第50話:これから書く物語について

 机の上に、湯気の立つコーヒーカップと、ノートパソコン。


 窓の外には、春の終わりと初夏のはざまの風。

 カーテンがふわりと揺れるたび、少し前まで寒かった日々のことを思い出す。


 画面には、真っ白なドキュメントファイル。

 タイトルバーには、**「未定の物語.docx」**と表示されている。


 カーソルが、ゆっくりと点滅している。

 何かを待っているように。

 あるいは、何も急かしていないように。


 あかりは静かに指を乗せる。

 すぐにタイプしようとはしなかった。

 ただ、少しだけ目を閉じる。


 《風のあとで》という物語が完結してから、時間が経った。

 本は書店に並び、読者の元に届いた。

 直接の声は届かなくても、感想が綴られたタグや、引用された一節、

 “書きたくなった”という誰かの短い投稿が、時折流れてくる。


 あれは、もう“わたしの物語”ではない。

 読む人の数だけ、違う風が吹いている。


 そして、だからこそ――


 次の物語を、今度は“わたしの名前”で書いていく。


 


 テーマは決まっていない。

 登場人物の名前もまだない。

 舞台も、時代も、なにも決めていない。


 けれど、書きたい感情だけは、はっきりと胸の中にある。


 誰にも届かないと思いながらも、それでも言葉を紡ぎ続ける人のこと。

 誰かに語りたくて書いたけれど、最後まで言葉にならなかった記憶のこと。

 そして、そうした名もなき声が、静かに未来を動かしていくこと。


 《風のあとで》は、ある人の“物語の終わり”だったかもしれない。

 でも、読み手にとっては、あの本が“始まり”だった。


 (今度は、私がそういう物語を書こう)


 あかりは、画面のカーソルに目をやる。

 新しい物語の、一行目が見えてきた気がした。


 それはまだ形になっていない。

 でも、胸の奥で確かに息づいている。


 彼に託された続きを、わたしが書き、

 わたしの物語が、次の誰かの“始まり”になる――


 そうやって、言葉はめぐっていく。


 


 小さく息を吸って、吐く。

 指先が、ゆっくりと動き始める。


 はじめて、物語の最初のキーを叩く。


 ──「 」


 ほんの一行。それでも確かに、新しい風が吹いた。


 


 画面には変わらず、ファイル名が表示されている。


 《未定の物語.docx》


 タイトルはまだない。

 けれどそれは、未来が開かれているという証。


 


 書くということは、終わらせることではない。

 むしろ、書くことでしか始まらない“何か”がある。


 だからあかりは、今日も書く。

 この手で、次の物語を。


 


 あの物語が、誰かの人生の支えになるなら──

 今度は、私が、そういう物語を書こう。


 


 カーソルがまた、静かに点滅している。


 そして、その画面の光の中で、

 一人の作家の“これから”が、静かに始まっていた。


 


 ──風のあとで、書く人として。

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AIが書いたその物語は、かつて誰かの人生だった るいす @ruis

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