Cherry Blossom Shower

佐藤或都來

第1話 Cherry Blossom Shower

 そう言えば、こんな風に桜が散り始めた日だった、とふと思い出した。

 彼は悲しそうに「わかった」と言ったっけ、と。胸の奥にちくりと小さな痛みが走る。


 一年前も美しく桜が花開き、風がピンク色の花弁をふわりと踊らせ始めていた。後数日で、花を失った桜は代わりに緑の色を生み出すのだろう。そう思われる頃だったと記憶している。


 その日、手を差し出す彼に私は「もう、一緒にいるのが辛い」と告げた。



 私たちが出会ったのは彼が高校二年生、私が大学一年の終わり頃。知り合いの伝手で家庭教師として週に一回顔を合わせる関係だった。


 真面目で優秀な彼が、知識を吸収し成績を上げて行く様子が誇らしかった。

 時々幼い子供のようなわがままを言うところも、ふとした時に見せる笑顔も愛らしいと思った。

 愛らしい――そこまでで止めておかなくてはならないと、やがて自分を律することになった。私は彼に惹かれ始めていたのだ。


 彼は無事、志望の大学に合格した。嬉しい連絡をもらった時は、自分のことのように涙が溢れて止まらなかった。もう会えなくなってしまうけど、これで良いんだと自分を納得させる涙でもあった。


 だけど、彼から「直接お礼を言いたい」と会うことになり、その時に「ずっと好きでした」と言われたのだ。


 天にも昇る心地とほんの少し芽生えた不安の中、私は彼の差し出す手を取った。私たちは恋人同士になったのだ。


 だけど。

 だけど、あの時小さく芽生えていた不安の芽は、時を追うごとに成長して行った。


 大学という新たな環境に順応して行く彼が、少しずつ輝いていく様子を直視することに私は恐怖した。

 彼がキラキラと輝くほど、自分の輝きは失われて色褪せていくように感じるようになったのだ。


 彼の新しい世界の中に、私はいつまで存在させてもらえるんだろう?

 私は今、彼の新しい世界のどの辺りに立っているのだろう?


 私はやがて「いつか別れを告げられる前に」と考えるようになってしまった。


 そして、「一緒にいるのが辛い」と桜舞い散るあの日に告げたのだ。




 何故そんな事を思い出したのかと言うと、目の前の国道の向こう側に、元彼に雰囲気が似た人物を見つけたからだ。恐らく恋人同士なのであろう、仲の良さそうな男女を。

 道路を挟んでいることで気が緩み、思っていたより注視していたようだ。私の視線に気づいたらしく、元彼に似たその人物がこちらに目を向けた。


「あ……」


 彼だ。


 髪の色が少し明るくなり、雰囲気も変わっているけれど、間違いない。


 うっかり目を逸らすのが遅れてしまい、目が合ってしまった。

 彼の様子を見て、隣の女性も振り返り私を認識する。

 恐らく彼と同じくらいの年齢で、とても可愛らしい人だった。


(お似合いね)と思い、ちくりと切なさが胸を刺す。


 私は、逃げた。

 今自分がどの方向を走っているのか、わからないくらいに動転しながら。



✴︎



「どうした?」


 隣の友人に声をかけられるまで、僕は道路の向こう側に見えた、ある女性を見つめていることに気づかなかった。

 一年前に別れた、元彼女にとても似ていると思ったのだ。

 友人も振り返り、同じ方向を見る、と、その人物は視線を逸らす。――いや、彼女だ。間違いない。


「キレイな人……あれ? まさか、例の?」

「ああ、うん、多分……」


 友人は僕に向かって叫んだ。


「バカ! 追いかけな! このまま見失ったら、アンタ一生後悔するよ!」


 友人は、突然の疾呼に呆然とした僕に追い打ちをかけるように言う。


「ボケっとしてない! 『今でも忘れられない』って玉砕してきな! ほら!」


 と、突き飛ばすように背中を強く押された。そして道路の向こう側を見、件の人物が場を離れる様子を察して、


「ちょっ、やだ! 見失う! はやく!」と強く促した。


 僕は「ごめん」と言うと、道路の向こう側で走り始めている彼女を目で追った。


「あたしが今の彼とうまく行ったのはアンタのおかげなんだから、気にしないで行って! いい報告を待ってるから!」


 僕は友人に軽く頷くと、向こう側に渡る信号に向かって走り出した。


 背中に向かって「彼への買い物付き合ってくれてありがとー!」と友人が叫んでいる。


 今日は風が強く、小さなピンク色を遠慮なく舞い上げている。

 横断歩道を渡り切り、もう小さくなりギリギリ視認できる彼女の背中を目的地として見据えると、花びらを伴った風が僕の周りをくるりと回った。


 それはまるで、先祝いの紙吹雪のように僕にまとわりついた。


 彼女は、僕を覚えているだろうか。

 そして、もう一度僕を受け入れてくれるだろうか。


 僕は嘗て、差し出した手を恥ずかしそうに受け入れてくれた彼女を、そして一年前に泣きそうな顔をしながら「一緒にいるのが辛い」と告げた彼女を思い出しつつ、足を早めた。



「この一年、僕はあなたを忘れることができなかった」と告げなくてはならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Cherry Blossom Shower 佐藤或都來 @Azuki_sth

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ