第45話:名前のない作品
次回作の原稿を送ってから、編集部からの返信は意外にも早かった。
メールのタイトルは「作品についてのご相談」。
本文は丁寧な言葉で始まり、提案が一つ添えられていた。
「内容は素晴らしく、掲載を前向きに検討させていただいております。
ただ、一点ご相談なのですが――筆名について、再考の余地はございますか?」
あかりは、その一文を何度も読み返した。
柚木あかり。
《風のあとで》を再構成したときから使ってきた名前。
自分の本名であり、最初に“読み手”として生きていたときの名前。
編集部からすれば、それが「再構成の作家」として広く知られすぎているのかもしれない。
あるいは、次の作品が完全なオリジナルであることを強調するために、
まっさらな名前で出したほうが読者にも伝わりやすい――という意図かもしれなかった。
けれど、あかりの中にはひっかかりが残った。
名前を変えること。
それは、新しい物語を始めることと同じくらい、大きな選択だった。
デスクの上の原稿ファイルに目をやる。
表紙のすみに、変わらず記されている“柚木あかり”の五文字。
かつて秋葉翔吾が書いた原稿の断片を読んだとき、
あかりは読み手だった。
その後、言葉を拾い上げ、再構成したときも、どこかで彼の影を背負っていた。
“彼がいたから書けた”。
“彼の声を継いだから書けた”。
そう思っていた時期もあった。
でも、いま――
彼の手紙を受け取り、
“自分の言葉”で新作を綴り、
AIの詩人たちに惑わされずにキーを打ち続けた今――
この名前には、確かに自分自身の“歩み”が宿っていた。
秋葉に拾われた名前ではない。
彼の物語の登場人物として与えられたものでもない。
この名前は、自分が書きながら、歩きながら、育てたものだった。
名前があるから書けたのではない。
書いてきたからこそ、この名前に意味が生まれたのだ。
あかりはメールの返信画面を開く。
件名:Re: 作品についてのご相談
ご検討ありがとうございます。
筆名についてご提案をいただき、ありがたく受け止めました。
ただ、私はこの名前――「柚木あかり」で、次の作品を出したいと思っております。
この名前は、私が創作を通して育ててきた“私自身”の一部です。
過去の作品に紐づいた名前であることは承知していますが、
それ以上に、これからの物語を綴っていく“私の意志”でもあります。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
柚木あかり
送信ボタンを押したあと、あかりはそっと画面を閉じた。
重たい決断ではなかった。
けれど、小さくも確かな“自立の証”だった。
誰かの声に導かれていた自分は、もういない。
言葉の選び方も、風景の描き方も、
今はすべて、“自分の筆跡”で綴るようになっていた。
名前を守ることは、
過去にしがみつくことじゃない。
むしろ、今を生きて書いてきた証を、
自分で引き受けるということだった。
外の風が、春の終わりを告げるように柔らかく揺れていた。
カーテンがふわりと膨らみ、また静かに元の位置へ戻る。
その動きに似た静かな決意を胸に、
あかりは次のページを開いた。
――柚木あかりとして、物語を続けていく。
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