第23話 勇気
『ル・リアン』の扉を開けた瞬間、空気が変わった。
冬のあいだ私を迎えてくれていた暖炉の匂いも消え、代わりに、吐息さえ凍えてしまいそうな冷気が漂っている。
「……っ」
思わず足を止めた私の隣で、露木くんもそれが見えているのか、息を詰めていた。
言葉は交わさなかったけれど、きっと、同じものを感じていた。
店の奥。
そこだけが歪んでいるように見えた。
まるで、現実と別の何かが重なってしまったような、異質な気配が渦を巻いている。
二本の黒い糸が、天井近くまでゆらりと伸びていた。
お互い絡まりながら、ゆっくりと蠢くその動きは、まるで生き物のようで、今にもこちらに向かってきそうな、圧迫感を孕んでいた。
あれは——【影糸】。
けれど、私が昨日見たものとは、明らかに違っていた。
もっと濃く、もっと重く、どろりと濁っていて、触れたら吸い込まれそうな気がする。
それは、影糸が二本のせいなのか、それとも、もう【呪い】に近づいているせいか。
葵さんの時とはまた違う、凄まじい影糸の気配に足がすくみ、奥へと踏み出す勇気が出なかった。
(このままじゃ後藤くんの縁の糸が完全に【呪い】になってしまう……!)
大丈夫、大丈夫……。
自分にそう言い聞かせながら、震える手をぎゅっと握りしめた。
すると、握りしめた手に、かすかなぬくもりが重なる。
指先に伝わるぬくもりが、胸の奥に、音もなく沁み込んでいく。
「大丈夫」
初めての光景に戸惑っているはずの露木くんの一言が、私が何度も自分に言い聞かせるより、ずっと真っ直ぐに心に届いた。
きっと、気づかれたんだと思う。
見えないなんて嘘をついた私を責めることなく、彼は私の不安に気づいて、こうして優しく寄り添ってくれる。
あんなに独りになりたがっていたはずの私が、今では彼と一緒にいることにほっとしているのが、なんだか可笑しくて、思わず苦笑しそうになる。
互いに視線を交わし、そっと頷いた私たちは、影糸のうごめくその奥へと、一歩ずつ近づいていく。
足音さえ吸い込まれていくような沈黙の中、私たちは慎重に歩を進めた。
恐る恐る足を進めるたびに、視界をふさいでいた影の糸が退いていき、少しずつ前が見えるようになる。
そして、やがて視界が開け、ようやく彼の姿が見えた。
ソファに沈み込むように座り、まるで時が止まったかのように、後藤くんは
両手で顔を覆い、ただそこに、置き去りにされた人形のように座っている。
影糸が、彼の身体にぴたりと貼りつくように巻きついていた。
首元から腕、脚、背中にかけて、まるで入れ墨のように肌を這い、じわじわと広がっている。
その糸からは、言葉にはできない感情が滲み出しているようだ。
悲しみ。
怒り。
諦め。
どうしようもない孤独。
それが混ざり合い、重さとなって、じわじわと私の身体を押しつぶしていく。
息が苦しくて、無意識のうちに首に手を添える。
「悠真……」
露木くんの喉から、掠れた声で後藤くんの名がこぼれた。
それでも彼は、まるで聞こえていないかのように、顔を上げようとしない。
その代わりに、影糸が静かに揺れた。
ぴくりと、生き物のように。
私は、ほんのわずかなその変化を見逃さなかった。
「ごとう、く……!」
「来んな……!!!!」
彼の名前を呼ぼうとしたけど、耳を
黒い糸が跳ね上がり、空間がびりつく。
その叫びに呼応するように、影糸が荒れ狂い、今度は私たちの胸の奥まで締めつけるような痛みが走る。
「来んなって言ってんだよ!!」
怒鳴りながら、後藤くんは私たちを睨む。
その瞳には敵意で溢れていて、思わず視線を逸らしたくなったけれど、隣にいる露木くんの気配が、背中をそっと支えてくれていた。
私は目を逸らさずに、その痛みに満ちた視線を正面から受け止める。
後藤くんは、ぎりっと奥歯を噛みしめた。
「見てたんだろ……。俺が、親父とぶつかってたとこ」
見られていたことに気づいていたんだ。
私と、露木くんがあそこにいたことを。
「どうせ、おまえらだって笑ってたんだろ。夢とか言って、ガキみたいにって」
そう言って、後藤くんはかすかに笑った。
鼻で笑うような仕草だったけれど、その笑みはどこか壊れていて、口元だけが不自然にゆがんでいた。
その刹那。
黒い蛇のような影糸が、彼の背から音もなく伸び、私たちへと這うように近づいてくる。
その先端が、牙を剥いた獣のようにこちらを睨みつけた瞬間、空気が一変した。
肌を刺すような気迫に、私は息を呑み、喉が自然と鳴った。
『ル・リアン』がまた、葵さんのときと同じように、彼の影糸に反応している。
空間そのものが、怒りという呪いに侵されていくのを、ただ見ているしかなかった。
後藤くんの瞳が私を捉えた。
「十七年も一緒にいたのに、なんで俺の好きなもん、ひとつも知らねぇんだよ……。あんまり話してないお前のほうが、よっぽど俺のこと、わかってんじゃねぇか」
横から、愛斗がそっと口を開いた。
「大丈夫。ちゃんと話せば、きっと伝わるよ。だから、おじさんと、もう一度だけ話そうよ」
その一言に、悠真の肩がぴくりと跳ねた。
「……もう一度?」
かすれた声には、
顔を伏せたままの後藤くんが、ぐっと奥歯を噛み締める気配に、場の空気がわずかに震えた。
「何が『もう一度』だよ……!」
怒りが爆発するように、足元をドンと踏み鳴らす。
一度、二度、三度。苛立ちを吐き出すように、地面を何度も蹴りつけた。
「何回言ったと思ってんだよ!何十回、何百回だよ!
俺の夢のこと、ずっと言ってきたんだ……!聞いてほしかったから。認めてほしかったから……!」
後藤くんが心の奥に潜めていた想いに気づいて、喉の奥で言葉が止まった。
「けどさ……あの人は、全部無視したんだよ。俺の言葉も、俺の気持ちも、俺の夢も……全部、バカにしたんだ」
足元に、ぽたりと涙が落ちた。
拳を固く握ったまま、後藤くんはゆっくりと顔を上げる。
その視線の先には、何も言わずに立つ露木くんがいた。
「お前には、わかんねぇよ。お前みたいな、臆病者にはな!」
「……!」
影糸に呑まれた後藤くんの口から吐き出されたその言葉は、容赦なく人を傷つけていく。
隣にいた彼の睫毛が、かすかに震えた。
「誰にでも優しくしてりゃ、誰のことも傷つけないって思ってんだろ? ちげーよ。お前のその無関心が、一番、人を傷つけるんだよ」
その言葉を吐き終えたあと、後藤くんはそっと目を閉じた。
静かに落ちた涙が、またひとつ、床を濡らす。
「愛斗……お前が、俺を救ってくれたんだ。たぶん、お前はもう覚えてないかもしれねぇけど」
息を整えるように、彼はわずかにうつむいた。
「お前が小学生のときに転校してきてから……なんか少しずつ、俺も変わってった気がする。ずっと一人でいいって思ってたけど、お前だけは、無理やりでも引っ張ってくれたからさ」
露木くんの目がわずかに揺れる。
自分がそんな存在だったとは思っていなかったように。
「あのとき、覚えてるか?クラスで財布がなくなって、俺、疑われたよな。
でも、お前だけは違うって信じてくれた。ずっと、俺の味方だった」
顔を少し上げて、切なげに露木を見る。
「嬉しかったんだよ。誰かと友達になりたいって、あのとき初めて思った。でも……近づけば近づくほど、俺たちはだんだん『仲のいいフリ』をするようになっていった」
その言葉を吐き出した瞬間、後藤くんの表情が一気に歪んだ。
「その癖になんだよ!心配しているふりするんじゃねーよ!」
拳をギュッと握りしめて、強く吐き捨てた。
「悠真、俺は———」
「うるさい!!」
露木くんの言葉など聞きなくないと、首を強く振る。
「心配してるフリなんて、やめろよ!どうせ……俺のことなんか、見下してたんだろ!?優しい顔して近づいたって、もう信じられねぇよ!もう、放っといてくれよ!」
後藤くんの怒りが頂点に達したその瞬間、彼の周囲の影糸が静かにうねり始めた。
それはまるで、獲物を狙う蛇のように、音もなく滑らかに、こちらへと伸びてくる。
黒く細長い糸が、鋭い牙のようにちらりと光りながら、ゆっくりと首筋へと迫っていく。
空気は一気に張り詰め、息をする音さえかき消された。
その迫りくる影は、後藤くんの奥底に渦巻く絶望と怒りを、ありのままに映し出すようだ。
私は思った。これはもう、【呪い】に変わる一歩手前だ、と。
「どうして親だからって自分の子の夢を踏みにじる権利があるんだよ……」
まるで何かに縋るように、彼は地面に落ちていく。
崩れ落ちる後藤くんを見て、気づけば私は口を開いていた。
「後藤くんは……すごいよ」
「……は?」
眉をひそめて、疑うように、そして少し怒ったような表情で私を睨んだ。
声は震えていて、どこか壊れかけた氷のように、危うい音を立てていた。
「バカにしてるのかよ……」
私は、すぐには言葉を返せなかった。
一瞬、喉の奥で何かがつかえるような感覚がして、唇を閉じる。
それから、ふっと小さく息を吐いた。
「ううん、そうじゃないよ」
少し間を置いてから、私はぽつりと続けた。
「私は、お母さんと仲が良くない。将来のことなんて話したこともないし、きっと、お互い好きな食べ物も知らないと思う」
それは、今まで誰にも言ったことのない言葉だった。
「お母さんが求めるような立派な人間には、どうしてもなれない気がして……それが怖かったんだ」
声が震えそうになるのを、懸命に堪えながら続ける。
「だから……後藤くんは、すごいと思う」
「……」
「否定されても、自分の夢を諦めずに、何度もぶつかって、ちゃんと言葉にしてきたんだよね。それって、簡単なことじゃない」
黒い糸が、ほんのわずかに揺れた。
「なにが、すごいんだよ……。全部怒鳴られて、夢を馬鹿にされたじゃないか」
後藤くんは、悔しさを隠すように目を伏せた。
私は、そっと彼を見つめた。
「でも、それでも伝えようとしたんでしょ?」
小さく、彼の視線がこちらへ動く。
「何度否定されても、諦めずに、自分の夢を口にしてきたんでしょ?それって、すごく勇気がいることだよ」
後藤くんの眉が、ほんのわずかに動いた。
「だから、後藤くんがやってきたこと、すごくて……まぶしいって思った」
一瞬、静寂が落ちた。
彼は、まだ顔を伏せたままだった。
その沈黙を破ったのは、私のすぐ隣からの声だった。
「小谷野さんの言う通り、悠真はすごいよ」
その声は、私の隣からだった。
振り向くと、露木くんが黙って後藤くんを見つめていた。
その瞳には、揺るぎのない強さが宿っていた。
「俺だったら、そんなふうにぶつかれなかったと思う。実際、俺も怖くて、言えなかったから……」
小さく笑うその横顔が、どこか寂しげだった。
「本当の俺を見せて、誰かに嫌われるくらいなら、何も言わない方がマシだって……ずっと、そうやって逃げてたから」
少しだけ、拳を握る指が震えているように見えた。
「でも、悠真は……ちゃんと伝えた。届かなくても、信じてもらえなくても、それでも夢を、言葉にしたんだ」
硬く閉じていた心の殻が、ひとつ、音もなく剥がれ落ちたようだった。
「だから……心から、尊敬してる」
その言葉に後藤くんの瞳が激しく動く。
先ほどまで荒れ狂っていた黒い糸も、どこか迷うように動きを鈍らせていた。
ふと、露木くんが動いた。
決意を固めたようなまなざしで、彼は一歩、そしてまた一歩と、サンルームの方へと歩き出す。
(まさか……!)
私は彼の行動に驚いて、その背中を見送ることしかできなかった。
彼の
やがて、木目の美しいピアノの前に立った彼は、そっと蓋を開けた。
彼の震える手が、淡く光る鍵盤へと伸びていく。
そして、自分を落ち着かせるための吐息は、空気に溶け、白い
長いその指が奏でる旋律は、美しくも切なく、『ル・リアン』の空気を静かに満たしていった。
それはまるで、誰にも届かなかった想いを、一音一音、ほどいていくような音色だった。
「はは……。なんだよそれ……」
小さな声でそう呟いて、彼はくしゃっと前髪をかきあげた。
ふと、揺らめく空気の中で――彼の背から垂れていた黒い糸が、そっと震え、やがて淡い青に染まっていく。
光に透けたその糸は、まるで闇を脱ぎ捨て、光に染まっていくように、儚く、そして美しかった。
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