流浪少女と非行青年のオークワードライフ ~Awkward Life of a Lost Girl and a Lonely Boy~

二核

プロローグ

 休日の昼間――。

 僕は車の窓から背の高いビルや、家族や恋人が歩く姿を眺めていた。

 車はそんな喧噪な街を離れ、静かな住宅街へと移っていく。

「坊ちゃん、ご到着致しました」

 静かすぎる空気にいつの間にか寝息を立てていた僕に、世話係の江坂は気分を害さないようそっと僕の肩に触れて起こしてくれた。

 僕はぼやけた視界に目をこすり、車を降りる。

 そして、目の前の建物を見上げると、何十メートルもの高さで聳え立つ大きな病院が見えた。

「さぁ、参りましょう」

 江坂が差し伸べた手を取り、僕たちは一緒に病院の中へ入った。



「(失礼、面会を希望したいのですが……)」

「(はい、それでしたら……)」

 江坂が手続きしている間、僕は近くの長椅子にもたれかかった。

 退屈を紛らわすように周囲を見渡すと、同い年くらいの男の子が元気そうに僕の前を通り過ぎ、看護師さんは振り回されるように追いかけていた。

 廊下側に目を移せば点滴を打ちながら院内を歩いている老人が、看護師さんとすれ違うとお互い明るく挨拶している。

「それでは行きましょう。坊ちゃん」

 手続きを終えた江坂が、二人分のネームプレートを持って僕の下に戻ってきた。

 僕はひょいと椅子から離れ、目的の場へと足を動かす。

 院内を歩くとガラス張りのキッズスペースで、子どもと一緒に遊んでいる看護師さんの姿が映っていた。

 これからリハビリテーションに行く松葉杖のお兄さんと、付き添いのトレーナーさんが前からやってきて、すれ違うと江坂はその人たちに軽く会釈する。

 いろんな患者が集うこの病院は心なしか職員も含めて皆笑顔に満ち溢れて、僕よりもよっぽど健康なのではないかと思えてくる。

 エレベーターで病院の屋上の一個下である9階まで登り、目的の907号室の入り口まで辿り着いた。

 しかし、何故か扉は既に空いていて、中はもぬけの殻だった。

 部屋の向こう側では窓が全開になっており、カーテンが風でゆらゆらと揺れている。

「先生、また逃げられました!」

 一人の看護師が顔を真っ青にして、近くを通りかかった先生に報告する。

「またか! 全くあの人は……」

 看護師の報告を聞いた病院の先生は、呆れたように大きな溜息をついていた。

 看護師の言葉と907号室の現状からして、この部屋の患者の誰かが勝手に病院を抜け出そうとしたのだろう。

 看護師さんの”また”という言葉で、その人は常習犯なのだと分かる。

 何よりも重くのしかかるのはこれから僕が会おうとしているのは、まさに907号室の人間という事実だ。

 本当に会って大丈夫だろうかと、期待と不安の釣り合いから一気に不安に傾いてしまった。

「ちょっと外の空気吸ってくる」

 僕は江坂に一言添えて、一つ上の屋上で外の空気を吸いに行った。



 屋上から見上げれば雲は一切見えず、どこまでも青く澄み渡った空があった。

 春を告げるような生暖かいそよ風が布団や枕のカバーの洗い物がふわりと揺らし、洗いたての甘い香りを漂わせている。

 僕はそんな洗い物の中を通りながら、街を一望できるところまで歩み進める。

 すると、洗い物の白い布に映る人の形をした一つの黒い影が、僕よりも高いところに映っているのが見えた。

 僕の見ている方向には、フェンスしかないはず。

 悟った僕は影に向かって、小走りで洗い物の道を駆け抜ける。

「はぁ……はぁ……」

 息を切らしていた僕の目の前に映っていたのは、今にもフェンスの外に飛び出そうとしている病衣を着た大人の女性だった。

 その女性は何十メートルもあるような長いロープを、一本のフェンスと腰に巻き付いている。

 風でサラリと靡く長い黒髪は、僕の視界から太陽を遮った。

 しかし、今その女性がとんでもないことをしでかそうとしていることには変わらない。

「あの……危ないですよ」

 僕は愚行を早まらせないように、慎重に入る。

「止めないで少年。これは一世一代の大脱走劇なの」

「でも、そのロープじゃすぐに切れるんじゃ……」

「心配無用、私軽い女だから。あっ、軽いっていうのは性格じゃなくて体重のほうね」

 わざとらしくウインクされても、この状況では全然面白くない。

「どうしてそんなにここから出たいんですか? 病室の窓を開けたのってあなたですよね?」

 この病院は北と南に出入口があり、北向きの907号室の窓から出たと思わせれば、彼女を捕らえるスタッフは近い北側の出口に集中する。

 そこで、南側のフェンスから降りれば、容易く逃走できるという算段だったのだろう。

「君、察しがいいのね」

 彼女は正体がバレた犯人のような不敵な笑みを浮かべる。

「下で大騒ぎになってますよ。907号室の患者さんがまた逃げだしたって。あなたのことですよね?」

「フフッ、その通り。まさか子どもに見つかっちゃうなんて、私もまだまだね」

 自身の勝手な行動に悪びれることもなく、彼女は笑い飛ばしていた。

「君、名前は?」

「僕は……」

 ある暖かい春のこと――。

 出会うはずだった僕とその人の失いかけていた時間が蘇ろうとしていた。



 これは、僕が忘れかけていた彼女との物語――。

 そして、俺たちが紡ぐ出会いと別れの物語だ。

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