第2話:知らないはずの誰か

 ミルクの注ぎ方がうまくいかなくて、凛はカフェのカウンターでそっと舌打ちした。

 今朝から、なぜか小さなミスが多い。手順を忘れたわけじゃないのに、感覚がずれているような、不安定さがつきまとっていた。


 「凛さん、今日ちょっとぼーっとしてない?」


 同僚の陽菜が声をかけてくる。


「あ、ごめん。寝不足かな」


 そう答えたものの、凛自身にも理由はわからなかった。

 ただひとつ、胸の奥にぽっかりと空いた“何か”の感覚だけが、ずっと抜けないままだった。


 お昼過ぎ、初めて見る顔の客が来店した。

 少し癖のある黒髪、眼鏡の奥の真剣そうな目。白いスケッチブックを小脇に抱えている。


「アイスコーヒー、お願いします」


 声を聞いた瞬間、凛はなぜか指先が強張った。

 注文を繰り返しながら、記憶の中を探る。初対面のはず。けれど、何かが引っかかっている。


「こちらでお飲みになりますか?」


「あ、はい。奥の窓際、空いてますか?」


 自然なやり取りの中に、どうしようもなく“懐かしさ”が混ざる。

 声のトーン、言葉の間合い、笑うときの口元。

 全てが、「誰か」を思い出させるのに、思い出せない。


 ふと、客がカバンから落とした鉛筆が床を転がる。

 凛が素早く拾い、手渡そうとしたその瞬間——


 目が合った。


 凛の胸が、急にぎゅっと締め付けられた。

 鼓動が速くなる。息が詰まるような感覚。

 その目を、知っている。絶対に。


「……ありがとう」


 男は何も気づいていない様子で礼を言い、微笑んだ。


 それだけで、胸がいっぱいになりそうになる。


 休憩時間、凛は裏の控室でひとりコーヒーを飲んでいた。

 ミルクを入れる手がふと止まる。


 ——誰かと、このコーヒーを飲んだ気がする。


 テーブル越し、ミルクの模様、静かな夜。

 記憶にはないのに、感情だけがそのシーンを押し寄せてくる。


 「……わたし、誰かを忘れてる?」


 その言葉に、自分自身がびくりと反応する。

 確かに、最近の生活に穴はなかった。予定も、仕事も、友人関係も順調にまわっている。

 でも、感情のどこかが空っぽだった。ずっと、“なにか”が欠けていた。


 閉店間際、例の青年——奏は再びカフェにやってきた。

 彼もまた、凛のことを知らない顔で見ている。


 なのに、注文を終えたあと、ぽつりとこう言った。


「……このお店、なんだか落ち着く気がするんです。初めて来たはずなのに」


 凛はその言葉に、思わず息を呑んだ。

 それはまさに、彼女自身が感じていた“違和感”と同じだった。


 名前も、記憶も、顔さえ思い出せない。

 けれど——


 この人を、私は知ってる。


 直感のようなものが、心の奥で静かに灯った。

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