第2話 「名前のない処方」
星見児童精神医療センターの夜は静かだ。
入院施設はなく、通院患者の足が遠のく夕方以降は、職員の数もまばらになる。
葉山光璃は、その静寂の中で、ひとつのカルテを見つめていた。
村瀬あすか――五年前、帝都大学医学部附属病院 精神科外来にて診療。主訴:気分の波、倦怠感、不安感。
診療記録には、簡単な問診と共に、光璃の名前が担当医として記されていた。
あすかには軽度の気分障害と不安障害の兆候が見られ、当時、ある抗不安薬を処方していた。
薬の名前を見た瞬間、光璃の胸に小さな痛みが走った。
クロチルピン――非定型抗精神病薬の一つ。軽度の不安、不眠にも効果があるとされていた。
(当時は比較的新しい薬で、厚労省の承認も降りたばかりだった。でも……その後、一部で副作用報告が相次いだはず)
特に感情のフラット化や“自己喪失感”と呼ばれるような副反応が報告され、処方を見直す医師も増えていた。
しかし五年前、光璃も含め多くの現場医師たちはその薬の“本当の顔”をまだ知らなかった。
私の処方が、誰かを壊した。
その手紙の言葉が、再び胸に突き刺さる。
光璃は、机の引き出しからそっとその手紙を取り出し、裏側を改めて見た。
すると、封筒の内側に、わずかに滲んだ“インクのにじみ”があった。
指先で触れると、手紙に使われたペンの成分が、紙の層を貫通していたのだ。
(感情を抑えた文面。でも、書かれたときの筆圧は……強い)
光璃はそっと目を閉じた。
――これは、訴えだった。静かな、しかし確かな声による。
◇ ◇ ◇
翌日。光璃は再び、村瀬ちひろと対面した。
前回と同じく、ちひろは何も語らず、ただ診察室の窓の外を見つめていた。
「今日は、ちょっとだけ、質問してもいい?」
光璃はやさしく声をかける。ちひろは小さく、ほんのわずかに頷いたように見えた。
「おうちでは、お母さんとお話、する?」
沈黙。
けれど、その沈黙は拒絶ではない。言葉を探している“間”のような静けさだった。
光璃は、ひとつのノートと色鉛筆を差し出した。
「もし、言葉にしづらかったら、絵に描いてみてもいいよ。なんでも。おうちのことでも、学校のことでも」
ちひろは、しばらくそのノートを見つめたあと、ゆっくりと色鉛筆を取った。
描き始めたのは、病院のベッドに横たわる女性の姿だった。
その横に、小さな少女が立っている。口には“×印”が描かれていた。
光璃は、はっとした。
(ちひろの“沈黙”は、母親の記憶と繋がっている?)
絵の女性の表情は、眠っているのか、あるいは――。
光璃は、声をかけるべきか迷った末、そっと訊ねた。
「これは……ちひろちゃんのお母さん?」
ちひろは、小さく首を横に振った。
だが、次の瞬間、別の絵を描き始めた。
今度は――窓の外に、空を見上げる少女と、遠くへ歩いていく女性の後ろ姿。
「……さよならを、言えなかったんだね」
ちひろは、ペンを止めた。
瞳に、うっすらと涙の膜が張っている。
光璃は、絵に描かれた“風景”を見つめながら、かつての患者・あすかの記録を再び思い出していた。
――診断、軽度不安障害。
――処方、クロチルピン。
――その後、通院中断。
そして、以降の記録は、何も残っていなかった。
(私は、彼女の“沈黙”を見逃していたのかもしれない)
◇ ◇ ◇
診察が終わった後、光璃は医療センターの職員室で一つの決意を固めていた。
村瀬あすかの“その後”を、探す。
医師としての責任。
子どもを守るために、過去と向き合う覚悟。
あの沈黙の手紙は、きっと――“今の自分”に向けられたものではない。
あの日の、逃げた自分に向けて書かれた声なき叫びなのだ。
光璃は、カルテの最下部に記された連絡先を頼りに、東京の古い住所を手帳に書き写した。
春の風が、センターの庭の花を揺らしていた。
その中に、一輪だけ咲く“青い花”が、光璃の胸のペンダントと同じ色をしていた。
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