第五章: 『岐路 ―― 魂の対話が始まる時』
文枝の体調は徐々に回復し、一週間後には普段の生活に戻ることができた。しかし、千尋は文枝の健康を気遣い、彼女が無理をしないよう常に目を配るようになった。
朝の日課も二人で行うようになった。文枝は仏教の座禅、キリスト教の祈り、イスラム教の礼拝、ヒンドゥー教のヨーガという四つの宗教実践を行い、千尋もそれに参加した。最初は形だけの参加だったが、徐々に千尋もその意味を理解し始めていた。
「文枝さん、なぜ四つの宗教を実践してるんですか? 一つでいいんじゃないですか?」
朝の実践を終えた後、二人はお茶を飲みながら話していた。
「それぞれの宗教には、独自の叡智があるの。仏教からは『無常』を、キリスト教からは『愛』を、イスラム教からは『服従』を、ヒンドゥー教からは『一体性』を学んでいるわ」
千尋はメモを取りながら聞いていた。彼女にとって文枝の言葉は、すべて貴重な教えだった。
「でも、宗教間で矛盾することはないんですか?」
「表面的には違いがあるけど、深層ではつながっているのよ。どの宗教も最終的には『小さな自己を超えて、より大きな何かとつながる』ことを教えているわ」
千尋は考え込んだ。
「私にはまだ難しいです」
「無理もないわ。でも、あなたは既に変わり始めてるわよ」
「え?」
「あなたの新しい小説を読ませてもらったわ。『境界の消失』。以前とは違う深みがあるわね」
千尋は照れくさそうに微笑んだ。
「実は文枝さんの影響で書いたんです。『私』という存在を離れて書いてみようと思って」
「素晴らしい試みね」
文枝は心から喜んでいるようだった。
「読者の反応はどう?」
「まだ少ないですけど、いつもより深い感想をもらえています。『自分の内面と向き合うきっかけになった』とか」
千尋の目は輝いていた。彼女の創作に対する姿勢が少しずつ変わってきていた。以前のような「認められたい」という気持ちは薄れ、純粋に言葉そのものを大切にする思いが強くなっていた。
その日の午後、文枝に一本の電話がかかってきた。
「もしもし、中澤です」
電話の相手の声に、文枝の表情が曇った。
「ええ、そうですが……」
静かに聞き入る文枝の表情が徐々に厳しくなっていく。
「いいえ、それはお断りします。何度も言っているはずです」
きっぱりとした口調で文枝は言い、電話を切った。
「何かあったんですか?」
千尋が心配そうに尋ねると、文枝は疲れたように座り込んだ。
「テレビ局からの取材依頼よ。『九十歳の現役作家』として特集したいって」
「断ったんですか? せっかくの機会なのに」
以前なら文枝を非難するような言い方をしていただろうが、今の千尋の声には単なる好奇心しかなかった。
「ええ。私はテレビに出るような人間じゃないわ」
文枝は窓の外を見た。
「それに、作家は言葉で語るべきよ。映像で自分を飾り立てるのは、私のやり方じゃない」
千尋はその言葉に静かに頷いた。以前は理解できなかった文枝の姿勢が、今は少しずつ分かるようになってきていた。
「文枝さん、あのサイン会はどうなりましたか?」
「あれは……」
文枝は少し困ったように笑った。
「結局引き受けることになったわ。出版社の立場もあるし、読者の方々の期待もあるからね」
「私も行っていいですか?」
「もちろん。むしろ手伝ってくれると助かるわ」
千尋は嬉しそうに頷いた。
その夜、千尋は自分の小説をさらに書き進めた。物語は一人の若い女性が、年老いた隠者と出会い、人生の意味を学んでいくという内容だった。千尋自身の経験がベースになっているが、フィクションとして再構築されていた。
物語を書きながら、千尋は自分の中の変化を実感していた。以前は「私の才能を世界に示したい」という思いが強かったが、今は「この物語が誰かの心に届くことを願う」という思いが強くなっていた。
中澤文枝という人間と出会い、共に生活することで、千尋の価値観は少しずつ変わっていった。しかし、彼女の中にはまだ葛藤があった。「名を残したい」という思いが完全に消えたわけではなかったのだ。
翌朝、文枝が朝の日課を終えると、千尋に訊ねた。
「千尋さん、今日は何か予定ある?」
「特にないです。どうしたんですか?」
「ある場所に連れて行きたいの」
文枝の目には、不思議な光が宿っていた。
「どこですか?」
「それは着いてからのお楽しみ」
二人は電車に乗り、東京郊外へと向かった。千尋は終始、行き先を気にしていたが、文枝は微笑むだけで教えてくれなかった。
一時間ほど電車に揺られた後、二人は小さな駅で下車した。そこから徒歩十分ほどで、小高い丘の上にある古い寺院に到着した。
「ここは……」
「清風院よ」
文枝は静かに言った。
「私の法名でもあるわ」
千尋は驚いて文枝を見た。
「法名?」
「ええ、私は若い頃ここで得度したの。『清風院』という法名をいただいた」
二人は寺院の境内に入った。古い木造の建物は、長い歴史を感じさせた。
「ここで修行したんですか?」
「短い期間だけど、ね。人生で最も充実した時間の一つだったわ」
文枝は懐かしむように境内を見渡した。
「今日はなぜここに?」
「あなたに見せたいものがあるの」
文枝は千尋を本堂の裏手に案内した。そこには小さな墓地があり、いくつかの墓石が並んでいた。文枝はその中の一つの前に立ち止まった。
「これが私の墓よ」
千尋は驚きのあまり言葉を失った。墓石には「清風院釈文枝之墓」と刻まれていた。
「でも、文枝さんは……」
「まだ生きてるわよ」
文枝は静かに笑った。
「これは『生前墓』というの。自分が死ぬ前に準備しておく墓。私は十年前に建てたわ」
千尋は墓石を見つめた。シンプルな石だが、どこか凛とした佇まいがあった。
「なぜ見せてくれたんですか?」
文枝はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「死を身近に感じることで、生がより鮮明になるの。『詠み人知らず』になりたいという私の願いは、死への準備でもあるわ」
千尋は文枝の言葉に深く考え込んだ。死を意識することで、生がより鮮明になる。それは彼女にとって新しい視点だった。
「私は……まだ死なんて考えたことなかったです」
「若いんだもの、当然よ」
文枝は優しく微笑んだ。
「でも、私たちは皆、いつか死ぬわ。それを意識することで、今この瞬間の大切さが分かる。『今、ここ』の尊さよ」
千尋は墓石を見つめながら、静かに頷いた。文枝の墓を目の当たりにして、彼女は初めて「死」という現実を具体的に感じていた。
「でも、怖くないんですか? 死ぬことが」
「怖い時もあるわ」
文枝は正直に答えた。
「でも、同時に好奇心もあるの。死の向こう側に何があるのか、見てみたいという」
千尋は文枝の横顔を見た。九十歳という年齢を感じさせない凛とした表情には、死への恐怖よりも、むしろ静かな期待のようなものが浮かんでいた。
「私は……私は死んだら忘れられるのが怖いです」
千尋は正直な気持ちを吐露した。
「私が死んで、私という存在が完全に消えてしまうことが」
文枝は優しく千尋の肩に手を置いた。
「それが『私』への執着の正体ね。死を超えて名前を残したいという欲求」
千尋は静かに頷いた。
「でもね、千尋さん。本当に残るのは名前ではないわ。あなたが触れた人々の心の中に残る波紋なの」
「波紋……」
「ええ。あなたの言葉や行動が他者に与えた影響。それは名前がなくても残り続ける」
千尋はしばらく考え込んでいた。そして、おもむろにスマートフォンを取り出した。
「何をするの?」
「自撮りを」
文枝は驚いた顔をした。
「ここで?」
「はい。でも、今までとは違う目的で」
千尋は自分と墓石を一緒に収めた写真を撮った。しかし、彼女はその写真をインスタグラムには投稿しなかった。
「私の日記代わりです。アピールするためじゃなくて、この瞬間を記録するために」
文枝は驚きながらも、嬉しそうに微笑んだ。
「あなた、変わってきてるわね」
「文枝さんのおかげです」
二人は寺院を後にした。帰り道、電車の中で千尋は静かに言った。
「あのとき、私は文枝さんに『なぜ名前を残したくないんですか?それは才能のない人の言い訳ではないですか?』って言いましたね」
「ええ、覚えてるわ」
「あのとき文枝さんは『若いあなたは、まだ『名前』という檻の中にいる。いつか檻の外の広い世界が見えるときが来るでしょう』って答えてくれました」
千尋はしばらく窓の外を見つめていた。
「少しだけ、その檻の外が見えた気がします」
文枝は何も言わず、ただ微笑んで千尋の手を優しく握った。
アパートに戻ると、文枝は郵便物を確認した。その中に一通の航空便の封筒があった。
「まあ」
文枝の表情が明るくなった。
「フランスからよ」
文枝は封筒を開け、中の手紙を読み始めた。それはフランス語で書かれていたが、文枝は流暢に読み進めていた。
「何の手紙ですか?」
「息子からよ」
千尋は驚いて声を上げた。
「息子さん? 文枝さんには息子さんがいるんですか?」
文枝はうっすらと微笑んだ。
「ええ、パリ留学中に生まれた子どもがいるの。長い間連絡を取っていなかったけど、八十歳になってから再会したのよ」
千尋は文枝の著書『無常を生きる』を思い出した。そこには、文枝が晩年になって初めて、若い頃に生まれた実子の存在を告白した話が書かれていた。
「ジャン=ピエールという名前ね。今はパリ大学の教授をしているわ」
文枝は手紙を読み終え、穏やかな表情を浮かべた。
「来月、日本に来るって」
「それは素晴らしいですね!」
千尋は心から喜んだ。しかし、同時に不思議にも思った。
「でも、どうして長い間連絡を取らなかったんですか?」
文枝の表情が少し曇った。
「複雑な事情があってね……」
文枝はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと話し始めた。
「私が二十代の頃、パリに留学していたの。そこで恋に落ちて、子どもができた。でも、当時の私は学業と文学への情熱に燃えていて、母親になる準備はできていなかったわ」
文枝の声は静かだったが、その言葉には重みがあった。
「子どもの父親は哲学者で、私より十歳年上だった。彼も子育てをする余裕はなかった。だから、息子は彼の姉に育ててもらうことになったの」
千尋は黙って聞いていた。文枝の過去の選択に対して、彼女には判断する資格がないと感じていた。
「私は日本に帰国し、作家として歩み始めた。息子とは手紙のやり取りをしていたけど、次第に疎遠になっていったわ」
文枝は窓の外を見つめた。
「長い間、私は自分を許せなかった。母親になれなかった自分を。でも、八十歳になって、残された時間が少ないと感じた時、思い切って彼に会いに行ったの」
文枝の目に涙が浮かんだ。
「彼は私を許してくれたわ。『自分の人生は充実している。あなたが選んだ道も尊重する』と言ってくれた」
千尋は文枝の手をそっと握った。
「それからは定期的に連絡を取るようになったの。彼には妻と二人の子どもがいて、私には孫がいるのよ」
文枝は微笑んだ。その表情には、悲しみと喜びが混在していた。
「人生は複雑ね。私が『名前より言葉が大切』と言うのは、自分の弱さや過ちから目を逸らさないためでもあるの。『中澤文枝』という名前が崇められると、私という人間の影や傷が見えなくなってしまう」
千尋はその言葉の意味をじっくりと考えた。文枝が「詠み人知らず」になりたいと願う理由は、単なる謙虚さではなく、より深い自己認識からきているのだと理解した。
「でも、息子さんに会いに行ったのは勇気がいったことだと思います」
「ええ、人生で最も勇気がいったことの一つだったわ」
文枝は静かに微笑んだ。
「そして、最も報われたことでもあったの」
その夜、千尋は自分の部屋で新しい小説を書いていた。タイトルは『遅すぎた再会』。母と子の別離と再会を描いた物語だった。文枝の実体験をベースにしているものの、登場人物や設定は大きく変えていた。
一章を書き終えると、千尋は文枝に読んでもらおうと思った。彼女は文枝の部屋のドアをノックした。
「文枝さん、読んでもらえますか?」
返事がない。千尋は少し心配になり、そっとドアを開けた。文枝はベッドに横たわり、静かに眠っていた。その表情は穏やかで、安らかだった。
千尋はそっとドアを閉め、戻ろうとした時、文枝のデスクに置かれた原稿が目に入った。それは彼女の最新作の一部のようだった。千尋は立ち止まり、ちらりと見た。
「『私がこの世を去った後、すべての原稿を燃やしてほしい。私は痕跡を残さず、言葉だけが風のように自由に流れていくことを願う』」
千尋はその言葉に息を飲んだ。文枝は本気で自分の痕跡を消そうとしているのだ。千尋には理解できない部分もあったが、同時に文枝の覚悟の深さに打たれた。
彼女はそっと部屋を出て、自分の部屋に戻った。窓の外を見ると、東京の夜空に星が瞬いていた。千尋は星を見上げながら、文枝の言葉を思い返した。
「本当に残るのは名前ではない。あなたが触れた人々の心の中に残る波紋なのよ」
千尋はその意味を、少しずつ理解し始めていた。
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