EP.01「俺の自転車ががひゅーっと光り」 その1

   01


 火曜日の夜──

 俺は、緑色の顔料で塗りたくられた道を、がひゅーっと走っていた。

 自転車だ。

 会社からの帰宅途中だ。

 こうして、駅ひとつ分を真っすぐ走っていると、俺よりもあとに発車したはずの電車に、頭の上で追い抜かれる。鉄箱の車輪が轟音で高架線を駆けて行き、俺の進行方向に俺よりも先に着くのだ。ああ、間違いなくあれに乗る方が現代人として正しいのだろう。

 だけれど、俺、電車が嫌いなんだもの。

 混むし、待つし、忙しない。

 あれが嫌だから、大学も仕事も立地で決めた。東京方面の電車に乗りたくないという理由だけで、普通とかけ離れた生き方を選んできた。人生において、偏差値や給料など二の次だった。

 俺は思う──大切なのは、それが続くかどうかだろう。

 身の丈に合った選択をすることこそが、安らかな人生のはずだ。

 他人と比べて生きる人生なんて、疲れるだけだ。なんになる。

 分不相応な名声や結果を求めれば、例外なく精神面を違えてしまい、悲惨な末路を遂げるのは、歴史を見ても、現代を見ても、わかること。人には生まれ持った「見合った幸せ」というものがある。

 俺はそう思う。

 収まるところに収まるべきなのだ。そう信じて、俺は生きてきた。

 だけれど、不相応な機会というのは、向こうからやってくるもので、そしたら、否応がなしに、運命に翻弄されるらしい。

 この日がそうだった。

 不意に風を切る音が消えた──

 俺が自転車で走り抜けていたのは暗い夜道だった。街灯が道を照らすだけの、平坦で活気のない自転車道。高架沿いなので星の明かりだって届かないような場所。

 なのに、視界が光に包まれて、気づけば、何もない真っ白な空間を走っていた。

 無だ。無と表現するしかない世界だ。

 光の無重力空間──

 方向も、重さも、何もない。

 俺の自転車も、進んでいるのか、止まっているのか、わからない。倒れずに俺を背負っている。ジャイロ効果を失った自転車は、普通、倒れてしまうはずなのに、自転車はそのまま……俺の理性が、ともかく、普通の事態じゃないってことを認めていた。

 誰かが語りかけてくる。

 ──ヒトよ……ヒトの子よ……

 ──わたしの声が聞こえますか……

 優しい女性の声。

 耳から聞こえるだけじゃない、全身に浸透するような温かみ、仕事で疲れた俺の心が、その声で癒やされるような慈愛を感じる。

 ──ヒトの子よ……聞こえるであれば……

 ──……どうか……

 ──どうか……答えてください……

 あなたはいったい?

 声は出なかった。俺が言葉ではなく、心で答えていた。

 すると、光の中に輪郭が現れる。

 徐々に姿が見えてくる声の主。

 光の体を持つこの世ならざる存在。

 それが、完璧な美貌を持つ彼女だった。


 玄関扉を開け、中に入る。

 他人を入れることなど考えていない、1Kロフトつきのアパート。自宅だ。

 そんなところに女性を連れ込むのは、なんだか、申し訳ない気分だった。

 一人暮らしの男の部屋なんて、自分の生活習慣をそのままジオラマにしたようなものだ。こんなことならば、もう少し、他人を意識した物の配置にしておけばよかったと、後悔するくらい、生活感が在り在りと現れている。

 別に物が散らかっているわけじゃないけれど、押し入れなんて閉める必要がないから開けっ放しだ……

 だけど、彼女はその程度なんでもないと、微笑む。

「助かりました。あなたが認識してくれなければ、わたしはもう少しで消えていたでしょう……」

 椅子などない狭い部屋、彼女は出窓の段差にふわりと腰掛けた。座ったというか、そのポーズで浮いている。彼女は肉体を持たない半透明の存在だ。

 その服装は一枚の薄いドレス。

 肩を露出させている。

 背中も生肌が露わ。

 腰元の両脇にだって布がない。

 スカート部分は、もはやスリットが本体のよう。踊り子の腰布を思わせる形状だ。

 靴など履いていない。

 生脚が丸出し。

 そんな彼女は、背中に純白の羽を生やしている。

 後頭部には後光のごとき光の輪。

「女神様なのですか……?」

 間抜けな台詞かもしれないが、俺はそう問うた。

「ええ、女神です。と言ってもこの世界の神ではありませんが」

「──」

「あなた、名前はなんと?」

「……アマクニ・テンゴクです」

天国アマクニ天国テンゴク……? まぁ、なんと敬虔な信仰心を感じる名前なのでしょう。それはきっと信心深き素晴らしい両親を持ったのですね。わたしのことを感じられたはずです」

 いやいや、流石にそんな漢字表記ではない……

 天国天国なんて名前の人間がいるわけない。

 初っ端から、なんか変な勘違いをされてしまった……

「アマクニ。ようやく、この世界のヒトと会話することができました──」

 勘違いされたまま、話が続く。

「こちらの時間で二週間といったところでしょうか。どうやら波長の合うあなただけのようです。元は世界を創生した我が力も、今はあまりにも弱まっています……やはり、世界が違えば聖なる力も癒えづらいようです……」

 世界が違う──

 こちらの時間──

「察するに、女神様は異世界からやってきたということでしょうか?」

 聞いてみると、彼女は深い息をした。

「ああ、異世界っ……ええ、その表現がとても正しいです。そのとおりです。わたしは異世界から時空を渡って、この世界にやってまいりました」

「どうして、また」

「話せば長くなりますが……いえ、結果的に起きたこと自体は単純でしょう。大きな戦争です。魔性の悪しき獣と、邪悪な人間が手を組み、創生の神たるわたしに反乱を起こしたのです……我が天使たちの住まう天界に侵攻してきたのです……」

「あらら……」

「天軍はその忠義をもって戦いましたが、あまり多勢に無勢……美しかった我が国々は、あっという間に、領地を奪われてしまいました……」

 彼女は目を閉じ、うつむく。

 その表情だけで、どれだけ悲惨な戦いが起こったのか、想像できる。

「……多くの命が失われました……あまりにも多くが……天使、聖獣……そして、わたしの愛したヒトの子ら……ええ、彼らの命だって、わたしが愛した尊い生命っ……だと言うのに、互いに武器を手にし、殺し合い……ああ、なんと酷いことをっ……」

 ほろり。

 女神様は一雫の涙を垂らす。

 不謹慎ながらも美しい涙だった。飲み込んでしまいたいほど。

「……天界を追われた我々は、身を隠すしかありませんでした……しかし、このままでは終われません……永遠に身を隠すことはできない。いつの日か、地上に降りた天使たちは、一人、また一人と、悪しき者にその命を奪われてしまうでしょう……わたしは決意しました。この身を懸けてでも、天使たちの故郷だけは取り戻そうと──」

「……でも……」

 結果は見てのとおりだ。

 女神様はたった一人で、天界に進行してきた反乱軍と戦い、そして……負けてしまった。

 人と魔物の連合軍に敗れてしまったのだ。

「まだ消えるわけにはいかない……天使たちを地上に残したまま世界を去ることはできない……そう考えたわたしは、最後の手段を使いました。他の世界に渡る扉を開き、このように異世界に身を隠すことです。しかし、他の世界に渡るということは、一つの宇宙を創り出すのと同じだけの力を使います。戦いで傷ついた我が肉体は、それに耐えることができませんでした」

 ああ、だからか。

 だから、女神様は半透明なのか。

 女神様はそこにいるのだが、実体がない。触れることができない。

 幽霊みたいな状態だ。

「愛しき天使たちは、邪悪なるものたちが蔓延はびこる下界で、今なお恐怖に震えているでしょう……きっと、わたしの帰りを待っているはずです。平和な世界と天界を取り戻すために、わたしは一刻も早く力を取り戻し、元の世界に帰らねばなりませんっ……」

 切ない運命、しかし、それにも負けない力強い意思。

 ああ、なんという方だろう。己のすべてを捧げてしまいたくなるほど彼女は尊い。その身も心も美しい。

「そこで、アマクニ、あなたにお願いがあります」

「……はい?」 お、俺に?

「力のほとんどを使い果たしたわたしは、見てのとおり、消えかけている状態です……アマクニ、波長の合うあなたにしか感じられないほど、か弱い存在です……どうか力を貸して下さいませんか」

「力を貸すって──」

「なんてことはありません、わたしのことを強く想ってほしいのです……」

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