第22話 踏みにじられた夢




風のない朝だった。


薄曇りの空の下、私はマフラーに頬をうずめながら、冬期湛水とうきたんすいで水をたたえた田んぼ沿いの道を歩いていく。

水の引かれた田んぼには霜が降りていて、ところどころ白く光って見えた。

あまり眠れなかったせいで、頭はどこかぼんやりとしていて、私はただ、昨夜の出来事を繰り返すように思い返す。


『俺のこと、友達だって、思ってくれてるのかよ……』


あの時の後藤くんの声が、まだ耳の奥で揺れている。

その声には、寂しさと、どうしても届かない想いが滲んでいて、聞いているだけで胸が痛くなった。

そして、彼の背中から伸びたのは、細く、黒い、それでいてぞっとする【】。

後藤くんの感情を映し出すように揺れていたその糸が、私にしか見えないはずのそれが。


なぜか、露木くんの目にも映っていた。


「今の……小谷野さんにも、見えたよな?」


露木くんの問いに、私は視線を逸らし、「み、見間違いじゃないかな」と答えるのがやっとだった。

露木くんは怪訝けげんそうに私を見つめたまま何も言わず、その視線が痛くて、私は最後まで目を合わせられなかった。

その後、アンを探してみたけれど、彼女の姿はもう、どこにもなかった。

露木くんにも糸が見えていたことくらい、アンならとっくに気づいていたはずだ。

なのに、何も言わない。

きっと、今回もまた答える気なんてないのだろう。

いつものように、私の反応を遠くから眺めて、一人で面白がっているに違いない。

あるいは、これもまた、彼女の企みのうちなのかもしれない。


(だとしたら……)


私は足を止め、深く息を吸う。

そして、踵を返すと、学校とは反対の道へと走り出した。

冷たい風が頬を叩いて痛くても、鼓動が速くなるのを感じても、足を止めようとは思わなかった。

息を整えながら辿り着いたのは、『風見庵かざみあん』。

張りつめた冬の静けさのなか、古びた木造の和菓子屋が、町並みに溶け込むようにひっそりと佇んでいた。

けれど、その黒瓦くろがわらの屋根も、格子戸こうしどの影も、今の私には、どこか孤独に映った。

私が一歩、踏み込んだその時。

冷えた空気を切り裂くように、小さな怒鳴り声が、風に紛れて耳に届いた。


(悠真くん?)


聞き覚えのある声に、反射的に音のする方へ足を向ける。

風見庵の横手にまわり、そっと顔をのぞかせた。


「ダメだと言っているだろ!!」


怒鳴り声に思わず肩をすくめ、私は強く目を瞑った。

恐る恐る目を開けると、制服姿の悠真くんと、作務衣に和帽子姿の中年の男性が、ぴたりと睨み合っていた。

昨日の頬の痣が青紫に変わった悠真くんの顔には、悔しさと怒りが入り混じったような色が浮かんでいた。

一方で、たぶん悠真くんのお父さんだと思われる男性は、何やら白い紙を手に、苛立ちを隠そうともせずに彼を見下ろしている。


「この紙はなんだ。お前は風見庵を継ぐ。そう書けと言ったはずだ」


低く、しかし揺るぎのない声だった。

話からして、たぶん、進路希望調査書のことだろう。

作務衣姿の男性は、微動だにせず、後藤くんを上から見下ろしている。


「ふん。俺の勝手だろ?」


鼻を鳴らした後藤くんの態度に、男の眉がピクリと動く。

二人の間に、刺すような沈黙が落ちた。

でも、後藤くんの目は決して逸れず、まっすぐ相手を射抜いていた。


「俺には……俺がやりたいことがある」


慎重に選んだ言葉。

でも、その目は真っすぐで、隠しきれない熱が宿っていた。


「ふざけるな。お前、本気でそんなことで食っていけると思ってるのか?くだらないゲームなんかに夢中になって、現実から目を背けてるだけだろうが。遊びと仕事の区別もつかないガキが、夢なんて口にするんじゃない」


嫌だな、と思った。

他人の家のことだし、私が口を挟むべきじゃないのも分かってる。

でも、自分だけが正しいと信じて、子どもの声を聞こうとしないその姿が『自分の正論』を振りかざして私に背を向けたお母さんと重なって、胸がざわついた。


「それに、一人息子のお前以外、誰がここを継ぐんだ」

「知らねーよ! 養子でもいればいいだろ!?」


思わず耳を塞ぎたくなるほどに、怒りの混じった声が響く。

押し込めていた感情が、堰を切ったように言葉となって溢れ出した。


「俺には俺の人生があるんだよ!勝手に俺の人生決めんな!!」


けれど、後藤くんのお父さんは、カッと顔を赤く染めると、その怒りのままに手を振り上げる。


(殴られる!)


思わず私は息を呑む。

けれど、その手は、宙でぴたりと止まった。

一瞬、彼の目が、後藤くんの頬の痣に引き寄せられた。

その視線が揺れたように見えたのは、私の気のせいだったのかもしれない。

次の瞬間、後藤くんのお父さんは腕を下ろし、そっと目を逸らした。


「……いい加減にしろ。甘えるな」


低く、吐き捨てるような声。

そして、彼の手元にあった進路希望調査書を、ぐしゃりと音を立てて握り潰すと、そのまま無造作に破り捨てた。

破かれた紙片が、後藤くんの夢が、地面に散っていくのを私は呆然と見つめることしかできない。

まるで、自分の胸の奥までぼろぼろにされたような、そんな痛みが走って一歩も動けなかった。


「紙は先生に言って新しいのを貰え」


言い捨てるようにそう言うと、彼は背を向け、店の奥へと消えていった。

ぽつんと取り残された後藤くんは、まるで時間が止まったかのように、その場に立ち尽くしていた。

っと噛みしめた唇と、かすかに震える拳が、声に出せない悔しさを全身で語っていた。

そのやるせなさに、私はどんな言葉をかければいいのか分からない。

言葉を探している間も、後藤くんはじっと地面を見つめたままだった。


「……なんで……」


ぽつりとこぼれた声は、誰に届くこともなく、消えてしまう。

でも、そのひと言を最後に、彼は感情に背を押されるように、全力で駆け出した。


「あっ!」


その背中を追いかけなきゃ。

そう思って、私は一歩を踏み出しかけた——その刹那、誰かの手が、私の肩を掴んだ。


「——っ!?」


驚きに思わず声を上げそうになった私の口を、すばやく別の手が塞ぐ。


「シッシ、静かに」


すぐそばで囁かれた声に、思わず肩がびくりと跳ねた。

けれど、それが露木くんの声だと気づいたとき、私はゆっくりと、何度も頷く。

彼はそれを確認するように、ほんの少しだけ間を置いてから、ようやく私の口元から手を離してくれた。

手のひらの感触が消えた瞬間、張り詰めていた緊張が一気に抜ける。

今にも早鐘を打ちそうな心臓に手を当てながら、私は小さく息をついた。


「なんでここに……?」


問いかけると、露木くんは一瞬だけ肩をすくめるようにして、視線を外した。

短い沈黙が流れた後、ようやく口を開く。


「……君が来そうな気がして」


思いがけないその言葉に、胸の奥がきゅっと鳴った。

驚いて、どう返せばいいのか分からず、私はただ唇を結んだまま、彼を見つめていた。


「なんとなく、だけど……昨日悠真のこと、放っておけないって顔してたから」


露木くんは、悔しさをこらえるように顔を歪め「……俺も、気になってたし」と、少しぶっきらぼうに言った。

目は合わせず、唇を噛みしめながら、じっと遠くを見つめている。

その横顔を見た瞬間、私はふと気づいた。


(露木くんも、あのやり取りを見ていたんだ)


後藤くんとお父さんの言い争いを。

露木くんは何も言わなかったけど、その目の奥に、言葉にならない想いがちらりと見えた気がした。


「追いかけるだろ?」


そう言い残し、彼は歩き出した。

呆然とその背中を見送っていた私は、はっと我に返り、あわてて足を動かした。


「後藤くん、たぶん……『ル・リアン』に向かったと思う」


その言葉に、露木くんの足が止まる。

振り返った彼は、驚いたように目を見開いた。

けれど、それ以上は何も聞かず、ただ一言。


「——行こう」


その言葉を合図に、私たちは『ル・リアン』へと走り出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る