第3話 小さい者同盟
我々猫というものは、度々自由の象徴として語られることがある。しかし何も、自由であることを人生……いや、猫生の主題にしているという訳ではない。それこそ、自由であることを心がければそれは、本当の自由からそれなりに遠いものとなる。これは所謂、本末転倒というやつだ。
それでは一体、本当の自由とは何を指しているのだろうか。これは吾輩が物心のつくようになった頃から時々考えていたことである。そして今もなお、その答えは見つかっていない。
吾輩の知る世界はとても小さい。それは、猫である吾輩が小さいことも関係しているのだろうが、結局は比較対象の問題なのだと思う。猫にとっては小道もだだっ広い空間であるが、人間にとって広大な地球という星すらも、宇宙からしたら塵埃の一つに過ぎない。
何かと比べるというものは自分の立ち位置を理解するうえでこの上なく合理的な行動であると思う。自分よりも優れた存在と比べれば己の小ささを知れる。また、自分よりも劣った存在を見れば心の何処かで安堵を覚えてしまうのは決して避けられない運命であると言える。
今、吾輩は確たる理解を得ている。人間は猫よりも優れている。それを表立って口にするものは、やはり小物だと言われても仕方のないことかもしれない。しかし実際、矮小なものの言葉ならすんなりと受け入れられるかもしれない。例えば、猫のような。
人間の一歩というものはとても大きい。ぼんやりと歩いているだけでも、吾輩の知らぬ景色へと運んでしまうものだ。
店を飛び出した吾輩は、黒猫を探すという目的を遂行するために繁華街を練り歩き、惹かれるものに目を移しては進行方向を変え、そうしてとうとう何処かもわからぬ土地に辿り着いたのだ。
こういうのをマイゴというのは知っていた。それは繁華街でも聞く言葉であったから。しかし、知っているのは名前のみであり、マイゴのときにとるべき行動というのはどうもわからない。吾輩はぼうっと、川縁の長椅子に腰を掛け小さい川と大きい川の合流地点を眺めているだけであった。人間であっても、猫であっても、きっとこの川に流れる水の音は心地のいいものに感じるだろう。
「あれ、スミ君じゃないですか……」
川のせせらぎで搔き消されてしまいそうな、か細い声がした。声のする方を振り向くと、そこには小柄な女が此方を向いて立っていた。少しだけ前屈みで、おどおどとしている。
「吾輩はスミ君ではない」
猫である。そう続けようとしたが、その言葉は喉の奥で止まった。女は鳩が豆鉄砲を食ったように此方を見ている。
「……スミ君では、ないのですか?」
「まあ、色々と事情があってな。どうやら吾輩はスミ君ではないらしい」
「そう、なんですね、それは不思議です」
真に受けているのか、老人のように適当に流しているのか、その真意は分からない。
女は自然と、長椅子の端に座った。吾輩も端に座っているわけで、不自然な距離感が空いている。
「貴方が、スミ君ではないのであれば、自己紹介をしないとですね。私は、エマって言います」
そう言って、にへらと笑っている。八の字に垂れた眉毛が、女にほの暖かさを感じさせる。
「吾輩はエスプレッソだ」
「エスプレッソさん……、なんだか、かわいい名前をしてますね」
名前の善し悪しなど吾輩には分からない。吾輩の名前は、かわいいのだろうか。
「エマは、名付け……スミとは知り合いなのか?」
「スミ君は、私のおじいちゃんのお店で、アルバイトをしているんです」
おじいちゃん、それはきっとあの老人のことだろう。
「スミ君の淹れる珈琲、とっても美味しいんですよ!」
先刻、老人の口からも同じようなことが語られていた。あの店で、名付け親の淹れる珈琲は多くの客に笑顔を与えていた。そうして、客の笑顔でまた、我が名付け親の顔も綻んでいた。吾輩はあの温かみが好きだ。空間が笑うような、音が弾むような。
「そうか、しかし吾輩には珈琲は淹れられぬ。吾輩がこの身体を占領している限り、その美味しい珈琲とやらも飲めないだろう」
「……そうですか。それは、残念です」
「エマよ、お前はスミをこの身体に戻す方法に心当たりはあるか?」
聞いては見ても、答えなど出ないことが分かり切っていた。
「不思議なことです。私には、どうすることもできません、が。不思議なことに詳しい不思議な人を、知っています」
「不思議な人?」
「そう、です!その人に会えば、何かわかるかもしれません」
「何か」とは何か。それは吾輩の求めている「何か」なのか、それとも求めていない、救いのないような「何か」なのか。
「その不思議な人とやらに会えば、吾輩は元の身体へと戻れるのだろうか」
「当たって砕けろの、精神です!」
何故だろうか。このおどおどとした、矮小である少女は、話してみると活力にあふれているように感じる。
「エマは、猫を矮小な生き物であると思うか?」
「猫ちゃん、ですか?そうですね、そう思います。小っちゃくて、かわいいです」
「吾輩はその小さきものであった。猫であったのだ」
先ほどは言い淀んだ言葉を、エマになら伝えていいのではないか。そう思った。
「エスプレッソさんは、猫ちゃんだったのですね」
そう言って、くすくすと笑う。嫌味な感じはしない。
「吾輩にとって、この身体の一歩は大きすぎる」
「そうですね。私にとっても、スミ君の一歩は大きいと、思います。私もエスプレッソさんと同じで、小っちゃいですから」
確かに、エマは小柄である。それでもやはり、猫ほど小さいわけではない。
「それに、私は猫背ですから。私たち、似ているのかも、しれませんね!」
エマは「砂糖」のような人間だ、と思う。きっとエマといるだけで、猫生の苦みも甘く、飲みやすくしてくれるに違いない。
吾輩は久方ぶりに、名付け親の笑い声を聞いた。
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