第三話 アイスの好み

 待ちに待った夏休みが始まった。宿題ががっつりと出されたけれど、それらを片付ける作業も基本的にはほぼ全て終わらせた。残ったのは日記と自由研究。これらはどう頑張っても1日では終わらない難敵だ。


 兄は部屋でテスト勉強をしている。大学は7月いっぱいまでテストがあるらしく、僕らは一足早くに夏休みを満喫できる。この時ばかりは優越感に浸れるが油断してはいけない、大学の休みは9月の真ん中まであるのだ。つまり総合的に見れば僕らの夏休みよりも長いため長期的には僕の負けが確定する。


「アターック」


 背後から脚を攻撃された。すっかり油断していたがその攻撃は全然痛くない。振り返ると妹の奏は得意げな顔を浮かべていた。


「どぅどぅーん、樹ちゃんはやられてしまいました」


「ぐ、ぐはー。やられたー」


 倒れたふりをする。すると奏は大喜びで僕の上に乗ってぴょんぴょんジャンプした。こっちのほうが痛い。


「奏ちゃん、僕ちょっと出かけてくる」


「なんでー、奏も外遊びに行きたい」


「勝手に連れ出したらお母さん怒るから。代わりにアイス買ってきてあげる」


「あー!じゃあハピーコがいい!しぇやはっぴー!するやつ!」


 馬乗りになっていた奏を難なく退かし、僕は自宅からの脱出に成功したのである。時刻は午前10時。日はすでに上がりきっており灼熱と化していた。


「今日もいい天気でございますね」


 そして遭遇する、例の鹿である。


 僕はご立派な角が僕の服を引っ掻いてくるのをすんでのところでかわした。鹿はこれ見よがしにその角を堂々と見せつけてくる。鹿界隈ではかっこいいの象徴なのだろうが、あいにく人間界隈ではただ危ないだけの迷惑なものだ。


「今日はどちらまで行かれるのです」


「ちょっと近くのスーパーでアイスを買いに」


「いいですね、ご一緒させていただいてよろしいでしょうか」


「ダメって言ってもついてくるくせに」


 自宅から歩いていくこと十数分、我ら奈良県民が集う憩いのスーパー、関西スーパーの看板が見えてきた。


 本当はコンビニの方が近いけれど物価上昇のこのご時世、節制を余儀なくされている状況である。


「ハッピーコはやっぱりチョココーヒー味が好きですね」


「え、鹿もハッピーコ食べることあるんだ」


「はい、たまに。観光されてる方からいただきます」


「それはその観光客のマナーがなってないね」


「マナーはどうであれ、我々は差し出されたものを食べるのみです」


「鹿せんべい以外あげたらダメなんだよ本当は」


 関スパの駐車場を跨ぎ店内に入ろうとした時、鹿も入ってこようとしたのを今度は僕がブロックする番だった。今回は鋭い角があるせいで前回以上に分が悪い。


「なにあれ、鹿がダンスしてる!」


「衛生面どうなってるのかしら」


 また僕らが悪目立ちしてる。これだから鹿と一緒にいたくなかったのに。


「今日は特に悪いことやってないじゃない」


「いいえ、あなたはホワイトサワーを買おうとしています。妹さんが食べたいのはチョココーヒーのほうです」


「そんなわけがないよ。コーヒー苦いって言うに決まってる」


「チョココーヒーを苦いと言った人間を私は見たことがありません」


「鹿って僕が思ってた以上に屁理屈なんだね」


 結局僕はチョココーヒーを買うことを条件に鹿に駐輪場に待つよう説得しことなきをえた。鹿は自転車と同じく終始全く微動だにせず(直射日光を避けながら陰に身体が入れながら)じっと待っていた。


 アイスはとてもよく売れていた。夏に関わらず年中人気なアイスを僕はとても羨ましく思う。


「お待たせ」


 微動だにしなかった鹿は表情を変えずゆっくりと顔をこちらに向けた。袋が気になるらしく顔を近づけてくる。


「私にはハッピーコは無いのでしょうか」


「いや鹿にハッピーコはあげられないよ。マナーのなってない観光客じゃないから」


「でも二個入ってますよ」


「僕と妹と、お母さんと兄貴の分だ」


「家族が多くいらっしゃるのですね」


 耳が若干下がったのを見るにどうやらがっかりしている。今度会ったときは鹿せんべいをやろうと思った。


「鹿は家族はいないの?」


「おりません。鹿は常に私だけです」


「いやいや、そんなことはないでしょ。君だって母鹿から生まれたんだから」


「母は私のことはおろか、自身が何者であるのかも分かっておりません。私が生まれた瞬間からもぬけの殻となるのです」


 やっぱり鹿には鹿なりの考え方があるようだ。僕らとはちょっとだけ視えてる世界も違うのかもしれない。こないだの千里眼の話もそうだったけど、普段は鬱陶しいだけの角もちょっとだけ神秘的に見えてきた。


 それよりもさっきから異様に鹿が早く出発したがっている。なんだろうと辺りを見渡すとちょうど喫煙所の煙が風上から流れてきているのであった。2人の男女が何やら談笑しながらタバコを吸っている。これが大人なのだとしたら僕は子供のままでいいやと思える、そんな大人に対する好感度が下がった瞬間だった。


 鹿は「熱中症に気をつけてください」と言って寂しそうに奈良公園の方へ帰って行った。わざわざ人が多い猿沢池の道を選ぶのは構ってほしさからなのだろうか。

 

 ちなみにその後妹に買ってきたチョココーヒー味のハッピーコを見せたが「ホワイトサワーが良かった」と言われた。もう鹿の言うことを聞くことはないだろう。

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