ローリィテイル

みかんべる

第1話 仮面師


「残念だがこれでは採用できない」


 灰色のスーツで身を固め、髪をオールバックに纏めた壮年の男はそう呟いた。

 その様相はまさしく仕事のできる男といった風で、全身から自信が満ち溢れている。


 男の前には椅子が一つ置かれ、そこには少女が腰掛けていた。

 その頬はりんごのように真っ赤で、緊張していることが伝わってくる。


「魔力が100……ギリギリの最低ラインだ。戦場に出たら10秒で憑依臨界点を下回る。そしたら後は死ぬだけだ」


 そんな少女を横目に、とんとん、と資料を叩きながら男は語った。

 実際、彼の言うことは全て正しい。

 魔力量100以上は国が法律にて定めている仮面師の条件の一つであり、戦場で自衛が可能な最低数値である。

 ルール上では可能なものの、実際仮面師に就職する者の最低魔力量は3000と言われていた。


「その上、言っては悪いが君は女で、身長も140センチと低い。戦える体格ではない。君には仮面師として活躍できる要素が何一つとして無いということだ」


 仮面師を目指すうえで、彼女には何もない。

 魔力は無いと言って差し支えないほど低く、小さくて細い体からは少しの力も感じられない。


 男が鋭く指摘するたびに、少女は縮こまるように震えた。


「才能が無い。センスに欠ける。さっさと諦めた方が身のためだ」


 それだけ言うと、男は資料を床に投げ捨てた。

 面接自体が無駄だったとでも言いたげに少女を一瞥して立ち上がる。


「私も暇じゃない。帰りたまえ」


 ひぐ、ひぐぅ、と涙を流す少女。

 男は困ったように少女の背を押し、部屋から退出させる。


 だが、これは必要なことなのだ。

 甘いことを言って、期待を持たせる方が悪い、と男は考えていた。

 指摘したことに嘘偽りはない。この少女では、仮面師として生き残っていくことは出来ないだろう。


 こんな小さな子供に死んでほしくはない。これは男なりの優しさだった。



 仮面師ギルドの一翼、ラファエラ。

 日本の中でも最大級のギルドの一つであり、入団希望者は数えきれない。

 その中でも、少女の持つ能力は最低値。


 魔力量は100、筋力はF。

 採用されるわけも無いのであった。








「また落ちちゃった……」


 私は面接の帰り道をトボトボと歩いていた。

 ギルド面接は今回が初めてでは無い、どころか今回で丁度100社目の不採用だった。

 仮面師とはそれだけ素養が必要とされる職業だと理解しているし、私にそれが無いこともまた、理解している。


 手元の資料に目を落とす。

 宮月ソラノ、16歳、身長140センチ。戦闘経験ナシ。

 魔力量100、筋力F。


 自分で言うのもなんだけど、ひどい数値だ。

 それでも私は、どうしても仮面師の夢を諦められない。


 仮面師。

 魔力がある者しか扱うことの出来ない特殊鎧装である「仮面」を装備し、人類の敵たる悪魔を討つ者。

 その力は人智を超え、世の中ではまさしくヒーローの如く扱われていた。


 私は幼い頃、仮面師に悪魔から助けてもらったことがある。

 私を背に悪魔と対峙する、勇気溢れるその姿。

 彼女の背中が網膜に焼きついて、私の心から離れない。


「ぜったいぜったい、諦めてなんかやるもんか」


 彼女のような仮面師になるまで。

 私は絶対に諦めない。


「次はどこの面接を受けようかなぁ……」


 日本に存在する仮面師ギルドの数はおおよそ500。

 つまり私は丁度五分の一のギルドに落とされたことになる。

 我ながらこれはなかなか凄いことなんじゃ無いだろうか?

 世界広しと言えども、私ほど仮面師ギルドから不採用をもらった人間はいないように思える。


「関西のギルドは全部落ちちゃったんだよね」


 となると家から通える範囲のギルドは全滅だということだ。

 正直言って受けるところが無い。


「うぅ、どうすればいいんだぁ」


 私は嘆きつつ、切符を買って改札を通ろうとする。

 ここから家まで電車で三時間はかかる。面倒極まりないが、魔力制御の練習をしていればあっという間に過ぎる時間でもあった。


 切符を手に取り、改札に差し込もうとしたまさにその時。



「きゃああああああああああああああ」



 凄まじい悲鳴が辺りに響き渡った。

 遅れて爆発音、さらに遅れて獣の咆哮が轟く。


 場に充満する濃密な殺気を感じ取って、私は振り返った。

 押し寄せてくる人の波。その後ろには一対の角を生やした筋骨隆々な巨人。神話に登場するミノタウロスのような姿をしている。


 間違いない、悪魔だ。


 身長にして三メートルはあるだろう悪魔は、駅を破壊しながら逃げ惑う人々を見て笑う。

 まるでクッキーでも割るかのように石畳を砕き、咆哮だけでガラスがひび割れていく。

 かなり強力な悪魔だ。


 けれど、私の目に止まったのは巨大な悪魔より、その足元で震えている一人のお姉さんだった。

 身を縮こませて、恐怖で動けないように見える。

 その姿は、まるで幼き頃の自分のようで。


 私は、迷わなかった。



「そこまでだ悪魔!」



 お姉さんと悪魔との間に割り込み、両手を精一杯広げて女性を背に立つ。

 やばい、体が震えて震えて、止まる気がしない。


 言わなくてもいいよ、自分でもバカだって分かってる。

 下手したら、私は怯えてるこのお姉さんより弱い。


 それでも私は憧れたんだ、焦がれたんだ、毎晩夢に見たんだ。


「何者だ、貴様は」


 恐ろしい闘牛のような顔をぐいっと近づけて、悪魔は私に問うた。

 そ、そんなこと聞かれたら私も調子乗っちゃうよ!?


「わ、私は仮面師、仮面師ソラノ!」


 全く仮面師ではない。

 その象徴たる仮面も勿論持ってないし、面接全落ちのスーパー出来損ないだ。


 それでも今、私は誰かを背にして守っている。

 ならば退けない、逃げられない。それに、逃げる気なんてさらさら無かった。


「ふ、ふは、はっはっはっはははは」


 私の言葉を聞いて、悪魔が笑った。

 嘲るように、心底見下すように。

 当然だ、だって悪魔は魔力を可視化して見ることができるから。


「その程度の魔力で仮面師を騙るか!」


 悪魔から見て、私はどれほどに小さな存在であるのだろう。

 そのまま笑い転げるほどに笑った後、悪魔は右手を振り上げて、さらに頬を吊り上げた。


「仮面師ならば、せいぜい楽しませてみろ」


 私にその攻撃が見えたのは奇跡だった。

 悪魔の動きをきちんと見るのは初めてで、最大限の警戒を張り巡らせていて。

 魔力を目に集中させていたから、かろうじて見えた。


 馬鹿げた速度で迫る右腕に対し、私は左腕を立てて構える。

 私の魔力はとんでもなく低い。仮面鎧装も無いため、まともに受けては一溜まりもないだろう。


 かと言って避けるわけにもいかない。

 私の後ろには未だ、腰を抜かしているお姉さんがいるからだ。

 普通に考えて絶対絶命の状況の中、私はすぅっと息を吸って──


  ────止めた。


 全力の集中。

 世界が緩やかに流れ、悪魔の右腕すらゆったりと迫るほどに。


 悪魔の右腕と私の左腕が接触するその瞬間。

 時間にして0.1秒にも満たないであろうその刹那だけ、私は魔力出力を全開にした。


 白い光が私の腕を一瞬包み、ほどけていく。

 ぴたり、と悪魔の右腕が止まり、余波で爆風が吹き荒れた。


「バカな、どうやった」


 悪魔は驚愕の表情を浮かべている。

 私はほっと息を吐いた。


 よかった、通じた。

 実戦で試すのは初めてだったから、どうなることかと冷や汗が止まらなかったのだ。

 それに、そろそろ揺り返しがくる。


 私はぐっと全身に力を込め、覚悟を決めた。


「っつぅ────」


 左腕を起点にして、ぶわっと激痛が走る。

 全身を針で刺されているかのような、信じられない痛みだ。


 これは悪魔の攻撃が私に届いたからではない。

 才覚無き私の体では、今の魔力出力に耐えられないからだ。

 時間にして0.1秒ジャスト。私の体が全開の魔力出力で壊れないギリギリのラインだった。


 初めてこの痛みが襲った時、私は地面にのたうち回って気絶した。

 文字通り死ぬほど訓練して、痛みを顔に出さないように慣れさせた。


 私は才能がない。

 魔力も低く、運動神経も無いのか幼少期から続けてきた体術もへっぽこ。

 欲しかった身長は終ぞ手に入らず、トレーニングしても大して筋肉はつかなかった。


 代わりに私は魔力制御の技術を鍛えた。

 平均して1日に18時間。できるだけ消費しないように体の中で魔力を弄り、最低限の消費で最高のパフォーマンスを叩き出せるように。

 少ない魔力でも、弱い体でも、人智を超えた力を得られるように。


 その結果手に入れた唯一の武器。

 私はこれを最大限活かさなければならない。

 相手の攻撃がまるで効いていないように見せるために、痛みを表に出さない訓練をした。

 魔力の消費がほとんどないと思わせるために、可視化される魔力の大きさを常に一定に保った。


 才能が無いということは、つまり武器が無いということ。

 ただでさえ少ないアドバンテージを無に帰さないために。


 私の武器はハリボテだ。

 結局魔力量は変わっておらず、魔力出力を全開にする先ほどの技はあと3回しか使えない。

 悪魔は気にせず、私を4回殴れば勝てる話なのだ。


 そもそも悪魔は想定以上に強かった。

 この巨体からは考えられない速さの攻撃で、次も本当に合わせられるかは怪しいところ。

 

「お前の攻撃は効かない! この仮面師ソラノにはね!」


 それでも私は精一杯胸を張って、悪魔を睨みつけた。

 背にいるお姉さんを安心させるために。


「ならばこれならどうだ」


 悪魔は私の言葉に怯むわけでも無く、両手を合わせてスレッジハンマーの形を取った。

 恐ろしいほどの魔力を込めて、思いっきり私に向かって振り下ろす。


 その速度はさっきの一撃より遥かに速かった。


 う、嘘でしょ!?!?


 これはダメだ。

 幾ら私の目を強化したところで合わせきれないだろう。


 消費の少ない身体強化で受けることも考えたが、それでは地面に穴が空いて埋まってしまう。

 瞬間的な力しか出せない私は、一度地面に埋まると抜け出す手段がない。


 そう判断して、足に魔力による身体強化を施した。

 これは魔力制御技術によって強化の幅が大きく変わる、仮面師の基本技能みたいなものだ。


 さっき私が受けに使ったのは魔力の発散による一撃。

 魔力強化は魔力を体の一部に溜めることで、身体能力を強化する技術。

 魔力強化は体の外に魔力を出さないので、魔力を消費しないのが利点。

 潤沢な魔力を持つ人ほど、強化に使える魔力が多いから、これまた魔力が多い方が有利なのは間違いないが。


 少なくとも魔力を一点に集める技術に関して、私は誰にも負けるつもりはない。


 足の裏、それも親指から小指までに魔力強化を集中する。

 これで私は一般的な魔力量の仮面師くらいには脚力が強化されたはずだ。


「口閉じて!」


 叫びながら、お姉さんの方に跳躍する。

 お姉さんは変わらず口をぽかんと開けていたけれど、緊急事態だから許してほしい。

 私は体が小さいから、全身を使ってお姉さんのお腹に突撃する。

 そのまま抱きしめるように後ろに飛んで、悪魔の攻撃範囲外から逃れた。


「ぐえっ!」


 蛙のような叫び声をあげているお姉さんには申し訳ないけど、死なないために必要なことだから許してほしい。


 お姉さんは普通の人間だ。

 何度も受け身の練習をしてきた私ならまだしも、素人のお姉さんなら打ちどころが悪ければ死んでしまう勢いだった。


 このままではまずいと、魔力強化を腕に移して、無理やりお姉さんと私の位置を変える。

 その結果、私はお姉さんの下敷きになるように地面に打ち付けられた。


 

 でも、その代償は大きい。


 まず、左腕が動かなかった。

 左肩から地面に落ちたから、そこの骨が折れてしまったようだ。


 魔力量の消費も激しい。

 受け身のために2度、バウンドの勢いを殺すために魔力を発散した。

 全開の発散ではなかったからマシだったものの、総魔力量の4割を切っている。


 最後に体力が限界だった。

 私は体が小さく、スタミナがそこまである方ではない。

 ただでさえ魔力制御には少なくない集中力が必要とされる。魔力の極端に少ない私では、一般的な仮面師と同等の身体強化を得るために体中の全魔力を操らなくてはいけない。


 一つ一つの動作に、凄まじい集中力が必要とされるのだ。

 初めの一撃を受けた時、その後身体強化で飛んだ時、慣性を殺すために何度か魔力を発散したとき。

 私は常に0.1秒単位での集中を必要とされていたのだ。


「ひゅっ、ひゅっ」


 掠れるような呼吸音が、自分から出ているものだと気づく。

 体はボロボロで、悪魔に勝てるような手段もない。


「2度も生き残るとはな。とんだ手品師だ」


 牛頭の悪魔は一歩、また一歩と近づいてくる。

 ドス黒い魔力を滾らせて、それが大気すら軋ませるようだった。



 怖かった。

 心のどこかで、自分はもっとやれると思っていたのかも知れない。


 恐ろしかった。

 悪魔とはここまでに圧倒的で、強いのだと心に刻みこまれた。



 それでも。


 

 それでも、私がこの選択を後悔することなんて、決してない。



「なんだその顔は。もっと歪めろ、絶望しろ。泣きながら死ぬ人間の顔ほど、味わい深いものは無い」



 悪魔が私の前に立ち、腕に魔力を纏わり付かせた。

 その魔力が長く、厚く、伸びていく。やがてそれは巨大な剣の形を形取った。


「フンッ」


 壁も、柱も。

 全てを切り裂きながら迫る絶死の刃を前にしても、私の心に後悔は無かった。


 絶望も無かった。


 まだ右腕は動くんだ。

 魔力だって、必要最低限強化できる程度には残ってる。


 集中力? スタミナ?

 そんなの知らない。


 いいから黙って絞り出せ!



 なんとか右腕を構えて、私は吼えた。



「はぁぁぁぁああああああ!!」



 残った魔力をかき集めて全力で視力を底上げする。

 そこまでして、初めて剣の軌道を視認することができるのだ。


 視認したあと、瞳から右腕に高速で魔力を移す。

 文字通り全魔力を移動させ、今できる最大限の強化を施して。



 予測している剣の軌道を横合いから殴るように、私は腕を振った。



 視力で強化していなければ悪魔の攻撃は見えない。

 ならば、見てから予測して対応すればいい。


 魔力が少なくなった今、両方の強化を行うことはできない。

 だが、それは悪魔の攻撃を捌けなくなったこととイコールではないのだ。


 黒い刃に拳を焼かれながらも、なんとか軌道を変えることに成功した。


 が、それだけだ。

 悪魔はなんとも思っていない様子で、もう一度剣を振るった。


 それに対する私の対応も同じ。

 必死に逸らす。一度でも失敗すれば、後ろのお姉さん諸共両断されるだろう。


 私の集中力はここにきて極限の昂りを見せ、限界なはずの体はそれに応えた。

 拳が焼き切れるほどに黒くなり、全身が絶え間なく切り替えられる魔力強化に悲鳴を上げている。



 それでも、と私は叫んだ。


 とうの昔に限界を迎えている体を叱咤して、何度も腕を振るった。


 途中から目を瞑るな、と自分に言い聞かせるようになった。

 私の体はかつて無いほどに休息を求めている。もし今、瞬きほどの時間でも目を閉じてしまったならば、糸が切れた人形のように倒れ伏すことになるのが容易に想像できたから。


 思考の許容量を大きく超えているのか、先ほどから鼻血が止まらなかった。

 魔力強化の影響を受けて、瞳からも血の涙が流れ出る。



 そうして黒い嵐が、止んだ。


 私は最後まで魔力強化で全てを防ぎ切った。

 駅構内はボロボロだが、もう私とお姉さん以外に人間はいないから問題ない。


 もはや喘ぎ声すら出なかった。

 心臓が鼓動しているのか、確かめることさえ怖かった。


 ずしゃり、とその場に膝を着く。



「仮面師よ、貴様はそうしてどうするつもりだ」


 悪魔が心底不思議だと言わんばかりに、私に尋ねる。

 返事することすら億劫で、それでも私は悪魔を睨みつける。


「確かに貴様の防御は見事なものだ、それは認めよう。だが、お前の魔力では我が防御を貫けまい」


 正しい。

 悪魔の皮膚は鉄よりも硬く、私の魔力量では天地がひっくり返っても貫けないだろう。


「援軍を期待したとて遅かろう」


 正しい。

 私の体感時間はさておき、実際それほど時間は経っていないだろう。

 仮面師ギルドに情報が渡ってからすぐに動き始めたとしても、間に合わない。


 それに、ソラノは知らないことだが、そもそも援軍がくる可能性は限りなく低い。

 なぜなら彼女は、民衆の前で仮面師だと名乗ってしまっている。

 仮面師ギルド間の暗黙のルールとして、獲物は早い者勝ちだというものがある、

 先に悪魔と戦い始めた仮面師がいるという情報がある中で、果たして動く仮面師ギルドがあるものか。


「貴様だけならば逃げることは可能だったろうに」


 正しい。

 私だけなら逃げることなど容易だった。

 今は無理だが、少なくとも刃の嵐を受け流す前は出来ただろう。


「なぜお前は逃げぬ、なぜお前は絶望せぬ、なぜお前はそれほどに前を向く」


 悪魔はまるで理解できぬと私に問うた。

 なぜ分からないのか、私の方が分からない。そんなくだらない質問だった。



「仮面師は逃げたりなんてしない」


 

 仮面師が逃げれば誰が戦う?


 仮面師が絶望すれば誰が希望となる?


 仮面師が前を向かねば誰が切り開くのだ!


 私にとって仮面師とはそういう者たちのことを指す。少なくとも、かつて私を救った仮面師はそうだった。

 仮面師は絶対でなくてはならない。仮面師が来たら勝利なのだ。仮面師がいれば安全なのだ。仮面師が来るまで耐えれば、と人々は希望を掲げるのだ。



「私が死ぬまで誰も死なせない。私が負けるまでは誰も負けない」



「それゆえ、諦めぬと?」



 あぁ、なんだ。

 自分でも不思議だった。100社も面接を受けて、不合格で。

 その度に諦めろ、諦めろと、口に出されて。


 才能の無さを突きつけられて、時にはひどい言葉で罵られて。


 私は泣いた。いつも泣いた。

 言い返す言葉も見つからなくて、毎朝泣いて、毎晩泣いた。

 今だって、涙が止まらない。


 それでも、それでも夢を諦めるなんて、考えたことすらなかったのはなんでなのか。



「助けを求める人がいるかぎり、私は諦めない」



 私にとって、仮面師とは在り方だ。

 どんな恐怖も絶望も押し殺し、決して表情には出さない。


 常に勇気をその胸に、悪魔の前へと己が身を晒す。


 ねえ、そうでしょう?

 才能が無いことも、勝利の希望が無いことも。


 諦める理由にはならないよ。



「だって私は、仮面師だから」



 もう動かなかったはずの体が、再び鼓動する。

 魔力が身体中の骨に入ったヒビを少しずつ補強して、私はまた立ち上がる。



「だからどうした。貴様に私を殺す手段などない」



 にやりと笑って握り拳を作る悪魔を前に、私は真っ向から対峙する。



「それこそどうしたの。お前の寿命が果てるまで、こうして戦えばいい」



 魔力を滾らせ、悪魔を睨め付けた。











 場を支配していたのは、間違いなく悪魔だったはずだ。

 しかし、今では違う。


「ぬ、ぬぅ!」


 気圧されている。

 我が、こんなにも小さく矮小な小娘に。


 悪魔は己の心に湧いて出た感情に驚愕した。


 目の前の少女は、いや、目の前の仮面師は。

 その身から、迸るような純白を輝かせていたのだ。


「バカな、その色は……」


 魔力には色がある。

 悪魔は魔力を可視化して、それを見ることが出来るのだ。


 ソラノの魔力は確かに白かった。

 しかし、ここまで透き通る純白であっただろうか。


 これではまるで伝承にて現れる勇者のよう。


「有り得ぬ、それは有り得ぬことだ」


 悪魔は頭に浮かんだその可能性をすぐに否定した。


 ソラノを睨みつけ、両手を組んでスレッジハンマーの形を取る。

 この攻撃に対して、今のソラノでは対応出来ないだろう。


 少なくとも先ほどの動きから、悪魔はそう判断していた。


 それでもソラノの瞳は曇ることなく透き通っていて。


 この仮面師はダメだ。危険すぎる。

 いずれ成長すれば、悪魔を滅ぼすことになるかもしれない。


 何が悪魔にそう思わせたのかは分からない。

 ただ、この少女の瞳を見つめていると、ひたすらに焦燥感が湧き上がるのだ。


 己の内に潜む恐怖を掻き消すように、鋭く吼える。



「ウォォォオオオオオオ!!」



 叩き潰さんとして振り上げた腕を降ろす、まさにその時。

 ソラノの魔力が、忽然と消えた。


 目から光を失い、そのままばたり、と倒れる。


「ダメよ、それ以上動いたらほんとに死ぬことになるわ」


 倒れたソラノを抱き上げ、そう優しく告げたのは先ほどまで怯えていた女性。

 彼女が後ろから放った手刀が、ソラノの意識を刈り取ったのだ。


「な、なんだと……」


 悪魔からしてみれば、理解の及ばぬ出来事であった。

 なぜ自らを守っていたソラノを女性が裏切ったのか。しかし、よく目を凝らせばその疑問は氷解した。


「貴様、悪魔だったのか」


 女性の周りを揺蕩うのは黒い魔力。

 目を凝らさなければ気が付かぬほどに上手く偽装された、悪魔の証。


「ふ、ふは、ふはははははは!」


 悪魔は可笑しかった。

 あれほどまでに必死に守ろうとしていた人間は、実のところ悪魔であった。

 ソラノの行為には何の意味もなかったのだ!


 そのあまりの愉快さに、悪魔は笑い声が止まらなかった。


「楽しそうなところ悪いけど、守らなくていいのかしら?」


 凛とした女性の声が響く。

 直後、空間を漆黒の光線が焼いた。


 咄嗟に体を逸らす悪魔だが、間に合わない。

 僅かに狙いを外れた光線は悪魔の右腕を焼き払う。


「私が正体を隠していたのは仮面師を警戒していたから。私がこの子を止めたのは、警戒しているのが馬鹿らしくなったから」


 女性の表情を表すなら一言で、憤怒。

 立ち昇る魔力は、悪魔より余程強大で。


「ひっ!」


 悪魔は女性に背を向け、走り出した。

 なりふり構わず、己の未来を予感して。


「悪魔の鉄則、受けた借りは返す。私はこの子に多大な借りが出来てしまったわ」


 嬉しそうに、それでいて優しげな表情で女性は眠るソラノを見つめる。

 それとは裏腹に、突き出された左手には莫大な魔力が込められていて。


「あなた程度に笑われるほど、私は穏便ではないし────


   ────この子は軽くないわ」


 空間を疾り抜ける、死の一閃。

 それは背を向けた悪魔の心臓を貫き、内側から焼き尽くした。


 悲鳴を上げて消えてゆく悪魔の最期をつまらなそうに見て、女性は踵を返す。


 とりあえずソラノの治療をしなければいけない。

 今屠った悪魔のことなど既に忘れ去り、頭にあるのはそれだけであった。

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