ましろの蓮は紅く染まる

田所米子

金蓮歩 Ⅰ

 今年も、ついに到着してしまった。

 馬車から降りてすぐ。祖父の屋敷の威容が視界に割り込んでくるやいなや、少年はしっかりとした眉をひそめずにはいられなかった。

「ダット。気持ちは分かるけれど、お祖父さまの前ではあまり表に出さないでね」

「当たり前だろ、母さん。俺がもう何回あの腐れ爺の顔見させられてるんだと思ってるんだ?」

 白文達バック・ヴー・ダットは、旅立ち以来もう数えるのもやめてしまった溜息を吐く。

「それはそうだけど、でも、チーチュエンほどではないでしょう?」

 ――知専チーチュエンなんて、官吏になるまではあのお祖父さまと同じ屋根の下で暮らしてたのよ。それを考えたら、年に二回、十日一緒の屋敷で過ごすぐらい、我慢なさい。

 母に眼差しで念を押され、少年は渋々引き下がる。普段は煩いぐらいに陽気な母の黄理妙ホァン・リー・ジュウも、今ばかりは浮かない顔をしていた。

「毎年済まないなあ、お前たち」

 父もまた、人好きのする丸顔を強張らせている。五歳年下の弟である白文豊バック・ヴー・フォンは、泣くのを必死に堪えているようですらあった。

 自室に閉じこもって書物を睨んでばかりだというのに、濃い蜜色をした面を上げる。仰ぎ見る空は、半ばも過ぎたとはいえ雨の時期だというのに、からりと晴れ渡っていた。暗雲は自分たちがいつの間にか吸い込んでしまっていたのだろうか。だからこの胸は、こんなにも塞いでいるのだろうか。

「……ま、お祖母さまのことは心配だったし、ジジイのことなんて端から相手にするつもりはないけどさ」

 あまり両親に気を使わせるわけにもいくまい。少年が虚勢を張ると、父はほっと口元を緩めた。しかし地黒のダットとは異なり色白の弟の頬は、ますます白く――青ざめていくばかりで。

「どうしたんだ、フォン。確かにジジイは存在自体が腹立たしいけど、お祖母さまに会えるんだから、それでチャラになるどころかお釣りがくるだろ?」

「……うん」

 弟を励ましつつ、わざわざ近くの川から水を引いて作られた濠の、石造りの橋を渡る。家族で示し合わせたわけではないが、常よりもいっそうゆっくりと歩を進めたというのに、橋はすぐに終わってしまった。

 父の故郷たる錦河カムハ社では、人家としては唯一の瓦葺きの屋敷は、周囲を睥睨するかのごとく聳えている。大スィウ帝国の住居の例に漏れずタイル敷の、しかし他の家とは異なり農作物を上で干したことなど一度もない庭には、色とりどりの欠片で複雑な紋様が描かれていた。

 濠と煉瓦造りの壁で囲まれた敷地の中には、同じ社の他の家ならば切っても切り離せない、豚小屋の臭気は欠片も漂ってはいない。その代わりのように、先ほどダットたちが潜った門から向かって右側の奥に設けられているのは馬小屋である。

 前面に位置する池に繁茂する蓮の葉に遮られて、ダットたちが今立っている位置からは、馬小屋はろくろく確認できない。それでもなお、バック家の権勢を誇示するには十分だった。祖父の祖父は、穀倉地帯に位置する六百戸の大サーを王より与えられた、高名な武人であったのだから。

「今年は特に見事ですこと。お義母さまは本当に趣味がいいわ」

 他の品種よりも遅咲きの蓮の群れに向かって、母が微笑みかけた。弟もまた、母の傍らで足を止めている。もっとも弟の場合、祖父と顔を合わせる時間を少しでも遅らせようとの魂胆ゆえだろうが。

「俺、父さんと一緒に先に行っとくから」

 数えで十一歳。満年齢でも九歳だというのに、今にも母の裙を握りしめそうな弟に呆れつつ、靴を脱いで主屋おもやに入る。

 素足から染み入る磚の冷たさは、心地よく火照った体を癒してくれた。父が文官として仕えるブイ王の王府がある社から、カムハ社までの数日間。蒸し暑い馬車の中だというのに、ろくに素足になれなかったから、開放感はひとしおである。纏わりつく熱気と湿気もいささか和らいだのでは、と錯覚してしまうほどだった。

「今年もよく来てくれたわね。あなたたちの到着を、今か今かと待ちわびていたわ」

「――お祖母さま!」

 頬を緩ませていた少年は、朗らかな歓声を聴きつけるやいなや、満面の笑みを浮かべた。

「疲れているでしょうし、こんな時間だからお腹が減っているでしょう? すぐに美味しいものを用意させるわね。フックたちもあなたたちの少し前に着いたから、今夜の食事はきっと楽しくなるわ」

 顔なじみの使用人を従え、穏やかに微笑む祖母――呉恵姮ゴー・フエ・ハンは、いつ見ても父にそっくりだった。福福しい顔に刻まれた造作のみならず、小柄な体躯や、一般的なスィウの民と比しても濃い肌の色も、何もかも。

 透き通る白磁の肌が褒めそやされるこの地においては、祖母は若かりし頃も美女とは称せられなかっただろう。しかし愛嬌のある笑みや、下働きの者にさえ心を配る慈悲深さゆえ、自然と周囲の者たちからの好意と尊敬を集めていた。スィウにおいては人は皆、最終的には気質において評価されるものなのだ。

「お祖母さま。体は――腰は大丈夫ですか?」

 半年前。祖母ハンは風邪を拗らせた挙句、未だ熱の引かぬ体で立ち上がった際に転んでしまい、腰をしたたか打ってしまった。ために祖母は、しばらく体を起こすことさえ難儀したのである。

 祖父母と同居している一番上の伯父ミンから文で事態を知らされるやいなや、ダットは心配で溜まらず、直ちに荷物を纏めて見舞いに行こうとした。しかし伯父に代筆を頼んだ祖母により、正月テトに会ったばかりなのだし、そちらは今大変な時期なのだからと、紙面で窘められたから思い留まったのである。

「もうすっかり治っちゃったわ。だいたい、ミンの書き方が大げさだったのよ」

 実のところ、祖父の成人できた三人の子のうち、祖母が生んだのはダットの父だけである。それでもなお、伯父たちが実母に対するのと変わらぬ孝行を尽くしてくれるのも、祖母の人徳ゆえだろう。祖母もまた継子やその子供たちを、血の繋がった子や孫と分け隔てなく可愛がっていた。というかむしろ祖母が最も可愛がっているのは、孫では唯一の女である、二番目の伯父フックの娘だったりする。

「でも母さん。私も、随分心配したんですよ。陛下の誕生祝いがなければ、直ぐにでも駆けつけたかったのに……」

「なーに言ってるのよ。仮にも王府に仕える官吏であるあなたが、ブイ王陛下の長寿と恙ない治世を祈るための、文武百官揃っての慶賀式典をすっぽかすなんて、できるわけないでしょうに」

 窘める口ぶりとは裏腹に、祖母は満更でもない様子だった。

「奥様。それ以上の立ち話は、折角良くなったお腰に障ってしまうかもしれません」

「確かにそうだわ。トゥイさんにはいつも助けられてばっかりね」

 この屋敷に長く務める料理人でもある阮市翠グエン・ティ・トゥイに促され、客間に入る。二番目の伯父一家は、移動の疲れを癒すために昼寝をしている最中らしかった。

「お義母さま! お元気そうで、安心しましたわ」

「わたしも、あなたたちが変わりないようで嬉しいわ。でもフォンは、正月に会った時よりも背が伸びたわね」

 少しばかり遅れてやってきた母と弟も含め、簡単だが滋味深い昼食を摂る。

「トゥイさんの料理はいつ食べても美味しいなあ」

「あなたはトゥイさんの料理で育ったようなものだものね」

「トゥイさんの南部風の料理は、私にとっても美味ですわ。今度はうちの料理人も連れてきて、一緒にトゥイさんの味を伝授してもらおうかしら」

「あら。嬉しいことを言ってくれるのね」

 祖母は既に、二番目の伯父たちとともに早めの昼食を済ませていたという。ゆえに祖母は蓮茶を啜りつつ、ダットたちが舌鼓を打つさまを見守るだけだった。祖父がどこで何をしているかなど、興味もなかった。祖母でさえ、一切触れない。

「奥様がお好きな椰子の実ココナッツの蒸し蛋糕ケーキが、やっと冷めたものですから、お持ちしました」

 厨房に詰めているのだろう老女の代わりに、歓談の場に入って来たのは、ダットも覚えがある若い使用人だった。

「あなたも一つ持っていきなさい」

「ありがとうございます」

 名前は確か、胡市花ホー・ティ・ホアといったような気がする。ホアは素朴な面を緩ませると、ごく自然に菓子を一つ持っていった。この場に祖父がいれば、こうはいくまい。きっと、恐れ多いと辞退していただろう。

 スィウは、南洋に突き出た半島の海岸沿いに領土を有する。故に気候も植生も、北部と南部ではまるで違っていた。北部人は趣深い四季があるのを誇りにし、雨季と乾季しか季節を知らぬ南部人を蔑む。一方南部人は芒果マンゴーを植えてもちびた実しか収穫できず、ましてやもぎたての蕃茘枝バンレイシなど味わう術もない北部人を憐れむのだ。祖母も、南部から嫁いできた当初はあまりにも異なる環境に中々馴染めなかったという。

「ダット。フォン。美味しいでしょう? わたしもこれだけは、どんなに満腹でもお腹に入っちゃうのよ」

 祖母は幸福そのものといった表情で菓子に被りついた。この祖母の様子を眺めていると、何だかんだで今年も来てよかったという実感が芽生えてくる。そうして次の瞬間には、束の間とはいえ安堵してしまったと、自分を責めずにはいられなくなるのだ。

「……そういえば、今年の蓮池は一際見事でしたわ。あの白い蓮、お義母さまが植えさせたのでしょう?」

 母もまた、罪の意識を面にありありと乗せたまま、ぎこちなく唇の端を持ち上げた。察するに、白い蓮という言葉を、できるなら舌に乗せたくなかったのだろう。

「それが、違うのよ。気づいたらいつの間にか、紅い蕾に白いものが混じっていたの」

 祖父の屋敷には、池が二つある。うち一つが祖母の趣味用で、もう一つがカムハ社でのバック家の開祖たる、祖父の祖父が設けさせたという蓮池だった。しかしその蓮池では、それこそ祖父が子供の頃から紅い花しか咲かなかったはずである。

 なのに、選りにも選って白い蓮が咲くなんて、一体どんな前兆なんだ。少年は仄暗い予感を堪えつつ、祖母の様子を伺った。

「これはきっと、瑞祥なのよ。だってトゥーオン寺の池に咲いているものと、全く同じだったんですもの」

 賜恩トゥーオン寺とは、祖母が熱心に参詣し喜捨している寺の、正式な名である。信心深い祖母は祖父の苦言も頑として聞き入れず、定期的に件の寺の僧侶を招いて、屋敷の一画で経を上げさせているのだ。

「あの人の罪が赦される日など、永久に来ないでしょう。でもきっと、白蓮さまの魂はやっと安息を得たのかもしれないわ」

 三十六年前のこの時期に、この屋敷で起こった惨劇を想起してしまうと、寒気を堪えきれなくなった。明日はまさに、その日・・・なのだから。

「ええ。きっとそうですわ。お義母さまのお心が、白蓮姫さまに届いたのでしょう」

 母はバック家の女であれど、祖父の血は一切継いでいない。だから母は、自分たち祖父の血を継ぐ者たちほどには、罪の意識を抱えてはいないのだろう。

 母ジュウは穏やかに言い切ると、目の前の蒸し蛋糕を摘まんでは、美味しいと頬をほころばせていた。一方父は、好物であるはずの菓子に、一切手を付けない。そして祖母は、そんな我が子の様子を悲しげな瞳で見つめていた。

「あなたはまだあの蓮を見ていないのね」

 子守歌のごとく優しい声音で紡がれた問いかけは、父に向けられたものだった。しかし、祖母に会いたいがあまり、蓮池など一瞥もせずに来たのはダットも同じである。

「全ての罪はあの人にあるわ。お優しい方だったという白蓮さまが、あなたたちを恨んでいるはずはない。今――もっとも昼になったから、今日はもう花は閉じてしまっているけれど――池に咲いているのは、そんな気持ちにさせられる蓮なのよ」

 だからどうか明日にでも、あの蓮を見に行ってちょうだい。

 祖母の頼み事なのだ。孫として、聞き入れないわけにはいかない。だからダットは、翌朝と言わず遅い昼食がお開きになってすぐ、件の蓮池へと足を向けた。

 祖母や母が語った通りに、蓮池では紅に白が入り乱れていた。八重咲だという白い蕾は、確かに開けばさぞかし美しいのだろう。とはいえ二度とこの池に足を運ぶつもりもないから、一つ摘んで割り当てられた客室に飾ろうか。

 ぼんやりと。しかし繫茂する藻でどろどろに濁った池に落ちぬよう注意して、少年は手ごろな一輪に手を伸ばす。花弁が指先をくすぐった、まさにその時だった。

 ばしゃり、と何かが跳ねる音が、魚など目高めだかしかいないはずの池から聞こえた。ぱしゃ、ばちゃと、何かが水辺から這い上がるような。あるいは水が滴る何かを引きずるがごとき音は、だんだんと近くなってくる。

 一体何事かと、蓮に注いでいた眼差しを恐る恐る上げる。そうして藍色の双眸に飛び込んできたのは、この世の者ならざる怪異であった。鮮血と紛う紅い上衣と裳を纏った人影が、蓮池の水面を歩いて渡っていたのである。

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