アイのノコシたキミ

@shikijaku

第1話 朝は、優しさの匂い

目覚ましの音が鳴る前に、俺は目を覚ました。

いつもどおりの時間。けれど、“いつも”は、あとどれだけ続くんだろうと、ふと考える。


キッチンに立ち、豆から挽いたコーヒーの香りをゆっくりと広げていく。

この匂いを嗅ぐと、心音──妹は、自然と目を覚ます。

俺の声と、この香りが、彼女にとっての「朝」だ。


「おーい、ここね。朝だぞ。起きろー」


甘ったるい声ではない。ただ、少しだけ優しさをにじませた、そんな言い方。

数秒後、二階から「ん〜…あとちょっとだけ…」とくぐもった声が返ってくる。


これもまた、いつもどおりだ。


食卓に並べた目玉焼きとトースト、簡単なサラダ。

俺は料理が好きというわけじゃない。ただ、母さんが夜遅くまで働いているから、自然と覚えただけだ。


母・遥香は、シングルマザー。

父は、俺たちを置いて出ていった。研究者だったらしいが、酒に溺れ、ある日突然帰らなくなった。

別の女と暮らしてる、って噂もあった。でも、本当のところは誰も知らない。


母さんは、そんな男を恨むでもなく、ただ黙って働き続けた。

自分のことなんて後回し。俺と心音のことだけを考えて生きてる。

……その背中を、俺は子供の頃から見てきた。


「……あれ? トマトないんだけど?」


キッチンに現れた心音が、寝ぼけた目で食卓を覗き込んできた。


「それ、昨日の夜に全部食べたの、お前な?」


「え、あ……そうだっけ? えへへ」


寝ぐせのまま笑う妹の頭を、軽くくしゃっと撫でた。

この子は、いつまでたっても俺に甘えてばかりだ。でも、守りたくなる。そう思える存在。


「今日、澪ちゃん来るかも。昨日、課題で夜更かししてたって言ってた」


「ああ。そっか。気をつけて来いよ」


澪──心音の親友であり、俺の幼なじみ。

いつもどこか俺を見ていてくれて、そして気づかないふりをしてくれる、不思議な子だ。

彼女の存在は、なんだか少し特別で──

……でも、その気持ちは、今はまだ名前を持っていない。


朝の空気の中で、コーヒーの香りがまだ漂っていた。


この香りと、俺の声が続く限り、きっと妹は笑ってくれる。

それだけでいい。

……今は、それでいい。

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