第2話|蜜の中の記憶

― 香りが、遠くの記憶を連れてくる ―


 


蜂蜜の瓶を開けたとき、

ふわっと立ち上がるあの香りに、

言葉にならない懐かしさが混じっていることがある。


 


目の前にあるのは、

アカシアの蜜だったり、レンゲだったり、

季節や花の名前を持った、ただの甘い液体。


 


でも、その香りが鼻に届いた瞬間に、

風景がまるごと、記憶の奥から立ち上がる。


 


僕にとっての“はじまりの味”は、

たぶん、レンゲの蜂蜜とホットミルクだった。


 


子どものころ、熱を出した夜、

母が台所で作ってくれたそれは、

やわらかくて、あたたかくて、

湯気の奥でぼんやり甘かった。


 


「飲めたら、すぐ治るからね」って言われて、

うなずいたまま、全部飲み干して、

そのまま眠ってしまった気がする。


 


熱が下がったかどうかは、あんまり覚えてない。

でも、あの味だけは、ちゃんと残ってる。


 


職人になってからは、

蜂蜜を“素材”として見ることが多くなった。


 


糖度、酸味、香りの持続性、

相性のいいモルト、スパイスとのバランス……


 


けれど、ふとした瞬間に、

レンゲ蜜の瓶のふたを開けると、

あの晩のホットミルクが、鼻先に戻ってくる。


 


思い出は、舌じゃなくて、香りで記憶されてるのかもしれない。


 



春の試作で、アカシア蜜を使ったとき。

試飲した高校生の女の子が、目を丸くして言った。


「……なんか、ちっちゃい頃の気持ちがする」


 


それを聞いて、僕は静かにうなずいた。

伝わった。

言葉じゃなくて、香りで。

説明じゃなくて、感じたままで。


 


きっと、味が人の心に残るって、

そういうことなんだと思う。


  


香りは、記憶のしっぽだ。

そのひとしずくに、季節が眠っていて、

誰かといた時間が染みこんでいて、

大切なものの、入口になっている。


 


だから僕は、蜂蜜を仕込むとき、

ただ甘くなればいいとは思っていない。


 


思い出の中に戻れる味であってほしい。

できれば、誰かが「ただいま」って言える味であってほしい。


 


そんな気持ちで、

今日も瓶のふたをゆっくり開けてみる。


 


📝 ひとことメモ:


記憶は、味よりも、香りからこぼれる。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る