夢で犯して、私は月宮 楓に恋をする。

第139話

 夢を見た。


 それが私の恋の始まりだった。

 そのときから、私は夢に出てくる少女に夢見ていた。きっといつか、叶えたいと思う夢だった。

 夢見るだけの人生。現実と夢の狭間に落ちて消えていく夢の中で、どうしても掴みたいものが一つだけあった。


 私は夢みたいな人間だった。誰からも気にされない、思考の端にいるような存在。

 中学生になると、人は現実を知り始める。夢だけを見ていた小学生の頃とは違って、わずかな現実を知り、まるで現実の全てを知ったかのようになる。それが思春期だと思う。

 高校生にもなれば、現実のほとんどを知るようになる。そしたら、夢なんてそうそう叶わないことを察し始める。そうして人は夢を諦めて、中学生の頃には多少なりとも期待していた夢を捨てる。

 だから私は、誰も現実にも映らない、背景でしかない存在。誰が私を気にしただろうか。夢みたいなその少女を、わざわざ見ようとはしないし、見たとしてもすぐに現実から捨てていく。これを孤独と呼ぶ。


 孤独を嘆いたわけじゃない。自業自得だから、私はそれを受け入れていた。

 私は自ら夢を見続けていた。他の人たちとは違って、夢ではなく現実を捨てていた。常に夢の中に生きているようなものだった。

 今ならわかる。きっと私は、現実を見たくなかった。夢とはかけ離れたそれを受け入れることができず、ずーっと夢だけを見ていた。これを現実逃避と呼ぶ。

 でも、誰も私を現実に引き戻そうとなんかしないじゃないか、なんて他責思考で居続けていたら、そこに一声。


『おはよう』


 それは、私を夢から引きずり出すに足る言葉だった。

 誰もが一度は言ったことがあるはずで、もちろん私も知っている言葉のはずなのに誰からも言われたことがなかった。

 それが、その瞬間に初めて言われた。


 遠い過去を思い起こすようにして目を開けると、目の前には少女がいた。

 少女の名は月宮 楓。私が夢見て、夢で見て、恋した人。すごく大好きだ。

 初めて、私にその言葉を言った人でもあり、私に現実を見せてくれた人でもあった。


 その日から、私は彼女に夢を見た。夢の中でなんでもした。してはいけないようなことまで、試せること全てを試し尽くした。

 それで満足で、というか満足しようとしていたのに、彼女はまた私に『おはよう』と言う。


『おはよう』

『おはよう』

『おはよう』


 その頻度は増していき、毎日言われるようになった。

 だから私は、その夢に夢を見たのだ。


 夢は叶わないと知っているけれど。

 それでも、この夢だけは叶えたいと、そんな夢を見た。


 そうしてついに、電車がやって来た。


「―――おはよう」


 馴染みある言葉と声に目を覚ました。

 目覚めで視界がぼやけているけれど、香る花に匂いに私は気付く。


「かえでさんだあ~」


 手を伸ばした勢いで体を起こして、そこにいるであろう楓さんに抱き着く。

 顔を覆う柔らかな二つのなにかにすりすりして、その体温を自分に取り込んでいく。

 そんな私を、楓さんは抱き寄せて頭を撫でてくれる。撫でていた手を頬まで落として、両手で顔の輪郭を包み込むようにすると、目の前に持ってきて目を合わせる。そして、目尻を親指でほぐして、未だに眠気が抜けない私を起こしてくる。


 そうして私は、しっかりと目を覚ます。そこで、目の前の楓さんに気付いた。


「え! なんで楓さんが!?」

「今さら?」


 ニコリと楓さんが言う。


「沙羅のお母さんが鍵開けてくれたから、入った」

「そ、そうなんだ‥‥‥」

「そのパジャマ、かわいいね」


 シロモチみたいな白文鳥のイラストが印刷された私のパジャマを指差して言われる。咄嗟に掛け布団でそれを隠した。


 楓さんはベッドに腰かけて隣に座る。片手を私の肩に置いて、もう片方は私の頬に添える。少し寄せると同時に顔を近づけてきて。

 頬から、ちゅっ、と音がする。


 寝起きで低くなっていた血圧が一気に上がる。鏡で見なくてもわかるほどに顔に熱が集中して、目が乾く。

 楓さんの肩をゆっくり押して体を離すと、彼女はニコリと笑い。


「おはよ」


 と、軽やかに言った。


 なんか、見せてはいけないような顔をしている気がして、掛け布団で顔も隠した。

 軋む音がして、おそらく楓さんがベッドから立つ。そのあと、ガサガサとなにかを探すような音がしてから、前方に再び花の香りがする。


「じゃあ、メイクしよっか」


 そう言われて、掛け布団から目だけ出して覗くと、楓さんがメイク道具を手に持っていた。


「‥‥顔、洗ってくる」

「ほ~い」


 部屋を出て、階段を下りる。

 洗面台の前に立って、顔を洗う。

 そこで気付いた。


 そうだ、今日、クリスマスだ。


 顔をバシャバシャ洗った。もう、バッシャバッシャして、顔がびっちゃびっちゃになる。

 髪まで濡れてしまって、寝ぐせを直すついでにドライヤーで乾かした。


 部屋に戻ると、楓さんがもろもろの準備を済ませていた。そのままメイクをしてもらおうかと思ったけれど、先に着替えないとメイクが崩れる可能性がある。

 そのことを伝えたけれど、「おっけー」とだけ言って外に出て行ってくれない。


「き、着替えるから‥‥」

「うん、どうぞ」


 ニコリとした表情を変わらなくて、からかわれているのだと知る。


「そ、その‥‥いまぁ、は、下着‥‥着けてないからぁ‥‥」


 どうも調子が崩れてしまう。まだ服は着ているのに、裸を隠すみたいな仕草をしてしまう。


「あ‥‥そ、そっか。いや‥‥ごめん。その‥‥ああ、いや」


 楓さんの方も調子が崩れていた。

 たぶん、お互いに普通でいられないのだ。なぜなら、今日が普通の日ではないから。

 それは特別な日という意味で、間違いなく良い意味ではあるのだけれど、変に気にしてしまって普通ってなんだっけと忘れてしまう。


 楓さんが部屋から出て行ってくれて、その間に私は着替えを済ませる。

 扉を開けると、すぐ側で待っていた楓さんが静かに入ってくる。


 リップだけ彼女に渡して、あとは全部任せる。目を瞑って顔を向け、ただメイクが終わるのを待つ。

 いかんせんメイクに関する知識がないから、今、楓さんがなにをしているのかはわからないけれど、私の顔になにかを描いていた。


「なんか‥‥普通ってむずいね」


 声を出そうと口を動かすけれど、メイクされているとあまり顔が動かせない。


「まだあんまり実感がない。長いこと夢見てたから、いざ叶う日が来ても、それすら夢なんじゃないかって思っちゃう。沙羅はさ、どう思う?」


 メイクする手が止まって、楓さんが私の返事を待つ。

 私は目を開けて。


「私も‥‥夢みたいな日は、夢だと思っちゃいそうになるけど‥‥」


 それでも、私は知っている。

 これが現実だと知る確かな方法を。


「楓さんとこうするたびに‥‥」


 頬に添えた手で顔をこちらに向ける。

 あまり性欲が混じっていない、夢から覚めるため、そして現実と向き合うためのキスをした。


「これが現実だと思えるよ」


 楓さんの顔が明らかに赤くなる。頬に添えていた手から熱も伝わってくるし、熱気? みたいなものがぶわっと押し寄せてくる。


「も~、私のリップが移ったじゃん」


 誤魔化しにしか思えなかったけれど、流すことにする。


「ごめんなしゃい」

「許さん」


 メイクも最後に差し掛かり、仕上げにリップを塗って終わる。

 そうして準備を終えた私たちは部屋を出て、一緒に階段を下りる。

 リビングで朝ご飯を食べていた母親に「行ってきます」と告げて家を出た。


 玄関扉を出て、一歩二歩と進んだあたりで手を繋ぐ。

 繋がれた手を見て、辿るように顔を上げると楓さんと目が合う。そして穏やかな笑顔の彼女が、まるで魔王を討伐しに行く勇者みたいなことを言った。


「さて、夢を叶えに行きましょうかね」

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