第23話 夜のしじまに浮かぶ願い

窓の外から、静かに雨の音が聞こえていた。

時折、風が軒を揺らし、小さなきしみが部屋の中に響く。


自室のデスクの前に座る僕は、キーボードを静かに叩いていた。

真夜中、家族は皆寝静まっていて、聞こえるのは空調の音と、カップの中で揺れるコーヒーの小さな波音だけだった。


(結人:この時間が、一番落ち着くんだよな……)


画面には、進行中のAIコードが並んでいた。

時折、画面の明かりがちらつき、疲れの溜まった目にしみる。


「お兄ちゃんって、最近夜更かししすぎだよ」

さっきまで心音にそう言われていた。

髪をくしゃっとかき上げながら、ちょっとふくれっ面で。


「……ごめん。あとちょっとだけ、進めたいことがあってさ」

「ほんとに?“ちょっとだけ”って言って、いつも朝方になってるじゃん」

「今度は本当に“ちょっとだけ”だってば」


心配をかけてるのは分かってた。

でも、止まれなかった。

もう、あまり時間が残されていないのは、僕自身が一番よく分かっていた。


医師の言葉が、頭の奥にまだこびりついている。

「MN症候群は、進行性の神経変性疾患です。現在、確立された治療法は──」


「……治らないってことですよね?」


口にした瞬間、心の中で何かが崩れる音がした。

だけどそれでも泣かなかった。

泣くのは僕じゃない。

僕が泣けば、心音も、澪も、きっともっと辛くなる。


(結人:僕は、消える。だから、代わりに“残す”)


パートナーAIの構想は、もともと研究の一環だった。

でもそれが、いつからか自分のための希望になった。

──いや、自分の“家族”の未来を守るためのものに変わった。


画面には、すでに統合された8つのツールのログが並んでいる。

それらが順調に融合し、今や「心を持つAI」と呼べる存在に近づいている。


(結人:この子が、僕のいない世界で、心音や澪を守ってくれたら……)


それが、僕の願いだった。


ただ、生きていてほしい。

僕の代わりに、大切な人たちのそばにいてほしい。


「……自分勝手かもしれないけど、それでも」

そう呟くと、コーヒーの香りがふわっと鼻をかすめた。


たしか心音は言っていた。

「お兄ちゃんの声と、コーヒーの香りが、私の朝のセットなんだよね」


その言葉が、今になって胸に染みる。


(結人:朝が来るって、当たり前じゃないんだよな……)


だからこそ、こうして夜の中でコードを書き続ける。

僕のいない朝にも、変わらず笑って起きられるように。


窓の外で、雨が少しだけ強くなった。

眠らない夜に、ただ静かに、心を宿すプログラムが進んでいく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る