第7話 エマ

 いい加減見慣れているようなこの街にも、まだ見ぬ綺麗が存在している。そんな思いを馳せてする散歩が好きだ。普段の忙しない生活では、落ち着いて空を見上げることもできない。

 これは日常が忙しないので仕方がないことであり、決して普段から心に余裕を持って空を見上げていたほうがいいとか、そういうことを言いたいわけではない。

 ただ、そういう時間をとることを大切にしている。


 私の考える散歩には目的地は要らない。思いがけず自宅を飛び出し、彷徨うことにのみ集中すべきである。点と点を結ぶような直線的で、日常的な道から外れること。

 子供の頃はそれを不安に思っていた。私はちゃんと、帰ることができるのだろうかと背中に冷たい汗が流れる感覚を味わっていた。

 けれども、私はもう子供ではない、と思う。そう言った不安がなくなった迷子というのは存外楽しいことに気が付いたのだ。


 散歩をしていると、様々な人に出会う。その機会が増える。行き交う人々のそれぞれに物語があって、その物語にも始まりがあり、終わりがある。それはきっと点と点を結ぶような直線的な物語などではなく、複雑に入り組んでいて、至る所に分かれ道が存在する、そんな物語だ。

 人生と散歩は結び付けづらい言葉なのかもしれないが、私にとっては等しく大切なものであり意味を持つべきでないものである。


 昨日も私は散歩をしていた。そうして一匹の猫さんに出会ったのだ。


「おじいちゃん、こんにちは!」


 扉を開くと、取り付けられた鈴がカラカラと音を立てる。

 おじいちゃんは視線を読んでいた雑誌から此方にむけると、にこりと暖かい笑みを浮かべた。


「おや、エマちゃん。よう来たのう」


 そう言いながら、手ぶりで正面の席へと案内した。

 

 おじいちゃんは、「師走」という変わった名前をしている、私の父型の祖父である。


「エスプレッソさんは、まだ、寝ていますか?」


 昨晩は彼をこの店に送り届けた後、自宅へと帰宅した。そうしてアルバイトをこなすと、いてもたってもいられなくて此処まで来たのだ。


「いいや、彼なら昼前にミズナシ君と一緒に出掛けて行ったよ」

「そうなん、ですね。それで、どこに行ったの、ですか?」

 そう言うと、おじいちゃんは首を傾げ、どうにか思い出そうと考えだした。

「ええと、何処じゃったかのう。確か、ううん……。ああ!そうじゃ!大学の図書館に行くと言っていたな」


 大学の図書館、この街に大学は一つしかないことから行き先には想像がつく。スミ君の通っている大学に違いない。因みに、私もそこの学生である。


「でも、どうして大学の図書館に、行っているんでしょう」

「わしには分からんよ。ミズナシ君のことじゃからね、そこに何かあるに違いないんじゃけど。わしらには到底、理解の及ばぬことじゃろうから」


 おじいちゃんの言う通り、ミズナシさんの考えを明け透けにすることができる人なんて何処にもいないんじゃないかと思う。彼は不思議な力を使う。彼自身がそれを魔法と表現しているから、そうなのだろう。

 以前、私もその魔法のお世話になった。私の抱えていた問題を、いとも容易く解決してしまった。しかし、その原理については今も私は理解していない。ただ、結果として解決されているのだから感謝をせずにはいられない。

 

 おじいちゃんは当然のように私の前に珈琲を置く。そうして、私もそれを当然のように口に運ぶ。

 おじいちゃんの淹れる珈琲は飲みなれてきた味で、安心できる。豆の挽き方にも人ぞれぞれ。同じ豆を使っていても、おじいちゃんの珈琲とスミ君のそれでは全く違う。スミ君の珈琲は秀でて美味なのだ。

 そんなことを考えると自然と思い出してしまう。スミ君とは、大学こそ同じだがこの店でのみ会話をする仲だった。友人の一歩手前、そんな間柄だ。

 ミズナシさんは、スミ君が憑依を解くことを拒んでいると言っていた。一体何故、彼は拒むのか。そこにはきっと、私にもエスプレッソさんにも分かり得ない不思議が存在している。彼の物語には、どんな結末が待っているのだろうか。

 

 みんなが幸せになるような、そんな大団円であればいいなと、そう思う。


 そんなことを考えていると、扉の鈴が再び揺れた。自然と視線がそちらを向く。


「こんにちは」

 

 一瞬、花を見た気がした。私が猫なら、彼女は芍薬だ。私は彼女を知っている。

 そこに立っていたのは、スミ君の思い人、ハルさんだった。

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エスプレッソと珈琲 花摘 香 @Hanatani-Kaori

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