第12話 宴の夜の不協和音

 静まり返った戦場。白夜の牙の巨躯は、俺が突き立てた槍を胸に受けたまま、雪原に横たわっていた。その体から立ち昇っていた禍々しい赤黒いオーラは消え失せ、額の三日月の傷も今はただの古い傷跡に戻っている。かつて村を恐怖に陥れた威容は失せ、今はただ巨大な獣の亡骸があるだけだ。

 周囲からは、安堵と、そしてどこか畏怖の念が入り混じった村人たちの声が聞こえ始めていた。俺はまだ、ガロの肉体を掌握した時の激しい興奮と、その代償への恐怖から抜け出せずにいた。ガロの気配が、彼の魂の温もりが、この体の中から完全に消え失せてしまったかのように感じられるのだ。


「ガロ! すごいぞ、お前! あの白夜の牙を……それも、たった一人で!」

 最初に駆け寄ってきたのはバルカだった。彼の顔には、信じられないものを見たという驚愕と、純粋な賞賛の色が浮かんでいる。

「無事でよかった……。遠くにいても、ガロのこと、ずっと心配してたんだから!」

 小さな体で必死に負傷者の手当てを手伝っていた氷精族のシエラも、目に涙を浮かべながら飛んできて、俺の肩にとまった。

「ガロさん……! 父を……私たち人間のことを……ありがとうございます!」

 リリアーナも安堵の表情でこちらを見つめ、感謝の言葉を口にした。


 彼らの表情は俺に向けられたものではない。この体の本当の持ち主、ガロに対してのものだ。彼らの言葉の全てが、今の俺にはひどく遠くに聞こえた。

 必死に平静を装い、ガロならこう言うだろう、という言葉を探す。

「あ、ああ……。みんなが無事で、よかった」

 はたして俺は、うまく笑えているのだろうか。


 深手を負いながらも、トーマンが他の戦士に肩を借りて近づいてきた。

「……見事だったぞ、ガロ。まさか、お前があれほどの力を秘めていたとはな……。親父殿も、草葉の陰で喜んでおろう」

 彼の傷だらけの顔スカーフェイスにも、偽らざる労いの色が浮かんでいる。

 倒れていたルーカスも、部下に支えられて起き上がり、俺に向かって頷いた。

「……ガロ殿、村を救ってくれたこと、感謝する。そして、すまなかった。私の力が及ばず……」

「いえ、ルーカスさんも、トーマンさんも、皆さんも……お疲れ様でした」

 俺は、引きつりそうな顔の筋肉をなんとか動かし、当たり障りのない返事を返すことしかできなかった。


 その時、人垣が割れ、族長アンフィベウスが、長老たちを伴って静かに現れた。彼の表情は硬く、俺と、ルーカスたち人間を交互に見ている。村の空気は再び緊張に包まれた。俺が使った異質な力、それがどう判断されるのか……。

 アンフィベウスはまず、俺の前に立ち、その瞳でじっと俺を見つめた。

「ガロ……。言葉もない。ただ……感謝する。お前の勇気がなければ、今頃コータイは……いや、全ては言うまい。本当によくやってくれた。皆を代表して、礼を言う」

 その言葉は、俺の予想に反して穏やかだった。そして、彼はゆっくりとルーカスの方へ向き直った。表情は、再び険しいものへと変わる。ルーカスも、リリアーナも、緊張した面持ちでアンフィベウスを見つめている。俺も固唾を飲んで見守った。


 だが、アンフィベウスの次の行動は、俺の予想を裏切るものだった。ルーカスたちの前で、ゆっくりと、しかし深く、その老いた体を折り曲げ――土下座をしたのだ。


 広場に驚きの声が満ちる。族長が、異邦人に頭を下げている、と……!


「ルーカス殿……いや、ワレンシュタイン辺境伯殿、そしてご息女リリアーナ殿……」

 アンフィベウスは地面に額をつけたまま、くぐもった声で言った。

「貴殿らを疑い、不当にも閉じ込めてしまったこと、深くお詫び申し上げる。……正直に言えば、今もなお、貴殿らがこの地に現れたことが、あの魔獣を呼び寄せた遠因やもしれぬという疑念は、わしの中から消えてはおらぬ。しかし……」

 彼は顔を上げた。その目には、深い悔恨と、複雑な感情が帯びて見えた。

「しかし、その上でなお、貴殿らの勇気ある戦いがなければ、我らは今頃、村はおろか、命すら失っていたやもしれぬ。その事実は、何よりも重い。重ねて感謝する。異邦の客人たちよ。この度の恩義、我らコータイの民は決して忘れぬ。明日は……魔獣撃退と、そして客人たちへの感謝と歓迎の意を込めて、宴を開きたい。皆、異存はないな!」

 最後の言葉は、村人たちへ向けられたものだった。一瞬の沈黙の後、驚きと戸惑いの中から、やがて安堵と賛同の声が上がり始めた。


 アンフィベウスは立ち上がり、ルーカスに向かって、その大きな手を差し出した。ルーカスは、まだ信じられないという表情だったが、その手を力強く握り返した。二人の指導者の間に、固い握手が交わされた。それは、この閉ざされた村の歴史が、新たな一歩を踏み出した瞬間だった。


 ◇


 翌日、村は昨夜の惨劇が嘘のような、活気と安堵に包まれていた。中央広場には大きな焚き火が用意され、それぞれのイグルーの窓からも、温かなオレンジ色の灯りが溢れている。空にはまだ赤い月が浮かんでいるが、その光も今夜はどこか祝祭の色を帯びているように見えた。

 広場には、海獣たちが持ち寄った様々な食料が並べられていた。焼きたてのラチャート――俺が教えた調理法を海獣の少年ハーコートが広めていたようだ――、新鮮な獣肉の燻製、木の実や苔を練った団子、そして発酵させた海藻から作る独特な飲み物……。この異世界の伝統的な暮らしを象徴するような、素朴だが豊かな食卓だ。

 アンフィベウスが高らかに宴の始まりを宣言すると、海獣たちの間に歓声が上がった。皆、強大な魔獣を退けた安堵と興奮、そして未知の客人への好奇心で浮かれているようだ。俺も英雄として多くの者から声をかけられ、酒を勧められる。俺は、作り笑顔でそれに応じていた。


 ガロは、あの後、いくら呼びかけても何の反応もない。俺の憑依制御ドミニオンは、やはり彼の魂に深刻なダメージを与えてしまったのか? それとも、どこか深い場所で眠っているだけなのか? 俺は本当に、彼を消してしまったのか? ……その考えが頭をよぎるたびに、背筋が凍るような感覚に襲われる。


 そんな俺の不安をよそに、宴は陽気に進んでいく。ふと、広場の一角に人だかりができているのに気づいた。見ると、人間たちの一人――端正な顔立ちをした神父だという美青年が、リュートにも似た、しかしもっと複雑な形状をした弦楽器を手にしている。彼は静かに微笑むと、その弦を爪弾き始めた。

 流れ出したのは、今まで聞いたこともないような、美しく、物悲しく、そしてどこか心を掻き立てるような異世界の旋律だった。哀愁を帯びたメロディが、激しいリズムへと変化し、また静かな調べに戻っていく。海獣たちは皆、その音色に魅了され、静まり返って聞き入っていた。「素晴らしい……」「こんな音楽は初めてだ……」という賞賛の声が、演奏の合間に囁かれる。

 俺も、その技術と表現力には感嘆した。だが、その旋律の中に、ほんの僅かだが、聞き覚えのあるフレーズが混じっていることに気づいた。それは……現代日本の、どこかで流行っていたヒット曲のサビによく似たメロディだった。


 まさか……。俺の心に、とある疑念が生じる。


 演奏が終わり、大きな拍手が起こる中、俺は隣に座っていたリリアーナに小声で尋ねた。

「リリアーナさん、あの神父様は……いつもあのような曲を?」

「ええ。モーリッツ神父様ですわ。彼は素晴らしい音楽家でもあって、私たちも聞いたことのないような、独創的で美しい曲をたくさん作ってくださるんです。皆、彼の音楽にいつも慰められていますの」

 彼女は少し頬を染めて答えた。


 独創的……か。だが、あの旋律は……。


 俺は、人々の賞賛に応えて穏やかに微笑んでいるモーリッツ神父を、改めて観察した。年の頃は二十代半ばだろうか。清潔感のある服装に、柔和な笑顔。だが、その瞳の奥には、どこか捉えどころのない光が宿っている気がする。


 まさか……彼も、俺と同じ……日本からの転生者……?


 そう思った瞬間、ふいにモーリッツ神父と目が合った。彼は俺に向かって、にこりと微笑んだ。それは他の者に向けるのと同じ、穏やかな笑みに見えた。だが、俺にはどうしても、その笑みの裏に、何か別の意味が隠されているように感じられてならなかった。


 この神父は、敵か、味方か? そして、彼は一体何を知っているのか? 宴の喧騒とは裏腹に、俺の心には、確かな不協和音が鳴り響いていた。

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