【毎日17時投稿】葉山光璃の処方カルテ ―沈黙の手紙―
湊 マチ
第1話 「忘れられた声」
あなたの処方が、私を壊した。
――その言葉を、葉山光璃は何度も読み返していた。
春の柔らかな陽射しが、診察室の窓から差し込んでいる。
ここは、静岡県の山間部にある「星見児童精神医療センター」。
都会の喧騒から離れたこの施設で、光璃は精神科医として働いている。
彼女は、かつて東都大学医学部附属病院に勤務していた。
あの大病院で、命と向き合う日々を送っていたあの頃。
しかしある出来事を境に、彼女は都会を離れ、子どもたちと向き合うこの場所を選んだ。
その日、届いたのは一通の差出人不明の手紙だった。
淡いクリーム色の封筒。宛名にはただ、「葉山光璃様」とだけ書かれていた。
消印は東京。そこには、わずか数行の文字があった。
あなたの処方が、私を壊した。
私の声は、まだあなたに届いていない。
光璃は、喉の奥がひりつくのを感じた。
手紙の文面に、感情はほとんど綴られていない。
だが、その“静けさ”こそが、怒りや悲しみよりも重く胸にのしかかってくる。
(私が処方した薬で――誰かが、壊れてしまった?)
心当たりはない。いや、思い出せないだけかもしれない。
精神科医として、多くの子どもや親、あるいは教員や保護者と向き合ってきた。
その一人が、今になって声を上げたのかもしれない。
そのとき、診察室のドアがノックされた。
「どうぞ」と声をかけると、看護師の佐野が顔を出した。
「葉山先生、次の患者さん、準備できました」
「ありがとう。……今日はどんな子?」
「小学四年生の女の子です。ほとんど話さないらしくて。学校でも家庭でも無言。診断はまだついていません」
「……そう」
光璃は深く息を吸い、手紙をそっと机の引き出しにしまった。
◇ ◇ ◇
診察室の椅子に、小さな女の子が座っていた。
黒い髪を真っ直ぐに垂らし、目は伏せられ、表情はほとんど読めない。
名前は村瀬ちひろ。
学校ではずっと“無言”で、家庭でも母親以外とは会話をしないという。
「こんにちは。私は光璃っていいます。ここでは、無理に話さなくても大丈夫よ」
光璃は、そう言って微笑んだ。
ちひろは、微かに視線を上げたが、言葉は返さない。
だが、彼女の視線が、一瞬だけ光璃の胸元に止まった。
そこには、いつも光璃がつけている小さなペンダントがあった。
淡い青の石が光に揺れている。
(気になった? ……それとも、何か思い出したの?)
光璃は、ちひろの表情にじっと目を凝らす。
その小さな揺れを、見逃さないように。
◇ ◇ ◇
夕方、診察が終わった後も、光璃の頭にはあの手紙がこびりついていた。
診療記録を見返し、かつて担当した症例を洗い直す。
だが、該当するような“重大な副作用”や“重篤な経過”は見つからない。
ただ――ある記録に、ふと目が止まった。
「村瀬あすか」――それは、ちひろの母親の名前だった。
数年前、帝都大学医学部附属病院で、一度だけ外来診察を受けた記録がある。
(あの病院で、私が診た……?)
光璃の胸がざわめいた。
沈黙の手紙。
話さない少女。
そして、かすかに繋がる“記憶の断片”。
――忘れられた声が、今、静かに響こうとしていた。
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