第2話 ママ友集団

 季節が少し暖かくなってきたと感じていたが、まだまだ寒い日が多い昨今、

「三寒四温」

 などと言われ、一週間の間に、

「暑さ寒さが、交互にやってくる」

 ということで、

「アレルギー鼻炎」

 と並び、風邪の季節ということで、せっかく過ごしやすいはずの気候なのに、実際には、一番体調を崩しかねない季節といってもいいかも知れない。

 季節は、梅の季節から、桜の季節。つまりは、

「卒業の季節から、入学。進学の季節」

 ということで、気温と同じで、目まぐるしい季節になってきたといってもいいかも知れない。

 そもそも、冬の時期というのは、クリスマス、年末とあわただしい季節を過ぎると、正月から、閑散期に入り、

「時間が経つのがあっという間」

 ということになるだろう。

 何といっても、

「一月を、いく。二月を逃げる。三月を去る」

 などといって、

「閑散としているにも関わらず、時間だけはあっという間に過ぎる」

 ということになるのだ。

 閑散としている時期を、あっという間に過ぎるというのは、悪いことではないのだろうが、本来であれば、

「その間に考えなければいけないことがちゃんとあって、それを見失うと、まったくその時期を無駄に過ごしてしまう」

 ということになってしまうことであろう。

 年末の繁忙期に、

「いちいち考えていては、追い付かない」

 ということで、その、

「何かを考える」

 という時期を、

「年が明けた閑散期」

 というものに、わざと見送ったのだというと、

「その時間をどのように過ごせばいいのか?」

 ということが、考えなければいけないことなのに、

「繁忙期の後の、ゆっくりとできる時期」

 ということで、考えてしまうと、

「せっかくの考える時期」

 というものを見失ってしまうということになるであろう。

 それを考えると、

「松の内が明けるくらいまではしょうがないが、それ以降は、気合を入れないといけない時期」

 ということになるだろう。

 しかし、受験生というと、そうはいかない。

 実際に、年を明けると、すでに、受験期間に入ってくるというわけだ。

 しかも、この時期というのは、いろいろな問題があったりする。

「豪雪などで、交通機関がマヒする」

 などということで、

「試験に遅刻する」

 ということであったり、

「間に合わなかった人は、後日試験」

 ということで、その日に向けて体調を整えていたものが、すべて、水の泡だということになってしまうのだ。

 この時期を受験生として過ごすのは、まだ若い頃で、子供が大人になりかかる。

「思春期」

 という時代に、受験というものを経験することになる。

 思春期というものは、精神的にも肉体的にも、大いに変化をもたらすというもので、

「受験の時期に感じたものが、自分の中でトラウマ」

 となり、人によっては、

「この時期が、受験戦争の苦しみのトラウマとなってしまう」

 ということで、

「社会に出ても、この時期になると、受験の時の苦しみが忘れられず、睡眠不足になってしまう」

 という人も多いだろう。

 しかも、

「花粉症の時期」

 というものと重なって。鼻が詰まったりすることで、頭痛であったり、熱っぽさから、意識が朦朧としてくることであろう。

 それを考えると、

「受験の時期に花粉症にならなかった」

 という人が、就職すると花粉症になったということもあり、それが、

「社会に出ての油断に繋がったのではないか?」

 と思えたのだ。

 しかし、油断というのは、語弊があるだろう。

 大学受験というのは、それなりに厳しいものだというのは当たり前のことであるが、社会に出てからの競争は、

「答えがあり、成績がハッキリと結果」

 となって現れて、自分で、あとから、

「検証できるものだ」

 ということになるといえるのだろうか。

 それを考えると、

 一人の女性が、その時、

「いつもと違う道を通って帰宅した」

 というのも、

「頭がボーっとしていたからだ」

 といってもいいのだろうか?

 彼女は、会社を出てから、いつものように、保育所で、娘を引き取ってから、帰宅の途についていたのだ。

 保育園は、駅近くにあり、その駅から電車に乗って会社に通う彼女としては、まず、

「家と保育園の間が、一つの難関だ」

 と思っていた。

 バスに乗っていくわけで、

「車の運転ができない彼女であり、しかも、会社の近くには、これと言った駐車場はない」

 ということで、

「結果として、バスの混雑も致し方がない」

 ということであった。

 彼女は、離婚経験者であった。

 離婚の原因は明らかに夫側にあり、

「夫の浮気」

 というのがその原因だったのだ。

 浮気をした相手は、実に地味な女性で、彼女とすれば、

「まったく自分と違う相手をわざわざ選ぶなんて」

 とばかりに、逆上していたのだ。

 ただ、最初は、

「浮気くらい、別にいい」

 というようなことを、近所の奥さんにはうそぶいていたので、

「あの奥さんが、ここまで、うろたえるとは」

 ということで、まわりの人もびっくりしていたのだ。

「奥さんにとって、結婚というのは、どういうことだったの?」

 と他の奥さんから聞かれても、彼女は頭を傾げるばかりで、何も答えなかった。

「あれは、本当に分かっていないんじゃないかしら?」

 ということであった。

 しかし、

「結婚というものを、ハッキリと分かっている人って、本当にいるのかしら?」

 ということをほとんどの人はいうことだろう。

 だから、

「浮気って、そんなに楽しいものなのかしら?」

 というほど、浮気というもの自体が、yく分からないのだ。

「浮気を分からないわけだから、結婚というものを分かるはずもない」

 ということである。

 特に、昔は、

「成田離婚」

 という言葉があったではないか?

 ということで、

「結婚という言葉」

 よりも、

「離婚という言葉」

 の方が、まず気になるところだ。

 ということであるが、今の時代は、

「離婚というよりも、結婚ということの方が、厄介に感じる」

 というものだった。

 それは、

「以前が、結婚というものが当たり前で、離婚が珍しかった」

 ということであり、逆に今では。

「離婚というのは当たり前にするもので、離婚するのに、なぜ結婚してしまうのか?」

 ということだと考えると、

「逆も真なり」

 という発想になってしまうということであろう。

 特に、

「成田離婚」

 などという言葉が巷でささやかれるようになると、

「離婚など当たり前

「バツイチという方が実はモテる」

 などと言われ、

「離婚が当たり前」

 という時代になってきた。

 だから、まわりに、

「離婚」

 ということを人に話すと、

「お前はまだ若いから、やり直しがいくらでも利く」

 と言われるのだ。

 その昔、昭和の時代であれば、

「離婚なんかすれば、戸籍に傷がつく」

 と言われたり、

「女性が実家に帰ると、出戻り」

 などと言われ、家族から、

「お前のような出戻りは表に出せない、家族の汚点だ」

 とまで言われ、

「家から出ることも、憚られる」

 というくらいであった。

 もし、妹がいたりすれば、

「姉ちゃんが出戻り」

 ということになると、

「そんな妹とお前はもらうというのか?」

 ということで、妹の結婚にまで影響した李する。

 しかし、平成以降の、

「成田離婚」

 などと言われた時期から、

「早く相手の悪いところが分かってよかった」

 ということであったりすると、

「そもそも、結婚しない方がよかった」

 と考えるようになるだろう。

 しかも、

「離婚率が結婚よりも多い」

 ということになると、

「どうせ、離婚するんだから」

 というマイナスの考え方になり、

「結婚することが何になる」

 ということになる。

 そうなると、

「結婚しない男女が増えてきて、結婚適齢期という言葉が、まるで、死語ではないか?」

 ということにあるというものだ。

 確かに、結婚適齢期というものは存在した。そして、

「本当に結婚したい」

 と思う時期だったのだということだが、それが本当に、

「結婚したい時期ということだった」

 ということなのか。それとも、

「結婚しないといけない」

 という時期だったのかということだ。

 ただ、女性の場合は、

「高齢出産」「

 というものが問題になる。

 だから、

「身体自体が、適齢期だと感じさせるという、本能のようなものだ」

 ということになるのではないだろうか?

「結婚というものは、何のためにするんだろうか?」

 と考えさせられるというものだ。

 そんな離婚という問題を、いとも簡単にやってのけ、それを、知り合いの女性たちに、

「私は、離婚したおかげで、今は自由になれて、楽しい毎日を送っている」

 とうそぶいている女がいた。

 彼女は、名前を、

「樫沢琴絵」

 といい、最近、この街に越してきた一人の女性だった。

 最近といっても、ここ一年くらいのことであったが、その女は、巧みに、

「ママ友仲間」

 に入りこんできた。

 彼女には、子供がいるわけではなかったが、人を誑し込むのがうまいのか、一人の奥さんと仲良くなったことで、この街の、

「ママ友連中」

 と仲良くなったのであった。

 しかも、そのテクニックは、実にうまいもので、最初は、

「子供を手なずける」

 ということであった。

 この女は、子供がいないくせに、子供の気持ちがよくわかるのか、子供を味方につけるということがうまかったのだ。

 その作戦として、

「母親が、自分に何をすれば、一番嫌なことか?」

 ということをよく知っているようで、そんな子供の気持ちを口に出していうことで、あっさりと子供を味方に引き入れるのだった。

 それは、彼女が、

「かつて、自分の親から受けた仕打ちを思い出せばわかる」

 ということで、特に、

「今の時代と昔とでは、考え方も、育ってきた環境も違う」

 という考えから、

「今の子供には自分たちのことを」

 そして、

「今の大人には、子供たちのことを」

 それぞれ分かるわけはないと思っている母親の気持ちを逆手に取るというやり方である。

 子供というのは、そのあたりのことを分かっているというもので、大人の考えを、思ったよりも幼い頃に看破しているものだ。

 それを、自分たちも同じ道を歩んできたのだから分かりそうなものだが、それが、なぜか、大人になると、子供の頃のことを分からなくなってしまっているのである。

 しかし、

「どうしてそうなるのか?」

 ということを、自分も、子供の頃に気づいたはずなのに、それを分かろうとしないというわけで、

「だから、自分が大人になったら、子供の頃に受けた仕打ちを、自分の子供には絶対にさせない」

 と思うはずなのに、大人になったら、結局同じなのだ。

 そのことを、分かっている親もいれば、分からない親もいる。

 分かっている親というのは、その気持ちが、

「確信犯である」

 ということから、後ろめたさがあるのだろう。

 そこが、琴絵という女の付け目だったのだ。

 確信犯というものは、実に厄介なもので、

「自分に正当性がある」

 ということを感じながらも、後ろめたさというものがどうしても、残ってしまう。

 それこそ、

「自分が、二重人格ではないか?」

 と思わせるところであり、

 確かに、二重人格というのは、

「ジキルとハイド」

 のような、正反対の性格を持っているというものなのだが、

「同じ瞬間に、二人が表に出てくることはない」

 ということで、それこそ、

「ドッペルゲンガー」

 のように、

「もう一人の自分が、同一次元同一時間に存在できない」

 というもので、それが起こると、

「近い将来に死んでしまう」

 という都市伝説を信じてしまうということになるのだ。

 これこそ、

「うしろめたさというものを、心のどこかに抱えながら、その実、確信犯的な感覚になることで、自分を正当化しようと、都合の悪いことは忘れてしまう」

 という感覚になるからだろう。

 それを考えた時、

「夢を見る」

 ということが、どういうものなのかということを感じさせるというものだった。

 ただ、これは、あくまでも、

「二重人格で悩んでいる人の考え方」

 ということであり、

「樫沢琴絵ではない」

 ということ、念を押しておくことにして、話を続けていくことにする。

 これは、琴絵と知り合った人が感じたことであり、しかもそれは、

「琴絵と知り合ってから感じたことだった」

 というのだ。

 だから、最初は、

「琴絵に感じたことなのか?」

 と思ったのだが、そうではなかった。

 琴絵の中に、何か薄気味悪いものを感じ、彼女が、

「二重人格ではないか?」

 と思うようになって感じたことだったのだ。

 その人は男で、琴絵が、

「ママ友グループ」

 というものに入ってきた時、そのママ友の中の一人の旦那だったのだ。

 その人は、

「ママ友」

 の間でも人気がある人で、特に、

「誰彼ともなく、差別をするようなところはなく、しかも、精錬実直なところがある」

 という、いわゆる、

「裏表のない人間」

 ということで、皆から好かれていた。

 しかも、彼の眼には、今まで狂いがなく、

「この人なら大丈夫」

 という人であれば、大体において間違いなかったし、

「この人は危ない」

 と言った人は、結局、他のグループに入って、すぐにいざこざを起こし、そのグループにいられなくなったどころか、

「この街にもいられない」

 ということをしでかして、結局、街を離れることになったという。

 その理由ははっきりと分からないが、そのグループの話によれば、

「仲間の旦那に手を出した」

 ということだったのだ。

 一番の御法度ということで、

「この程度で済んでよかった」

 といってもいいだろう。

 そんなことがあってから、

「あの人の目に狂いはない」

 ということだったのだ。

 しかし、琴絵は、その男の目をくらますことができたのだ。

 もっとも、途中から、その男も、

「怪しい」

 ということに気づいたのだが、肝心なところで、

「自分の思い過ごしかも知れない」

 と思ったのだ。

 なぜなら、この男性は、

「直観がモノを言う」

 と思っている人で、

「途中まで信じていた人であれば、最後まで信じないといけない」

 という、一種の正義感のようなものがあった。

 だから、その思いが、せっかくのとりえの邪魔をする形になったのだ。

 実際にこの男性の、欠点といえば、

「肝心なところで、自分の考えに、今一つの自信がないこと」

 であった。

 他の人が、

「あの人は千里眼のように何でもお見通しだ」

 といって、まわりを煽ることで、余計に、男とすれば、

「自分の自信のなさというものを、まわりにいうことができず、一種のジレンマに陥っている」

 ということになるのだった。

 これは、本人もそうだが、奥さんもジレンマを感じていた。

 特に、奥さんは、ママ友たちと、仲良くしている手前、

「旦那の肩ばかりを持つと、自分の立場を危うくする」

 ということであった。

「だったら、ママ友グループから抜ければいいじゃないか?」

 ということであるが、さすがに、そこまでの勇気はなかった。

 そもそも、

「私がこの街で生きていけるということや、子供を引き受けてくれるということは、すべてが、このグループのおかげ」

 ということで、

「このグループが、まるで、自分の世界のすべてではないか?」

 と思えるほどになっているのであった。

 それを思えば。簡単にグループを抜けることもできず、亭主の肩を持つわけにもいかない。

 そうなると、

「旦那にはあんまり、ママ友グループにかかわってほしくない」

 と考えるようになったわけで、そこで、旦那との気持ちの行き違いがあったといってもいいだろう。

 旦那としては、

「そろそろ潮時」

 とは思ったが、なぜか、自分が抜けられなくなってしまったことに気づいていた。

「俺が簡単に抜けると、女房が、あそこで浮いてしまう」

 と考えたからだ。

 だから、旦那とすれば、奥さんにも一緒に、あのグループから抜けてほしいと考えていたのだが、実際に、

「一緒に抜ける」

 という考えだけが事実であり、他の、

「旦那が抜けられない」

 という思い、

「奥さんからすれば、このグループが自分の世界のすべてだ」

 という思いとの両方が、大きな間違いだったということであろう。

 それが、

「すれ違い」

 ということを生んでしまい、そこから、奥さんは、

「自分の殻の閉じこもってしまう」

 ということになったのだ。

 実際にこの奥さんには、

「今まで他の誰にも話していない」

 という過去があったのだ。

 その過去というのを知っているのは、旦那と、自分の家族だけで、もちろん、旦那にも。告白する時。

「このことは、絶対誰にも言わないで」

 と言ったのだった。

 旦那はそれを聴いて、少なからずのショックを受けたようだが、それは、

「自分が好きになった女の境遇」

 ということで、かなりひいき目に見ていたからであった。

 もし、これを、

「他人事」

 ということで考えたとすれば、

「ここまで強引に、まるで自分のことのように思わなかっただろう」

 ということで、さらには、

「結婚まで行かなかったかも知れない」

 とも思った。

 この男はそれだけ義理堅い男であるが、そのくせ、

「人を見る目があるだけに、そのジレンマを感じたまま、生きてきた」

 ということであろう。

「人間というのは、幼いころから、一つや二つ、トラウマになるというようなことを、抱え込んで生きてきた」

 といっても過言ではない。

 だから、奥さんからの告白も、

「まるで自分がその立場だったら」

 ということで聴いてしまったことで、すっかり、情が移ってしまったといってもいいだろう。

 だが、それは男にとっては、決して考えてはいけないということであった。

「自分が、情にほどされて、最終的に結婚を決意した」

 とは考えたくなかった。

 子供の頃であれば、それもあったかも知れない。

 人に同情して、情けを掛けるというのは、

「情けは人のためならず」

 という言葉にあるように、

「元来いいことのはず」

 なのだろうが、

「今の時代は、その情をまともに受けると、あとで、余計なしっぺ返しを食ってしまう」

 と考えられるからであった。

 特に、子供の頃、

「人に情けを掛けたことで、自分が損をする」

 という思いを結構したというではないか。

 確かに、苛めがあった時、誰も助けに入らないので、自分が助けに入ると、自分も、今度はまわりから苛めの対象にされてしまったのだ。

 その時は、苛めを助けた相手から、

「ありがとう、一生、この恩は忘れない」

 といっていたくせに、苛めのターゲットが、そいつから、今度は完全に、旦那に変わってしまったことで、あれだけ恩を感じていたその男は、

「俺はもう虐められることはない」

 ということで、なるべく、今度は旦那にかかわらないようになったのだ。

「もしかかわって、また自分に苛めのターゲットが向いてしまうと、溜まったものではない」

 ということになるのだ。

 要するに、

「皆自分さえよければいい」

 ということになるのだ。

 だから、旦那とすれば、

「自分の身は自分で守るしかない」

 ということになり、さすがに、それ以降、人がいじめられていても、助けるようなことはしなくなったが、そのおかげで、

「人の善悪」

 というものを見分ける力ができたということであった。

 そして、その善悪というのも、

「相手の本性がわからなければ、善悪の区別もつかない」

 ということで、

「表面上だけのことではなく。本当の相手の本性を見抜く」

 ということが大切だということに気づき、そこからは、

「たいていの人間の考えや、善悪というものが分かるようになった」

 ということであった。

 だが、それはあくまでも、

「学生時代までの、それも、男性だけのグループ、あるいは、男女混合のグループ」

 というものに通用するというものであった。

 しかし、結婚してからの、

「ママ友グループ」

 という、

「女性ばかりの園」

 においては、通用するというものではなかった。

 というのは、

「女の世界には、断層といえるほどの、何十二も張り巡らされた、まるで年輪のようなものが渦巻いている」

 ということであった。

 それを考えると、奥さんにとっては、

「自分から飛び込んだ」

 というのに、そのうちに、

「自分ではどうすることもできない」

 という集団であり、

「抜け出すこともできなくなった」

 と考えれば、

「このママ友という女性だらけの、しかも、子供を持った母親という、男性からはなかなか想像もつかないような集団」

 というものが、どれほどのものかを、奥さんが理解できなかったというのも、無理もないことであった。

 しかも、奥さんグループは、

「心の底で何を考えているのか、まったく分からないくせに、この旦那のように男性が入り込んでこようものなら、甘い言葉や、おだてによって、一種の骨抜きのようにすることで、自分たちの枠にはめ込んでしまおう」

 と考えるようだった。

 これは、

「田舎の連中が、都会からやってきた人に対して、都会というものを羨ましがってみたりして、都会の人間に優越感を持たせることで、すっかり油断させ、自分たちの味方に引き込むということに成功するのと同じ」

 ということではないか。

 だが、

「利用価値がなくなれば、すでにお払い箱」

 ということで、それまで徹底的におだてられていたものが、まったく相手にされなくなる。

 その時でも、その本人には、

「どうしてこんなことになったのか?」

 ということで、

「はしごを外された」

 という思いはあるが、その理由が分からないということで、

「悪いのは俺なんだ」

 と思い込まされることになるのだろう。

 そこまで、田舎の連中が頭がいいとは思えないが、それこそ、

「昔から、村八分」

 であったり、いわゆる、

「島国根性」

 というものが、よそ者を受け付けないという気持ちと相まって、

「生きていくすべ」

 ということで、

「培われてきたものだ」

 といってもいいだろう。

 この旦那が、

「樫沢琴絵という女を、

「ママ友グループの引き入れる」

 ということになるのだが、それこそ、この旦那にとって、

「一世一代の大間違いだった」

 といってもいいだろう。

 これがなければ、

「この後に引き起こされる事件」

 というものもなかったということになるであろう。


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