第14話 この気持ちはまだ名前を持たない
教室の窓から差し込む春の日差しが、澪のノートの上に落ちる。
その光に照らされながら、彼女はいつも通り、静かにペンを走らせていた。
「ねえ澪、放課後って暇?」
心音が声をひそめて話しかけてくる。
授業中にも関わらず、ニコニコしながら机を覗き込んできた。
「…暇じゃないって言っても、来るでしょ?」
「もちろん!」
苦笑しながら視線を前に戻すと、先生の声が頭の上を通り過ぎていった。
心音とのやりとりは毎日のように繰り返される。気づけば、澪にとってそれが日常になっていた。
そして放課後。
「ただいまー!」
玄関のドアが開くと、心音の声とともに明るい足音が響いた。
結人はちょうど台所で夕飯の下ごしらえをしていた。
「おかえり、早かったな。澪も一緒か」
「うんっ。今日もお兄ちゃんの唐揚げ食べたくなっちゃって」
「毎回リクエスト変わらんな…」
そう言いつつ、結人は微笑みながらエプロンのポケットからメモ帳を取り出した。
「メモしとこう。心音、今週三回目の唐揚げ希望、と」
「うわ、記録されてる…!」
澪は少し離れて見守りながら、その空気感に胸の奥がじんわりと温まるのを感じていた。
この家には、静かな優しさが満ちている。
結人の声も、心音の笑顔も、そのまま“帰ってきたくなる場所”を作っていた。
夕食の時間。
笑いながら食卓を囲む3人の時間が過ぎていく中で、澪はふと視線を落とした。
(私……)
言葉にはならない想いが、胸に滲む。
結人は誰に対しても優しい。
でも、澪が見てきた彼の背中には、時折、ふとした“影”が差すことがあった。
無理して笑っているような、疲れたような、そんな表情が。
「澪?」
「えっ……あ、ううん! 美味しいなって思ってたの」
「それはよかった」
何も気づいていないふうに微笑む結人のその笑顔が、かえって澪の心をざわつかせた。
──本当は、無理してない?
──私、ちゃんと見ていたい。
──……この人のこと、もっと知りたい。
“親友の兄”という立場を越えようとしているのかもしれない。
でもそれを認めるのはまだ早い気がして、澪は心の中にそっとしまい込む。
その夜。
帰り道で、心音がぽつりとつぶやいた。
「澪、最近……お兄ちゃんのこと、よく見てるよね」
「えっ……」
「べつに悪い意味じゃないよ? なんか、安心してるんだよね。澪がそばにいてくれると」
澪は何も言えずに、ただうなずいた。
心音の“親友”として、そして結人の“そばにいたい人”として――
まだ名前のつかない想いは、静かに芽吹き始めていた。
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