第14話 バシャバシャバシャ

「うえぇ……きもちわるっ……」


 やっとの思いで辿り着いた公園でバシャバシャと手を洗う愁斗。


「うへぇ……さいこうでしたぁ……」


 その隣で満足気に頬を緩ませる碧海は天を仰ぐ。


 半径5メートルの間に天国と地獄が作られる中、夕日に照らされる公園では小さな子どもたちがサッカー中。


 3つの鉄棒を1つのゴールにし、対局にあるジャングルジムを1つのゴールと見なしているのだろう。

 それぞれの遊具の前ではゴールキーパーらしき男の子が腰をかがめており、攻め時になれば片方のゴールキーパーが前に出てきている。


 中には経験者も居るようで、積極的にボールが回ってきては華麗なドリブルを見せて何人も抜かす……のだが、短髪の男に止められて怒りを顕にする。

 そうして周りの子たちが笑いながらも宥めるのを繰り返していた。


 バシャバシャと手を洗いながらも、横目に見る愁斗は小さい子相手でも嫉妬心を抱いていた。


「……友だちとサッカーとかしたことねぇ……」


 愁斗がこの子たちのように小さかった頃、纏わりついていたのは一文字で表せば”いじめ”というもの。

 今となってはどうとも思わない愁斗だが、やはりこんな風に男友達と楽しくサッカーをしたいとは当時から思っていた。


 それ故の願望の眼差しなのだが、結局はできないのが現実。

 小さなため息を吐き捨てる愁斗。

 けど、そんなため息を拾い上げたのは碧海だった。


「羨ましいの?」


 若干頬が緩んでいるのは未だに鼻の奥に愁斗の匂いが残っているからだろう。

 思わず険しい顔つきになってしまう愁斗だが、すぐに眉根を伏せてバシャバシャと手を洗う。


「正直羨ましい。俺も友だちと公園でサッカーしたかった」

「したことないの?」

「残念ながら」


 碧海が眺めるのは愁斗の目……ではなく、バシャバシャと洗われる手のひら。

 何度も石鹸をつけ、洗い流してはまた石鹸をつける。


 手のひらの皮膚が剥がれそうな勢いで洗われるその動作からは『嫌い』という意思がヒシヒシと伝わるわけで、


「そんなに嫌だった?」

「嫌だった」

「……ただ匂い嗅いだだけだよ?」

「無意識に口でも開いたんだろ。唾液が付いてるし、湿った蒸気も籠もるし、シンプルに水瀬の息が当たるのが嫌だし」

「ちょっと流石にひどくない?さすがに私でも泣くよ?」

「泣け泣け。置いて帰るから」

「…………ひどい」


 尖らせる唇で不満を漏らすが、鼻を鳴らすだけの愁斗はもう一度石鹸をつける。


 手のひら。手の甲。指の間。爪の間。手首。入念に洗い尽くした愁斗は、ようやく水で洗い流して水道を止めた。


 そうして地面に水滴を落とす。

 なにかで拭くわけでもなく、自然乾燥だと言わんばかりにブラーンと重力に身を任せるように。


「……ハンカチないの?」


 滴る水滴に睨みを向けながらも碧海が問いかけてやれば、


「ないね。さすがはうちの学園というべきか、学園のトイレにはエアータオルがあるし、なんならペーパータオルもあるからな。ハンカチの使い道が微塵もないから持ってきてない」

「文明の利器に頼りすぎ。ハンカチは随時常備しとかないといざというときに困るよ?」


 まるで母親のようなセリフを並べる碧海にジト目を向けてしまう愁斗。

 そんな愁斗の姿を知ってか知らずか、「仕方ないねほんと……」なんて言葉を並べる碧海はポケットに手を入れ、取り出したのは碧海と同じ瞳の色の金青のハンカチ。


 ワンポイントで縫われた白い花柄は見るだけでどことなく高価な生地感。

 使用後に1回1回丁寧に折りたたんで仕舞っているのか、シワ1つ目立たないそのハンカチはやがて愁斗の手の甲に当たる。


「あれ……?避けないの……?」


 そうしてポツリと呟いた碧海は、心底疑問に満ちた細い目で見上げてくる。


 これまでの行動と、バシャバシャと洗う姿を見て来た碧海は、正直避けられると思っていた。

 なんなら避けられたあとのセリフすらも考えていたほどだというのに、愁斗の手はピクリとも動くことはなく碧海のハンカチに手を委ねている。


「避けると思ってたなら拭こうとするなよ」

「いやそれはそうなんだけど……え?拭いていいの?」

「人の優しさを無下にするほど俺も最低な男じゃないからな」

「だったら告白も了承してほしいけどね……!!」

「それとこれとは話が別だから無理だな」


 キッと睨みを立てる碧海とは裏腹に、べーっと舌を出す愁斗は『さっさと拭け』と言わんばかりに手を差し出した。


 まるでメイドに顎に使うどこぞのお坊ちゃまにも見えるその光景は、どうやらサッカー少年たちの目にも入ってしまったらしい。


 われもわれもと言わんばかりに寄り集ってくる少年たちは、やがて碧海の背中を叩いた。


「お姉さんたちカップル?」

「そう――」

「違うぞ〜?お兄さんたちはお友達だね〜」


 刹那に碧海の言葉を区切った愁斗は、迫真のほほ笑み顔を作り上げていた。


 あまりのほほ笑み具合に見開いた目を向けてしまう碧海だが、少年たちに嘘を吹き込まなければいけない今、勢いよくサッカーボールを脇に挟む少年に顔を向け、


「お姉さんたちはね?付き――」

「お友達だぞ〜?君たちにも女の子のお友達がいるでしょ〜?それと一緒だよ〜」


 是が非でも『付き合ってる』とは言わせたくないらしい。

 一瞬で口を挟む愁斗の言動はまるでプロ級であり、負けっぱなしの碧海は「ぐぬぬ……!」と唸り声を上げるだけ。


 当然少年たちからはそんな碧海の顔が見えるわけもなく、すっかり愁斗に意識が惹きつけられてしまった今、碧海の背中に当てていた手は愁斗の太ももに移動。

 そしてわれぞわれぞと言わんばかりに口を開き始める。


「いるけどさー。なんか美優羅ちゃん最近ドッジボールしてくれないんだよなー」

「歩美はそういうんじゃないよ。赤の他人だし、なんならブスだし」

「べつに友だちなんていらねーし。女の子なんてからかうだけで充分!この前なんて美優羅ちゃんにカンチョーしたんだぜ!」

「うわおまえまじかよ!」


 なんともまぁ子供らしい会話が繰り広げられるが、愁斗には夢の話をされている気分だった。


『女子とドッチボール』『好きな女の子をいじりたくなる』『女の子相手にカンチョー』


 願ってもできなかったことが、今目の前の子どもたちはできている。

 将来安泰と言えばそれまでなのだが、やはり愁斗も1人の人間。人間なのなら1つのエゴも持ち合わせており、そんな会話が羨ましくも思ってしまう。


(……子供相手だ。やめだやめ)


 慌てて首を振る愁斗は、煩悩を払い除けてほほ笑みを浮かべる。


「女の子にカンチョーは良くないぞ〜?今どきだとセクハラで訴えられるからな〜」

「セクハラ?なんだそれ!」

「俺は明日からもカンチョーしまくるぜ〜!!」

「僕もしたい!お姉さんしてもいい!?」


 そうして向かう標的は碧海の方。

 そうすれば、愁斗の手を拭いていたハンカチがピタッと止まり、ほほ笑みだった顔には分かりやすく苦笑が浮かび上がってしまう。


「んーっと……?お姉さんは流石に駄目かなぁ〜?」


 ぎこちないほほ笑みを取り繕いながらも否定してみるのだが、相手は基本的に言葉が通じない子ども。


「え〜いいじゃんか!」


 愁斗の太ももから手を離した少年が作り出したのは、銃の形をした手の形。

 とんがらせた人差し指を固定するように、ギュッと親指に力を入れるその銃はなによりも鋭い。


 見るからに碧海の顔にはダラダラと流れる汗。

 姿勢的にもお尻を突き出すような形になっているからか、ニヤつきを浮かべる少年は遠慮もなくお尻側に回っていく。


「ちょ、ちょっと!?」


 慌てて姿勢を正して愁斗にお尻を向ける。が、敵は1人ではない。


「隙あり!」


 サッカーボールを投げ飛ばした少年が慣れた手つきで銃を作ると、勢いよく串刺しにしようとする。

 それでもスポーツ万能な碧海は寸前で避け、ハンカチと一緒に手でお尻を隠した。


「氷野くん!見てないで止めてよ!!」


 そうして涙目で愁斗を見やり、次々に飛んでくる人差し指たちを避け続ける。


「まぁ……うん。子どもはこんなもんか……」


 実際の小学生男子がどんな子が多いのかは微塵もわからない愁斗。だが、忘れたい小学生の記憶の中に薄く居る女の子をいじめたがる男子生徒の数々。


 自分を見てほしいがためにいじめ、けれどそれは逆効果となって嫌われ、挙句の果てには愁斗のもとにその女の子がやってくる。

 そうして当てつけだと言わんばかりに愁斗がいじめられるのがオチなのだが、今はその嫌な記憶が役立っているわけであり、この状況を解決するのもそれと同じ。


 動き回る碧海を目で追いかけ続ける愁斗は、やがて勢いよく手を伸ばす。

 そうして捕まえたのは碧海の手首。


「――キャッ!」


 小さく鳴る碧海の悲鳴とともに胸に抱き寄せた愁斗は、お尻を守るように太ももで隠してやった。


「すまん。こいつは俺のことが好きらしいからいじめてやんな」


 子どもたちを傷つけないためにか、顔にあるのはほほ笑み。

 目の奥に怒りもなければ、口調も優しいと言ったらありゃしないもの。


 それでも、少年たちの心から楽しさを奪うには充分だった。


「チェー。つまんねぇのー」

「やっぱりカップルじゃん」

「お姉さんのブース!」


 他にもガヤガヤと言っていたが、愁斗と碧海には微塵のダメージも受けていなかった。

 愁斗はもっとひどいことをされたからもあるが、それ以前に『ブス』だとか『バカ』だとかの暴言の内容が薄すぎたから。


 それでも『ブス』は流石の碧海でも傷つくだろうと見下ろしてみたのだが、そこに居るのはこれ見よがしに頬を緩ませた姿の碧海。


 そう。碧海がノーダメージなのは、今この瞬間に愁斗に抱き寄せられているから。

 先程も述べたように、碧海の中では好きに勝るものなんてなにもないのだ。それ故に、抱き寄せられたという事実を前にして、こんなクソガキ共の悪口など微塵も耳に入っていない。


 ある意味プラスに働いてくれたから良かったものの、心配した愁斗は己の過ちに後悔を抱き、それと同時に抱き寄せたことの失敗例も味わった。


「……もう二度としねぇからな」

「なんでよぉ〜。私はいつでもウェルカムだよ〜」

「舐めんな潰すぞ」


 溶けっ溶けの言葉に冷めきった言葉を返す愁斗なのだが、当然のようにノーダメージの碧海の頬は緩んだまま。

 でもその緩みが少年たちの心にダメージを与えたのだろう。


 心底楽しくなさそうにシワを寄せた少年たちは、「行こうぜ」と口にしたサッカー経験者らしき少年を筆頭にわらわらと散らばっていく。


 好きな人じゃなくとも、気になる人をとられた時は心に相当な傷がつく。

 疑似BSSとも言えようその状況を一番知っているのは紛うことなき愁斗でもあり、愁斗の周りに居た男子生徒のみんな。


 だからこそ申し訳無さを思う反面、哀れだとも思う。

 自分よりも下に立つ人間が、ばかみたいな行動をして自ら好きな人を手放す行動。自分磨きもせず、受け身な姿勢のままで好きな人が離れていく光景。


 そのすべてを見て、バカだと思う。


 好きな人が居るのならアタックに行けば良い。それこそこの胸の中にいる少女のように、付き合えるまでアタックし続ければ良い。

 それができないあの少年たちの恋はきっと、実ることができないのだろう。


「おいごらそろそろ離れろ」


 疾うの昔に腕と太ももを離してるというのに、全く持って離れない碧海。それどころか、さらに求めるように後頭部を胸に擦り付けている。


 ヒシヒシと抱き寄せた後悔が実る中、頭を鷲掴みにした愁斗は力いっぱいに体から引っ張り離す。


「言っとくが、俺は好きじゃないからな」

「知ってますよぉ〜?でも、これから好きになってくれます〜」


『頭を鷲掴みにされていること』を、『頭を撫でていること』と勘違いでもしているのだろうか。

 緩みが収まることのない碧海は微塵の抵抗も見せずに体から離れていく。


 そうして、吊るされた干物のように脱力した腕はどこかを掴むこともなく呆気なく1メートルほどの距離を置かれてしまう。


「もっと抱きつきたかった……」


 手を離してしまったからだろう。物腰そうに腕を伸ばす碧海だが、当たり前のように避ける愁斗は……蛇口を捻った。


 ――バシャバシャバシャッ


 勢いよく出される水はそんな音を掻き立て、流石の碧海の動きもピタリと止まってしまった。


 言わずもがな、次に愁斗が起こした行動は手を清めるもの。

 緑色の石鹸を何度も手のひらに伸ばし、指先やら爪の間やらを隅々まで泡立てていく。


「ひょ、氷野くん……?なぜ手を洗うんだい……?」


 氷のように固まった口でようやく開けた言葉は絵に描いたようなカタコト。

 そんなカタコトに当然のような顔を向ける愁斗は、ほほ笑み顔なんて消し去った真顔で紡ぐ。


「水瀬の体を触ってしまったからな。洗うのは当然だろ?」

「当然じゃないけど!?なんなら1年間洗わなくてもいいけど!?」

「やだよくせぇ」

「臭くても私は好き!」

「俺は嫌い」


 きっぱりと言い放った愁斗は泡を洗い流し……そして、またもや泡を広げた。


 二度手間といえばそれまでだが、2回手を洗うことによって生まれるメリットもあるらしい。

 ウイルスや細菌の数を減らすことができ、食中毒や感染症の予防に効果的と世間一般的に言われているらしい……が、今の愁斗が行っているのはそんなものとは一切関係ないもの。


 不満を抱く碧海だが、当然のように愁斗の行動を止めることもできずにその光景を見守ることしかできなかった。

 ポケットに仕舞うこともない金青のハンカチを握りしめながら。

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