。
「この変化率が続くと、一日あたり約8.6キロメートルの変化となります。春見さんが観測していた地殻変動は、この現象と一致しています」
月香は息を呑んだ。彼女が観測していた微細な地殻変動は、地球全体が縮んでいるという壮大な現象の一部だったのだ。
「これが本当なら……地球はいつか消滅する?」
質問した若い研究員の顔は青ざめていた。
「現在の変化率が続くと仮定すれば、理論上は約4年で地球の直径がゼロになります」
佐藤教授の言葉に、会議室は凍りついた。
「しかし、そんなことは物理法則上あり得ません。おそらく何らかの未知の力学が働いているのでしょう」
教授は画面の向こうの科学者たちに目を向けた。
「各国の研究機関と協力し、この現象の解明に全力を尽くします。それまでは、一般市民へのパニックを避けるため、情報管理を徹底してください」
会議が終わり、月香が部屋を出ようとしたとき、佐藤教授に呼び止められた。
「春見さん、あなたには特別なミッションがあります」
教授は声を低くして続けた。
「東京大学天文台の卯月理人という研究者を知っていますか?」
「いいえ、お会いしたことはありません」
「彼は最初にこの現象を発見した天体物理学者です。彼との共同研究チームを結成してほしいのです」
「私が? でも、私は地質学者で……」
「だからこそです。地球と月、両方の視点からこの現象を解明する必要があります」
月香は唇を噛んだ。世界の終わりについて研究するチームに参加するなど、考えたこともなかった。
「分かりました。チームに参加します」
帰り道、月香は空を見上げた。まだ薄暗い空に、三日月が浮かんでいた。それはいつもの月のように見えた。しかし彼女は今、その月が刻一刻と大きくなっていることを知っていた。
その夜、世界中の科学者たちが同じ月を見上げながら、同じ恐怖を抱いていた。地球と月の変化が、人類の運命を変えようとしていた。そして月香は、この前例のない危機の真っただ中に投げ込まれていくのだった。
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