麓の里から四半刻ほど登った、低山の中腹、昼時。

 霧雨に煙る小寺の三門を潜る影が一つ。


「恐れ入ります。山越えの途中で雨に見舞われてしまい難儀しておりましたところ、こちらをお見掛けいたしました。しばし雨宿りをさせては頂けないでしょうか」


 微かに葉を震わす風の音のような男とも女ともつかぬ声に、すぐに庵の引き戸が開かれる。


「それはお困りでしょう。この様な破れ寺のこと、もてなしの一つも出来ませんが、雨風だけは何とかしのげますよ。遠慮せずお入りなさい」


 鶴のようにやせ細った老僧が、湿気た旅装束を纏わりつかせた影を促す。


「ありがたいことでございます。それでは、失礼致します」


 やけに丁寧な口調の影に老僧は朗らかに笑いかけ、入ってすぐの庫裡を兼ねた土間の奥を指すと、


「あちらで荷を下ろし、お楽になさい。今、火を熾しますよ」

「はい」

「客人を迎えるのは何時ぶりでしょうかなあ。まったく、里のだーれも説法など聞きに来やしない」


 そう言って、竈の前に屈み込む。


「ご覧の通り、ここには私しか居りませんから、お好きなだけ休んで行かれるとよろしい」

「ありがとうございます。わたくしは『クスノキの』と申します。旅をしながら手作りの薬を商っております。りん、とお呼びくださいませ」

「これはご丁寧に。拙僧は知円ちえんと申します。まあ、知円でも坊さんでも爺さんでも、好きにお呼びになってください」


 間もなく知円が熾した炭を板の間の火鉢に移すと、赤々とした明かりに、辺りを見回している客人の姿が浮かび上がる。

 何ともおかしな風体の客人である。

 木彫りの面のように、やけにつるりとした顔の中で常に撓んでいる目元と口元。足元に下ろした柳行李がやけに大きく見えるのは、凹凸のないひょろりとした身体のせいか。ありふれた旅装束から覗く老僧と似たり寄ったりの細い首元や、指先を除く手足には隙無く布が巻かれ、恐らく全身そうなっているであろうことが容易に想像がつく。

 そして、客人を中心に漂う、樟脳のにおい。

 老僧は鼻をひくつかせると、くっくっと笑った。


「薬ですか。このにおいが、貴方の名の由来ですかな」

「ご迷惑でございましょうか」

「とんでもない。このように山暮らしをしていると、木の香というのはそれだけで心安らぐものです。あるいは里心に近いかもしれませんなあ」


 古びた寺内は、あちこちに丸太の転がる作業場であり、しかし紛れもなく寺だった……もっとも、寺としてはかなり型破りではあったが。


 板の間の壁際には大人の腰ほどの高さのある四天王像から、手のひらに収まる程の天部像などが並び、そのどれもが今にも動き出しそうな生々しさを備えている。その手前には木屑の散る中に彫りかけの天女と槌と鑿、開いたままの経典が幾巻きか置かれ、それ以外にはわずかな生活品や文机と火鉢と、その場に不似合いなしっかりとした設えの一抱え程の大きさの厨子が一基置かれているだけだ。


 知円は火鉢を挟み客人に向かいに腰を下ろすと、それぞれの前に白湯を入れた湯呑を置いた。

 像を眺め続けるりんを、老僧も黙って見詰める。やがて、りんが知円に顔を戻し、


「もしや、こちらは全て」

「ええ、私が彫りました」


 客人の問いに、老僧はどこか困ったように微笑んだ。

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