『泡のあと、言葉になるまで』
Algo Lighter アルゴライター
第1話|夜のタンクと、ひとりの音
― 静けさの中で、酵母と向き合う ―
ビールを仕込む夜は、静かだ。
本当に、驚くほど静かだ。
風鈴屋の裏にある仕込み場には、時計の音すらない。
外の町が眠りについた頃、
僕はタンクの前に立ち、じっと、泡の立ち方を見つめている。
そのとき、耳には何も聞こえない。
タンクは黙っているし、酵母は言葉を持たない。
だけど――
その「音のなさ」に、なにかが生きていると感じるんだ。
酵母は、生きている。
でも、その命はとてもおとなしくて、慎重で、気まぐれだ。
たとえば、温度が0.5度ずれただけで機嫌を損ねる。
撹拌が少し雑だっただけで、泡の立ち上がりが変わる。
何百回も見てきたはずの工程で、突然、いつもと違う顔を見せる。
でもそれがいい。
生きものと向き合っている実感があるから。
ある日、深夜2時すぎ。
仕込みが終わり、道具を洗っていたら、
ふと、タンクの中からほんの小さな泡の音が聞こえた。
シュッ……と、空気に触れて消えるような音。
その一音に、僕は思わず手を止めた。
「お前も、起きてたんだな」と、
思わず声をかけそうになったくらい。
きっと、職人にしか聞こえない音がある。
いや、“聴こうとする人にだけ”聞こえる音があるんだと思う。
僕にとっての“仕込み”は、対話だ。
言葉はなくても、湯気の温度、甘さの残り方、
泡の立ち方、香りの輪郭、
そういうすべてが、酵母の返事になる。
そして、僕の不安や焦りも、きっと伝わってしまう。
だから、タンクの前に立つときは、
いつもより呼吸をゆっくりするようにしている。
そうしないと、音が聞こえなくなる。
夜は、孤独を連れてくる。
でもその孤独の中にしか、生まれない音がある。
静かで、淡くて、目には見えないけれど、
確かにそこにある“命の気配”。
ビールって、不思議だ。
生まれたときには誰にも気づかれず、
でも泡が立つ頃には、ちゃんと誰かの心を打つ。
そんな存在に向き合える夜が、
僕は、少しだけ好きだ。
📝 ひとことメモ:
“音がしない時間”の中でこそ、
一番大切なことが、ふっと聞こえてくる。
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