第2話
その男は界隈において天下無敵の存在だった。
人間離れした肉体ですべてを欲しいままにする無法者。
どんな豪族も剣客も、正義も悪も、彼には決して敵わない。
皆が皆、天災に触れた者はなすすべなく蹂躙され、めぼしい品を奪い取られる。
何よりも、彼には失うものがなかった。守らければいけないものは一切なかったので、後手に回ることはなく、弱点のつきようがない。一人で完結した怪物。それが彼を最強たらしめた所以だった。
しかし、あるとき彼は、水汲みのため偶然立ち寄った泉の畔で、この世のものとは思えない美しいものを見た。 泉の周縁に捨てられていたのは、自分が着るくたくたの着古しとは比較もできない天女の羽衣のような上質の衣類。
そして泉の中に見えるのは、身体を洗う女性で――その煩悩を揺るがす情景に彼は一瞬にして心を奪われた。
穢れ一つない美しい肌。ツヤのある滑らかな長い黒髪。スラッとして整った目鼻口。
彼の知る野暮ったい女性のイメージとはかけ離れた、本当に天から降ってきたような少女だった。
だから――彼はその宝石を自分だけのものにしたいと、強く思った。
それは彼がサンクチュアリに侵入する前、季節が三周するほど前の出来事だった。
◇ ◇
そんな今はもう遠くに行ってしまった夢を見ていた。若者がうとうとと目を開くと、
「シエルちゃん、シエルちゃん。この人目を覚ましたみたいだよ」
耳元でこそばゆい声がする。次いで、軽々とした足音が近づく。
「ふむふむ、まだ意識がはっきりしないようなのです」
傍に人がいると気がついた途端、彼はバッと飛び起きた。
「ひゃあ!」
少女がかわいらしい悲鳴を上げる。
彼の生活圏では、寝込みを襲われるのは往々にしてあることなので、寝ている間も警戒を欠かさない。
微かな音でも目を覚ます癖がついているので、他人にここまでの接近を許すことは滅多に無い。
咄嗟に周囲を見回すと、自分が柔らかい袋状の布の上で寝かされていたことに気がつく。自身の身体にはくまなく包帯が巻かれていることにも。
そして彼に視線を注ぐ少女が2人。
「突然立ち上がるから、びっくりしたのです」
幼い顔立ちの銀髪の少女がゆっくり肩を上下させた。銀色の長い二つ分かれの髪がさらさらと揺れ、小柄な身体はホワイトの服装で包まれている。
どこの誰かわからないが、えらく顔がいいということに若者はすぐ気づいた。精巧な人形に魂が宿っているかのようだ。あと胸がある。体型の割りにソラよりも大きいのではないだろうか、などと考えていると、
「あっ! この人シエルちゃんの胸ガン見してる!」
その隣で、金髪ショートヘアの少女が少年に指を指して声を上げる。銀髪の少女に比べ、背丈が大きく、胸もますます大きい。中性的な面貌を歪ませてこちらを睨んでいるものの、これまた上等な少女だと若者は思った。ひとつ気になる点があるとすれば、彼女が着ているぴっちりした謎の着物についてだが……。
「イロハちゃん、人に指さしちゃいけませんよ。めっです!」
「うぅ~。だって絶対シエルちゃんのことを下衆な目で見てたんだもん」
注意されて縮こまる金髪の少女。銀髪の少女は立ちっぱなしで未だ警戒中の若者に声をかけた。
「ご機嫌はいかがですか?」
見ず知らずの場所で目を覚まし、未知の状況を警戒していた彼であったが、緊張感の欠片も無い呑気な言葉に気を抜かれて、寝具の上であぐらを組んだ。
「昨日は熱もひどかったので、まだ寝ていた方がいいのですけど」
「誰だお前は、つーかここはどこだ」
少し朦朧とした頭で、銀髪の少女に尋ねる。
「よくぞ聞いてくれました。私はシエルと申すのです。見ての通り、ごく普通の町娘なのです」
変な話し方をする女だな、間違いなく普通じゃない、と若者は思った。
「ここは私達のお家です。土地も所有しているのです」
一見は掃除が行き渡っていて、小綺麗な部屋。しかし、磨かれた銀色の台座に、光るガラスの球など、見たことも無い道具が大量に垣間見える。
続いて、シエルと名乗る少女は、不貞腐れている金髪の少女に取り付いた。
「この子はイロハちゃんです。とっても仲良しのお友達なのです」
「…………」
イロハと呼ばれた少女は無言でそっぽを向いているが、赤らめた顔から嬉しさをにじませている。
「イロハちゃんはとっても素直で可愛くていいこなのです」
「も~、そんな褒めないでよ~!」
今度は明らかに嬉しそうにしている。
「あととってもチョロいのです」
「えっ!?」
シエルがイタズラに成功したようすで笑う。
イロハは「そんなにわたしってチョロいかな……?」とショックを受けて固まる。
「次は貴方のことを教えて欲しいのです」
シエルは親しみやすい笑顔で若者に問う。
「お名前はなんですか?」
「名前か……」
彼は不思議な感覚の少女にあてられて、自然と言葉を探し始めた。
彼の顔に警戒心はもう残ってない。
(しかし、名前か……)
若者は名前という概念を知っていたが、自分につけられたものは無かった。生まれてからつい最近まで、それが必要になる機会がなかったから。
(呼び名なら、ないこともないが)
名前は無いが、呼び名はあることを思い出した。
しかしそれは他でもない、彼の大切な存在がつけた呼び名だったので、答えに詰まった。
「答えにくいですか?」
心配そうにシエルが覗き込む。
「記憶喪失とかじゃない? 頭強く打ったみたいだし」
「なるほどなるほど、では私が仮で名前をつけてあげます! 貴方は今日からスポポビッチです!」
「だってさ、よろしくね。スポポビッチ」
イロハが嘲笑を抑えきれない様子で言った。
シエルは良いことをしたとご満悦だが、若者はなんだかひどく気に入らなかった。
「…………ウルフ。そう呼ばれていたことがある」
悪いオオカミさんだからウルフ。
ソラは彼をそう呼んでいたが、明らかに根に持たれているネーミングであった。
「なるほど、オオカミさんなのですね。ガオー!」
「シエルちゃん、その鳴き声はライオンじゃないかな?」
「にゃんにゃん!」
「もっと遠ざかったよ!?」
はしゃぐ少女達をウルフはさも珍獣を見るかのように観察していた。何が面白いのかまったく理解できない。
「皇帝ペンギンはそれはもう凄い声で鳴くそうですよ」
「えー! そうなんだ! 聞いてみたいけど、エリアAにもペンギンっているのかなぁ」
「うーん、飼育が難しい動物ですからね。きっと出会うのは困難でしょう。セントラルなら一羽くらいいるかも知れませんが」
とまどうウルフを放って置いて、少女達が会話を弾ませる。痺れを切らしたウルフが、
「それで、オレは何故ここにいる」
「……覚えていないのですか? 昨日ぼろぼろのウルフくんが、図書館で雨がやむのを待っていた私に突然抱きついてきたんですよ」
「ウルフくん、だと?」
呼び方が少し引っかかったが、シエルの話を聞き、ウルフは朧気に昨日の出来事を思い出した。
壁の砲弾で死にかけて、サンクチュアリに侵入したところまでは記憶にある。
「『もうお前を放さないゼ』と、それはそれは熱い眼差しでギューって」
「それは記憶に無いな。なあ、ここはサンクチュアリの中なのか」
「サンクチュアリとは壁の外に住む人が使う名称ですよね。正確には、ここ――壁の内側はサテライトというのです」
「サテライト……?」
呼び方が違うからなんだというのだ、ウルフには検討もつかなかった。
「それより、アンタ次シエルちゃんに抱きついたら殺すからね」
先ほどからイロハが殺気立った視線を向けてくるのはそれが原因かとウルフは悟った。
「わたしは野垂れ死んでも良かったんだけど、シエルちゃんがどうしても看病するっていうから担いで帰ってきたの。わたしがね」
後段を強く強調したイロハから、また嫌な視線を向けられた。
「尋常じゃない怪我でしたよ。身体中血まみれで。打ち身もひどかったですし。いったい何があったのですか?」
「昨日壁を越えたときに、光線にやられた」
ウルフがそういうとシエルは吹き出しておかしそうに笑った。
「またまた~、ウルフくんジョークが上手なんですね」
「嘘じゃねぇよ。オレは光線に吹き飛ばされて死にかけたんだ」
「そんなわけないじゃん。星石と直で繋がってる雷撃砲台の威力なら、掠めただけで身体引きちぎれるんだから。狙われたら命はないよ」
「そうですよー。なにせ雷撃砲台が壁に設置されてから、サテライト外の人間が侵入できた試しがないんですから」
でも、あれは本来そういうための備えじゃないんですが、とシエルは視線を下げて呟いた。
ともかく、ウルフのいう事実は、冗談として受け取られているらしい。
「まあ、信じないならそれでもいいが、今はそれよりも重要な話がある」
「ほう、なんでしょうか」
ウルフは躊躇なく言った。
「お前ら2人ともいい女だ」
「いやー照れますねー」
「何? 口説いてるつもり?」
「ああ、褒めてるぞ。ソラ以外でオレを高ぶらせた女はお前らが初だ。だから――」
「だから?」
ウルフな懐かしい感覚に囚われていた。泉でソラと出会ったその日、裸で水浴びをしている彼女をどうしたかをよくよく嚙み締めていた。
「――オレを楽しませろ」
「へぇ!?」
言うと同時、ウルフは立ち上がりシエルへと手を伸ばした。
出し抜けの行為にシエルには為す術もなかったが、
「そうくると思ってた……よっ!」
「あれー」
ウルフがことを起こした直後、イロハは俊敏な動きでシエルを引き下げて、ウルフと対峙する。
「絶対やらしーこと考えてると思ったもん」
イロハは手慣れた手つきで装束から、万力鎖とクナイを抜いた。
その隙のない構えは彼女の積み上げた研鑽を窺わせる。
「ふふーん、驚きましたか。イロハちゃんは実は本物の忍者なのです」
「忍者? って何だよ」
「忍者とは特殊な訓練を受けた諜報活動のプロなのです。間者とはいえども戦闘技能も折り紙付きです。ウルフくん、謝るなら今のうちなのです」
シエルは目をキラキラさせながらいった。随分と余裕そうに見える。それほど、イロハの腕を信用しているということだ。
「わたしは謝っても許す気はないけど」
「まあ――オレも引き下がるつもりはないがな」
ウルフは今度はイロハに襲いかかった。
イロハが応戦し、逆手に持ったクナイでウルフの肩を狙う――が、すんでのところでウルフがクナイを握りしめた。岩盤に挟まったかのごとく堅く握られ、クナイがビクともしなくなる。
「バカ力がご自慢みたいだね。でも、それならっ!」
イロハはすぐにクナイから手を放し、万力鎖をウルフの顔に投げつけた。
分銅のついた鎖が頭蓋を砕く初速でウルフに迫る。
しかし、
「こんなものか」
ウルフがひょいと顔を曲げると、分銅は虚しく空振る。
「女にしてはやる方だが、オレの敵じゃないな」
手持ちの武器を使い果たし、イロハは抵抗の術を失った。
ウルフが勝ち誇り、油断した、その隙を見抜き、
「終わりだよ!」
イロハが手に持ってた万力鎖の片側を巧みに引き寄せると、宙を舞っていた分銅の軌道が横にそれ、ウルフの首の包帯の上に巻き付く。戻ってきた分銅を握り、イロハは両腕を交差してウルフの頸動脈を締め上げる。
正面からでは敵わない相手には、容赦なく搦め手までも使用する。謀殺暗殺に長けた忍者の常套手段だ。
人体の弱点を掌握し、勝負は決した。イロハはそう判断したが、すぐに異変に気づく。
「な、なんなのこいつ!?」
まるで手応えが無い。本来ならあるべき抵抗や動揺がウルフからは見られない。どれだけ強く締め上げても呻き声ひとつあがらない。
すでに失神したのかと思い顔を覗くと、彼は正気であり、真剣な眼差しでイロハの身体を見つめていた。
「ふぅん、なかなかそそる衣装だな。アミアミになっているところがとてもいい」
それどころか普通に喋った。
「っ――うそでしょ!? 骨が折れてもおかしくないほど力を入れているのに!?」
イロハの目に動揺の色が広がる。サテライトの外の過酷な環境で育った人間は得てして、強靱な肉体を誇るが、それはそういう、鍛え方云々によるものでなく。
人間という種族にラベリングされた基本スペックを逸脱しているような、神の手違いで熊が人間の形で生まれ落ちたような、悍ましい暴力が鎖越しに伝わる。
ウルフは首を締められたまま、イロハの両肩を掴み、押し倒した。
「ぐぅ……」
倒れた弾みでイロハは万力鎖をその手から放してしまう。
何もかもが思い通りにいったウルフがニヤリと口角を上げた。
「なかなか食べ応えのある身体つきだ。いいぞ」
ウルフは抵抗できないようにイロハの両腕を押さえ込み、悪い顔で生唾を飲み込んだ。彼女が捕食されるのはもう時間の問題だ。
イロハは諸々の決心をして、傍で動揺しているであろうシエルに叫ぶ。
「シエルちゃん、逃げて!!」
せめて、自分が犠牲になっている間に、シエルだけでも逃がそうと。
(わたしがこの男にメチャクチャにされても。シエルちゃんだけは守り抜くよ)
イロハは涙を浮かべて、自己犠牲を選んだ……訳だが、
「あらら、イロハちゃんが負けてしまうとは、驚きなのです」
シエルは緊張感の欠片もない声色で、そのように述べた。
「シ、シエルちゃん!? 今かなりピンチなんだよ!?」
その言葉で、今まさにウルフに襲われかけているイロハの方が動揺する。
イロハに乗り上げるウルフの背後に立ち、シエルは語る。
「ウルフくん」
「待ってろ。お前にもオレの女になって貰うぞ」
「私は昨日看病をしているときにふと思いました。ウルフくんは頑丈なので、もしも暴れたらイロハちゃんが負けちゃう可能性があるのではないかと」
「あん?」
「だから万が一を考えてはいたのです。本当は使いたくありませんでしたが」
シエルの自分の細く白い首を指さした。
その所作を見たウルフが首を回すと、何か異物感を覚えた。
イロハが巻き付けた鎖でもなく、巻かれた包帯でもなく、更にその下に。
ウルフが首の包帯を解くと、青い輪がはめられていた。光沢感のあるパイプのような青い首輪が。
「シエルちゃんまさかそれって……」
イロハはそれが何か気づいた様子だった。
「これがなんだっていうんだ」
状況を読めていないウルフが首輪を触るが、正体を掴むことはできない。
「もう一度言いますが本当の本当に使う気は無かったのですよ! 本当の本当にですよ! ……ですが、こうなっては仕方ありません」
シエルはすうと息を吸い込んで、告げる。
「――Give holy judgment to sinners(罪人に聖なる裁きを)」
シエルが唱え終えると、ウルフの首輪が白色に光った。
「これは――」
あのとき壁で見た光と似ているとウルフが気づいたときにはもう遅く、
「ガァァアアアアア」
首輪が放つ白い閃光が、彼の意識を奪い去った。
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