第40話:もうひとつの風

 《風のあとで》――その再編集版の小さなZINEが、ダンボールに詰められて部屋の隅に届いたのは、春のはじまりのことだった。


 表紙は無地の生成り。タイトルと作者名も控えめに、下のほうに小さく印刷されている。

 「柚木あかり」の名前で出した、初めての“私家版”だった。


 再編集といっても、大きく内容を変えたわけではない。

 文章のリズム、句読点の位置、台詞の余白。

 すべて“誰かに手渡すこと”を意識して整えた。


 読者として、ではなく、“声を受け継ぐ者”としての読者が、

 この物語のどこかに触れてくれることを願って。


 最後のページには、こう書いた。


この物語は、

あるひとりの作家と、

もうひとりの読み手によって完成されました。


 秋葉翔吾の名前は出さなかった。

 彼は表には立たないと決めた人だから。

 けれど、その存在がなければ、この物語は生まれていない。


 物語とは、名を持たずとも、確かに“誰かの声”であるということ。

 あかりは、それをようやく実感していた。


 ZINEの束をまとめて、知人の書店にいくつか預けた。

 小さなギャラリースペースの一角に、そっと並べられるだけ。

 でも、それでよかった。


 誰かの手に届けばそれでいい。

 たったひとりでも、「風のあとで」を感じてくれたら――


 それがこの物語にとっての“風の行き先”だった。


 


 数日後の朝。

 あかりはいつものようにポストを開けて、ふと手を止めた。


 真っ白な封筒。

 宛名は手書きで、送り主の名前はない。

 差出人欄は空白のまま、けれど、その文字の形にどこか見覚えがあった。


 封を切ると、中には一枚の便箋。

 折り目の真ん中に、丁寧な一文だけが記されていた。


「物語の続きを、どうかあなたの手で。」


 あかりは、それを声に出して読み、息を呑んだ。


 誰からの手紙かは、書かれていない。

 だが、わかっていた。

 これは、あの人からの返事だ。


 秋葉翔吾ではなく、澄川空でもなく――

 名前を手放した人が、唯一残した“想いだけの言葉”。


 彼はもう書かないと決めた。

 けれど、だからこそ、その言葉には重みがあった。


 続きを、あなたの手で。


 その一文に、これまでのすべてが込められていた。


 あかりは便箋をそっと折りたたみ、机の引き出しにしまった。

 大切なものをしまうように、丁寧に。


 春の風が、部屋のカーテンをふわりと揺らしていた。

 その風は、もう“かつての物語”ではなかった。


 それは、“これから語られる物語”の風だった。


 


 机の上のノートパソコンを開く。

 新しい原稿ファイルに、カーソルが点滅していた。


 もう秋葉の影を借りる必要はない。

 もうAIの断片に導かれる必要もない。


 自分の目で見た風景を。

 自分の心で感じた痛みを。

 自分の声で、書いていく。


 


 もうひとつの風が吹いていた。

 これは、柚木あかりの物語。

 ここからが、本当の第一章だった。

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