第8話 「わたし結婚するの、この秋に」
青いクーペを健一の泊まる超高層ホテルの地下駐車場に入れた後、麗奈が健一を案内したのは、徳島駅から歩いて十分程の、隠れ家のようにひっそりと店を構えるたった十六席の小さなフレンチレストランだった。
やや重い扉を押して店内に入った二人は、都会の暑気と喧騒から離れ、ゆっくりと流れる時間の中で、独創性溢れる艶やかなコース料理とゴージャスなワインを味わうことになった。
前菜に出された有機人参のムースは滑らかな口当たりで程よく柔らかく、人参と雲丹の色合いも綺麗な見た目にも楽しめる一皿だった。又、鮮度の良い鴨を炭火で焼いた青首鴨のローストは自然の中で伸び伸びと育った野生の青首鴨を炭火で炙り、濃厚な内蔵のソースを絡めた深い味わいが魅力だった。
「ブルゴーニュ産のワインとの相性がぴったりの一品ね」
更に、平目のローストは、豊かな瀬戸内の海が育んだ新鮮な海の幸を、地元野菜と共に贅沢に愉しめる珠玉の逸品だった。
「地元愛の溢れるエッセンスが凝縮した一皿だなぁ」
健一が感嘆の声を挙げ、二人は居心地の良い快適な空間で食事もワインもじっくり堪能して、至福のひと時を過ごした。
それから麗奈が健一を連れて行ったのは秋田町に在るグランドクラブだった。
女性シンガーのショーが終わってライトが少し落とされ、ムーディーなブルースの曲が奏でられ始めた。麗奈は青く仄暗いフロアに健一を誘い、二人は抱き合って踊り始めた。
「あなたの眼って、素敵ね、涼し気で・・・好きだったなあ、その眼」
「君も以前よりずう~っとチャーミングだよ」
麗奈は健一にピタリと身体を寄せて彼の胸に顔を埋めた。健一も麗奈を抱く腕に力を込めた。
「どなたの好みなのかしら、このシャツの色・・・」
「妬くなんて君らしくないね」
「さそり座の女は嫉妬深くてやきもち焼きなのよ」
演奏は間断なく続いていた。
サックスの音色と淡い灯に酔ったのか、麗奈は瞳を潤ませ、睫毛が濡れていた。
「ねえ、私を好きだと言って」
「もう夜も遅いよ、そろそろ帰ろうか?」
「そんなの嫌よ・・・ラストまで踊っていたいの」
グランドクラブを出た麗奈は健一とタクシーに同乗して、駅ビルに在る超高層ホテルへ彼を送って行った。
フレンチレストランもグランドクラブも勘定は健一が支払った。
「ガイド料にしては高くついたわね、殆どアッシー君だったのに」
「いや、面白かったし、楽しかったよ」
「ご馳走さま、すっかり酔っちゃったわ」
ホテルの玄関前で車を停め、降りた健一が誘った。
「どうする?十五階の角部屋だけど、ちょっと寄って行く?」
麗奈はそれには答えず、手を振りながら言った。
「明日の朝、見送りに来てあげるわ。もうこれが最後だから」
「そうか・・・ありがとう。気を付けて帰れよ」
「ええ、大丈夫よ。じゃ・・・」
其のままタクシーに乗って帰って行った。
これで一件落着・・・。時刻は既に十二時を回っていた。
健一は浴室で汗を流してベッドに滑り込み、灯りを消して眼を閉じた。
うとうととした頃、コン、コン、とドアが鳴った。健一は夢の中かと思った、が、確かに音が鳴っている。
「何方?」
「わたし」
麗奈の声が細く小さく聞こえた。健一は直ぐに撥ね起きてドアを開けた。廊下の薄明りを背に麗奈が立っていた。その眼が輝いていた。
「来ちゃった、決心をして」
首を竦めて入って来た。
「もう会えないかも知れないし」
「それはどうかな」
「逢えないわ、きっと」
麗奈は健一の首に両腕を回して唇を合わせて来た。それは熱い狂おしい深い接吻だった。健一はしっかりと麗奈を抱きしめた。
唇を離した麗奈は燃えるような瞳で覗き込むように健一の眼をじっと見つめながら、彼の帯を解き、浴衣を脱がせた。健一も麗奈の眼を凝視して彼女の衣服を一枚一枚ゆっくりと剥がしタイトスカートのジッパーを引き下ろした。
生まれたままの姿になった二人は唇を合わせ、抱き合って縺れながらベッドに倒れ込んだ。
健一の懐かしい優しい愛撫に、やがて、麗奈は心を解いて肉体を開き、あ~あぁ、と喘ぎ始めた。健一の動きが強く激しくなるに連れて麗奈は昇り始め、仰け反ったり沈んだりを繰り返しながら、幾度となく昇りつめて、やがて二人は頂点に達して、一緒に果てた。
身体を離した健一の傍で、麗奈は暫く放心したように定まらぬ視線を宙に泳がせていたが、やがて、健一の胸に顔を埋めて、言った。
「ああ、良かったぁ・・・わたし、蕩けちゃったわ・・・」
健一は麗奈の滑らかな肩を抱き寄せて括れた背中を優しく撫でた。
「ねえ、昼間、車の中で私に訊いたこと、憶えている?」
「君に訊いたこと?さて、何だったかな」
「私と結婚していたらどうなっただろう、って」
「ああ、訊いた、訊いた」
「あの話はもう在り得ないことになったの」
「と言うと?」
「わたし結婚するの、この秋に」
「えっ、何だって?結婚する?」
「奨めてくれる人が有ってお見合いをしたの、お正月に。そして、五月に婚約して十一月の私の誕生日に式を挙げることになっているの。だから、あの話はもう在り得ないの」
「そうだったのか・・・それはおめでとう」
とは口では言ってみたものの、健一の心の中には一条の虚ろで淋しいものが湧き上がって来た。が、その思いを押し殺すように彼は言った。
「君は以前、私は独占欲が強くて嫉妬深いの、って言っていたけど、その分、一途で愛情深いんだと思うよ。相手の男は幸せだね」
「いや、目移りも出来ない、浮気も出来ない、重い、って感じるかも知れないわ」
話している間に、潮が退くように余燼が肉体から退いて行った麗奈は浴室へ消えて行った。そして、出て来た彼女は衣服を着け始めた。
「帰るのか?」
「ええ。帰ります」
「泊って行っても良いんだぞ」
「未練が残ったり、後を引いたりしたら困るから」
「そうか・・・」
「さようなら。明日、見送りに来ます」
「九時に」
「ええ、解ったわ」
健一が浴衣を羽織って帯を結んでいる間に麗奈はドアに向かった。健一は後を追ってドアの前で追いつき、再び唇を重ねた。
「じゃあね」
麗奈の決心は固かった。ドアが開き、ドアが閉じた。健一は未練がましくドアを開いて彼女の後姿を見送った。麗奈は一度も振り返らずに、直ぐにその姿はエレベータの方へ曲がって消えた。
健一はゆるゆるとベッドへ戻って寝転がった。
麗奈の俺への愛は思いのほか深かったのかも知れない、きっとそうだったのだ・・・
健一は眼を閉じて、麗奈の幸せを祈ってやろう、そう思いつつ眠りに落ちた。
翌朝九時、約束の時間に麗奈はホテルのロビーに現れた。
「おはようございます」
くふん、と一度照れ臭そうに笑ったが、もう昨夜の気配は微塵も示さない。隙は見せなった。
徳島駅の改札口の前で「じゃ、此処で」と立ち止まった。
「うん、有難う、楽しかった・・・さようなら」
「お元気で」
健一は改札を入って一度振り向いた。麗奈は手を振ってぺコンと頭を下げた。
列車は九時二十三分、定刻通りに徳島駅を発車した。健一は特急うずしおと快速マリンライナー、新幹線のぞみを乗り継いで京都へ帰った。
帰宅して直ぐにお礼のメールを送ったが、麗奈からの返信は無かった。
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