金蓮歩 Ⅱ

 蜂蜜さながらに粘つく濃密な空気と陽光を浴びて、純白の蕾はうっすらと金色に輝いてさえいた。

 この世のものでなければ、いっそ神々しくさえある光景。夏の陽光が織りなす陽炎であったらと願わずにはいられない現実を前にしても、ダットは悲鳴を上げることさえできなかった。ただただ、声どころか呼吸すら忘れて、自分目掛けて近づいてくる怪奇に見入る――魅入られるだけで。

 最初は朧にしか判ぜられなかった面立ちは、怪物の舌なめずりを連想させる水音が響くごとに、次第に鮮明になっていった。

 北部の女は皆そうするように、長方形の布を用いて頭の周りに巻きつけられた髪は、しなやかな体が身じろぎするごとに高貴な紫の艶を放っていた。解けば絹よりも滑らかに、川よりも豊かに流れるだろう髪。その艶やかな――真夏の夜空そのものの黒を引き立てる肌は、茉莉花ジャスミンを恥じ入れさせるほどに白い。この南方の国の民は、北の隣国たるようから伝わった詩を介してしか知らない雪の白さとは、このようなものなのだろうか。

 ダットはもはや恐ろしさではなく、生まれて初めて覚えた感情のために、その場から動けなくなっていた。そうして少年はとうとう、恐ろしき神秘の仔細を目の当たりにしてしまったのである。池から降り立った・・・・・者の、麗しい面を。

 互いの吐息が掛るほど間近に迫った怪異は、その笑みを向けてくれた。それ・・が微笑んでいるというのに、蓮の花が開かないのが不思議なぐらいの麗しい微笑を、ダットに。

 優雅にほころんだ唇は、朝露を含んだ瑞々しい紅の蓮の花弁。柳の眉は柔和で嫋やかな弧を描いていて、その下の睫毛は羊歯そのものだった。

 太陽の黄金の光が降り注ぐ夏の海の青を湛えた、大きな瞳がダットを見つめる。そうして伸ばされた白い手を、ダットは跳ね除けられなかった。長い指は、あるいは装束よりも紅く鋭い爪を備えているというのに。

 あの爪ならば、自分の喉笛を割くのも容易いだろう。命の危機が迫っているやもしれないというのに、蜜色の顎に白い指が添えられた瞬間、少年が覚えたのは恐怖ではなくて陶酔であった。

 ダットの顎を持ち上げたまま、怪異はくすくすと微笑んだ。少女にしては低めの声は、犯しがたい気品を感じさせる。だからダットは、いつまでもそれ・・の成すがままにされていたのだろうか。

 ややして怪異は硬直するダットを残して踵を返すと、再び池の水面に歩いていって――半ばに差し掛かった途端、麗しい姿はふっと掻き消えてしまった。神秘の歩みの軌跡の顕れではないかとすら思える、金色を纏うふくよかな白蓮を残して。

 ……今のは一体、だったのだ。

 美しき怪異の呪縛から解き放たれてようやく、少年は磚に膝をつくことができた。夏の陽光をいっぱいに吸い取った陶器は、長く触れていると火傷をしかねない熱を放っていたが、構わずに。

 旅の疲れと熱気に苛まれるあまり、起きながら見てしまった夢幻なのだろうか。だとしたらどうして、自分はあんな幻影を見てしまったのだろう。あんなにも美しい人間には、産まれてこの方一度も出会った覚えはないのに。

 湿気を孕んだ生温かな風が、太陽に炙られた首筋に絡みつく。日の下にいてもなお堪えきれぬ寒さに震えつつ、今一度蓮池を眺める。麗しい紅い影は欠片も探し出せなかった。ダットが魂までも焦がしつつ、もう一度姿を現してくれと願っても。

「……ダットさま!」

 老馬丁兼蓮池の世話係の丁安仁ディン・アン・ニャンに肩を掴まれてようやく、令息は池から片足を引き抜いた。理性を失ったダットは、知らず池に飛び込まんとしていたのだ。

「水浴びでしたら、なにもこんな濁った池でなさらなくとも」

 カムハ社でも比較的貧しい一族に生まれたため、青年の頃からバック家の屋敷で奉公しているという、六十も半ばを超えた老爺。通称ニャン爺は馬小屋に戻る最中に、ぼんやりと立ち尽くすダットの姿を目撃してしまったので、慌てて駆け寄ってきたのだという。

「なあ、ニャンさん。あんた、見た・・か?」

 いったいどれ程、自分は午後の日の下で立ち尽くしていたのだろう。震える問いかけを、からからに乾いた口内からどうにか絞り出すと、老いたりといえども屈強な体躯はしばし硬直した。

「……どうかつまらぬ噂に惑わされ、白蓮姫さまの眠りを妨げられませぬよう」

 老馬丁はそれだけ言い残すと、足早に厩舎へと去っていった。祖母よりも年嵩だとは信じがたい素早さで。ダットに、どういう意味だと詰問する暇すら与えず。


 待ちに待った・・・・・・一族揃っての晩餐には、流石の祖父も顔を出した。

「随分と遅い到着だったな、ヒェウ」

「それは……」

「到着が遅かったのはフックも同じだがな。お前らにはつくづく、父に対する敬意が足りておらん」

 開口一番に父や二番目の伯父にあらぬ言いがかりをつける祖父――白文康バック・ヴー・カンを前にしては、どんなご馳走も砂になろうというもの。

 長くこのスィウを支配していた北の隣国から伝わったものの一つに、本名を妄りに口にしてはならぬという慣習がある。故に士大夫やそれに準ずる者たちは、礼儀作法の一つとしてあざなを名乗るのだ。その者を表す真実の名を口に出して許されるのは、二親や上席などの目上の者のみ。だから母は、父ヒェウをチーチュエンとあざなで呼ぶのだ。

 農民にはほとんど浸透していない作法を踏まえれば、祖父が父の真名を口にするのは、至極当然の道理である。しかし祖父の吐き捨てる調子には、それ以外の意図が潜んでいるとしか感じられないのだ。暘においては、誰かの本名を本人の前で呼びつけるのは、場合によってはこの上ない侮辱ともなるのである。

「フックは昼前に、ヒェウは昼過ぎには到着していたわ。出迎えようとすらしなかったのはあなたの方でしょう?」

 あくまで柔らかく、祖母は祖父を諫めた。祖父に苦言を呈することも度々の祖母が、バック家の女主人という地位を保ち続けられたのは、南部の盛族たる生家の地位や財力ゆえ。二人の妻と二人の妾を相次いで喪った祖父カンが、帝の宮廷での伝手を駆使し、やっと娶ったのが祖母ハンなのだ。

 スィウの名目上の統治者は、ダンという姓を名乗る皇帝である。しかし実際はダン帝が王号を授けた武人であるブイ氏とアン氏による、二重政権が敷かれて久しかった。

 ほとんどの実権を失い権威だけの存在になり下がったダン帝に代わり、北部を支配するのがブイ氏、南部を支配するのがアン氏である。代々のブイ王とアン王はダン帝の第一の家臣と自称する一方で、互いを簒奪者として非難してやまなかった。

 二つの王家の関係は現在でこそ小康状態を保っている。しかし祖父が青年であった頃は、小競り合いが絶えなかったと聞いていた。されどかつての支配者たる北の隣国から攻め込まれた場合を考えれば、完全に交流を断つわけにもいかない。入り組んだ思惑の下、ダン帝の肝いりで成り立ったのが祖父と祖母の婚姻だったのだ。

 当時祖父は既に、暘に睨みを利かせる武人としての勇名だけならばまだしも、血臭芬々たる不行跡の仔細も天下に轟かせていたのだ。その祖父の妻となれと命じられた折、まだうら若い娘だった祖母はどれほど嘆き悲しんだのだろう。

「少し、塞いだ雰囲気になってしまったかしら。でも明日は水上人形劇ムアゾイ・ヌオックをやるから、存分に楽しんでちょうだいね」

 暗い話はこれで終いだとでも言いたげに、祖母はにこやかに破顔した。

 嫁いでしばらくは、流石の祖母も故郷恋しさのあまり枕を濡らす夜を重ねたのだという。しかし祖母は、いつまでも己の殻に閉じこもり続けるのを良しとしなかった。祖母はバック家の女主人として、夫の先妻たちの子の母としての務めを果たしつつ、進んで北部の慣習に親しんでいった。そうした最中で祖母が見出した最大の楽しみが、水上人形劇なのだ。

「お義母さまが見せてくれる人形劇を、わたくし、毎年楽しみにしているんですの。明日の演目は、一体どんなお話なんでしょう?」

「それはまだ秘密よ、サンオン」

 二番目の伯父フックの妻である杜春蘭ドー・スアン・ラン――字は爽温サンオンは、人形劇よりも祖母の楽しげな様子に目尻を下げていた。

 水上人形劇とは、カムハ社も位置する北部の三角州デルタ地帯に古くから伝わる伝統芸能である。水上人形劇の技を代々受け継いできた者たちは、池などに簾や背景を描いた板を張り、簾もしくは板の前面を舞台とする。彼らの技の中で他に類がないのは、水中に隠した紐や綱を駆使し水上の人形を操る、門外不出の秘技だった。

 南部生まれの祖母は、嫁いだ年に社の祭礼の際に目にした演劇にすっかり心を奪われてしまった。以来祖母は、熱心に水上人形劇の芸人たちの生活の援助をしてきたのである。どころか水上人形劇好きが高じるあまり、屋敷の敷地に元来設けられていた蓮池とは別の池を掘らせたほどだった。

 正直ダットは、毎年この時期に集まる度に必ず一度は開かれる鑑賞会には、とっくに飽いていた。

 いくら芸人たちが妙技を凝らしたとしても、その演目には限りがある。だいたい水上人形劇の演目は、筋書き自体は簡潔な――スィウの民ならば幼子でも暗唱できるものばかりなのだ。最初に北の隣国に反旗を翻した女傑の奮闘だとか。海に杭を打ち込んで臨んだ海戦にて、見事北の隣国の軍勢を蹴散らした名将の雄姿だとか。

 二つ年上の従姉の白淑英バック・チュック・アインは、内心をあからさまに物語る眼差しを、祖母と母親に投げかけている。アインの表情に、一人盛り上がっている祖母は気づいていないらしい。しかし従姉は、後で母親から雷を落とされるかもしれなかった。

 祖母ハンは、孫たちも水上人形劇を心から楽しみにしていると信じ切っているのだ。幸福な勘違いを永続させる手助けをするのもまた、子や孫の務めである。けれどもダットは正直、水上人形劇など見たくなかった。

 舞台となるのが屋敷の敷地内の、蓮池近くの池でさえなければ、祖母のためにすっかり板についた演技をするだろう。けれどもあの蓮池の近くには、近寄りたくなかったのだ。少なくとも、今年ぐらいは。だけど祖母を悲しませたくないから、昼間目撃した怪奇現象について、この場の誰にも打ち明けられない。

 もしも今一度あれ・・と遭遇してしまったら、自分はどうなってしまうのだろう。果たしてその時、正気を――あるいは命を保っていられるのだろうか。

 薄皮一枚の向こうにある者は恐れを、ある者は罪の意識を秘め隠した宴は、少年の懊悩が頂点に達した頃にお開きとなった。

 蚊帳の中。暑さを凌ぐべく、籐製の抱き枕ゴイオムにしがみ付いていても、藍色の双眸は冴えるばかり。文字と同じく北方から伝わった礼法に倣い、男も髪を長く伸ばすものだから、暑苦しくて仕方がなかった。いくら項の辺りで丸髷にして、通気性のよい織の粗い布で纏めているとはいえ。北から支配される以前の、男女ともに髪を短く切っていたという祖先たちが羨ましくもある。

 これまた北方から伝来した、官吏として栄達するための登竜門たる科挙。難関を極める試験に状元いちばんで及第した英才たちの解答を纏めた一冊は、きちんと持ってきている。どうせ眠れないのなら、月と星の灯りを頼りに読書に励もう。科挙に及第するためには、一刻たりとも時間を無駄にはできないのだから。

 自分もいつか、父や母方の祖父同様に科挙に及第して、文官として栄達を果たそう。少年は無理やりに心を奮い立たせ、神聖だと認識している書を開いた。

「……僕、今日の昼、見たんです」

 が、聞き慣れない声が水面を渡ってきた夜風さながらに、ひんやりと耳に入って来たのだから堪らない。

 そっと足音を殺し、祖父の屋敷でのダットの室の入口から、密やかな語らいの様子を観察する。

「……一体、何をよ」

「何って……。全部言わなくても、分かるでしょう? あれ・・ですよ」

 新入りなのだろう。声音同様に覚えのない顔を強張らせた、ひょろりとした少年は、昼間に椰子の実の蒸し菓子を持ってきてくれたホアと話し込んでいた。

「とにかく、万が一旦那様に聞かれると、ぶたれちゃうわよ。だいたいあたしたち、夜の見回りの最中なんだからね? バック家の人たちにサボってるって思われたら大変なんだけど」

「でも、屋敷を彷徨うろつくならばともかく、蓮の池を歩いて渡って……。あれは絶対にこの世の者じゃないです。……僕もう、怖くて怖くて……」

 彼らの会話をもっと聞きたくて、身を乗り出したのがいけなかったのだろう。体の均衡を崩したダットは、受け身は取れたものの、転んだ拍子に小さく呻いてしまった。

 立ち上がる際、あからさまに動揺している少年と、確かに視線が交錯した。夜目にも白い面はみるみる強張っていく。

「――じゃ、じゃあ、ホアさん。僕はもっと先の方を回ってきますね!」

「え? クオンくん!?」

 ダットに叱責されるとでも考え、怯えてしまったのだろうか。少年は旋風よりも素早く去っていった。

「じゃあ、そういうことですので、あたしも……」

「――なんて言い訳が通るわけないって、分かってんだろ?」

「……はい」

 へらへらと締まりのない顔で、ダットと同じ年頃だろう少年の後を追おうとしたホアの手を掴んで、立ち止まらせる。

「さっきのヤツ、一体誰なんだ? 屋敷のどこで働いてるんだ?」

「あ、ああ……。知りたかったのはそっちの方ですか」

 安堵の吐息混じりにホアが語ったところによると、件のクオンという少年は、馬丁のニャン爺とは同じ父系親族集団ゾンホに属しているのだという。

 自分もいつ迎えが来るか分からない身だから、今の内に後継を仕込んでおきたい。と、未だ筋骨隆々としたニャン爺は祖母に願い出た。ためにクオンは、正月が終わった頃から、この屋敷で働きだしたのだとか。道理で覚えがないわけだ。

「ふうん。それで、さっきあいつが言ってたあれ・・って……」

 頷きつつも本題に入ろうとした途端、ホアはさっと素朴な面を強張らせた。今夜のことはもちろん祖父には内密にするからと促しても、中々口を割ろうとしない。そうして恐怖に慄いた表情のまま、一礼してダットの前から去っていった。

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