第42話 春の火を灯す
約一年後。
春の光が、やわらかく南市に降り注いでいた。
かつて占領下にあったこの街にも、ようやく季節のざわめきが戻っている。
よく見ると、言葉を塗りつぶされた標識や、撤去された監視カメラの台座が、街角にぽつりぽつりと残っていた。
それでも、人々は春の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、前へと歩き始めている。
卒業式を終えたばかりの沙耶は、制服姿のまま、卒業証書の筒を抱えて笑った。
その瞬間、晃は、思わず息を呑んだ。
一年で伸びた黒髪が、春風にふわりと揺れる。
子どもの頃の面影を残しながらも──
沙耶は、驚くほど大人びて、まぶしく、きらきらと輝いて見えた。
(……こんなふうに笑う子だったっけ)
自分でも理由のわからない戸惑いを覚えながら、
晃は、不器用に花束を差し出した。
「ありがとう、お兄ちゃん」
沙耶が、うれしそうに受け取る。
晃は、その笑顔から、目を逸らしたくなった。
──本当は、気づいていた。
ずっと前から、沙耶はもう、小さな子どもじゃないことに。
ただ、それを認めるのが、怖かっただけだ。
今日、卒業式の彼女を見て
──もう、言い訳できなくなった。
ずっとポケットに忍ばせていた、小さな箱。
渡すべきか、まだ早いのか──何度も迷った。
だけど今、心は静かに決まっていた。
(……今日、渡そう)
晃と沙耶は、並んで歩く。
夜の気配を含みはじめた少し冷たい風に、沙耶は自然に晃の腕に手を絡ませた。
──晃は、総選挙後に東都へ移り、蓮見の事務所で政策スタッフ兼秘書官として働き始めていた。
この春からは、沙耶も東都の大学に進学する予定だった。
ほんの少し前までは想像もできなかった未来。
それでも今、それはごく自然な『次の一歩』になっていた。
歩きながら、沙耶がふとつぶやいた。
「……ちゃんと通えるかな、東都の大学。心理士の勉強、難しいって聞くし」
声は軽かったけれど、ほんの少しだけ、不安がにじんでいた。
「大丈夫だろ。お前なら」
晃は即座に答えた。
自分でも、こんなにもすぐに言葉が出たことに、少し驚く。
沙耶は、ふっと笑って、ほんの少しだけ目を伏せた。
「私も……いつか、誰かを助けられる人になりたいんだ」
その小さな決意に、晃は胸が詰まる思いだった.
「なれるよ」
晃は即座に答えた。
自分でも、こんなにもすぐに言葉が出たことに、少し驚く。
(……成長したな)
かつては守られるだけだった沙耶が、
いま、自分の意志で未来を選ぼうとしている。
それが、まぶしくて。
そして、少しだけ、寂しかった。
「ほら、寒いでしょ」
無邪気な声。けれど、組んだひじに触れる感触に、晃は思わず硬直する。
(……何、今の)
沙耶は何食わぬ顔で、晃に寄り添っていた。
その頬が、桜色に染まっているように見えた。
「今夜、みんなで集まるんでしょ? シゲルさんがまたバズったって騒いでたし」
「シゲルがインフルエンサーってなぁ……まあ、らしいか」
沙耶がふわりと笑う。
晃も、苦笑しながら頷いた。
「みんな元気かな」
「沙織さん、鬼殺しダースで注文したらしいぞ……」
そんな冗談を交わしながら、ふたりはゆっくり歩く。
向かった先は──郊外の小さな墓地だった。
***
静かな墓標の前に、晃と沙耶は立った。
──阿久津剛。
「ここに、生きた。」
それだけが、簡素に刻まれている。
風が、春の匂いを運んでくる。
けれど胸の奥には、あの夜の焚き火の匂いが、まだほんのりと残っていた。
(──人を守るのは、責任じゃない。意志だ)
(火を絶やすな。頼んだぞ──)
かつて聞いた声が、静かに甦る。
晃は静かに立ち止まり、
胸の前で、そっと手を重ねた。
沙耶も、小さな花束をそっと手向ける。
ふたりの影が、春の光に溶けていった。
(……俺たち、歩いてるよ)
誰にともなく、心の中で呟く。
火は、確かに受け取った。
そして今も、灯し続けている。
春の風が、そっと墓前を撫でた。
***
次にふたりが向かったのは、街の一角に建てられた新しい碑だった。
「南市矯正施設 犠牲者追悼碑」
灰色の石に、やわらかい春の日差しが降り注いでいる。
碑の前には、手向けられた花束や、小さな折り鶴がいくつも並んでいた。
季節外れのマフラーや、手作りのカード。
静かに、でも絶え間なく、誰かが訪れていることがわかる。
晃と沙耶も、そっと一礼した。
(……本当にごめん)
救いきれなかった子どもたちに、心の中で静かに呟く。
(助けたかった。もっと、できたかもしれなかった──)
胸の奥に、かすかな痛みが残る。
そのとき。
ふと、すれ違いざまに、小さな声が聞こえた。
「……ありがとう」
振り返らなかった。
けれど、胸の奥が、じんわりと震えた。
嬉しくて、悲しくて。
それでも、確かに、生きている。
晃も沙耶も、黙って、もう一度深く頭を下げた。
春の風が、やわらかく、そして少し痛むように、碑を撫でていった。
***
碑を離れたあと、ふたりはまた静かに歩き出した。
夕暮れが近づき、空の端が、少しだけオレンジに染まりはじめている。
人通りもまばらな、小さな公園。
ブランコがきしむ音だけが、遠くで聞こえていた。
晃は、立ち止まった。
ポケットに忍ばせていた、小さな箱を、そっと取り出す。
沙耶が、きょとんとした顔で振り向いた。
「……沙耶」
晃の声が、かすかに震える。
「俺たち……一緒に住むって話、してたけどさ」
沙耶は静かに頷く。
目が、少しだけ潤んでいた。
晃は、箱を開いた。
中には、シンプルな、でもあたたかみのあるリング。
「ちゃんと、形にしたいんだ」
迷いは、もうなかった。
「これから先……どんなことがあっても、隣にいたい。……いいかな」
沙耶は、そっと口元を押さえた。
涙が、ぽろりと頬を伝う。
小さく、小さく頷いて、手を差し出す。
晃は、震える手で、彼女の左手薬指にリングをはめた。
ぴたりと、ぬくもりが伝わる。
沙耶が、泣きながら笑った。
晃も、思わず小さく笑い返し、
そっと、沙耶の頬に手を添えた。
ゆっくりと、顔を近づける。
──唇が、触れる。
静かで、やさしいキス。
それから、晃は、沙耶をそっと抱きしめた。
細い肩を、自分の腕の中に包み込む。
沙耶も、静かに目を閉じ、身を預ける。
しばらく、ふたりの間には、言葉も動きもなかった。
ただ、心臓の音と、春の風だけが、静かに流れていた。
──どれぐらい、そうしていただろうか。
ふいに、すぐ背後から、冷静すぎる声が落ちた。
「……7分20秒。これ以上続けると遅れるぞ」
晃がびくっと肩を震わせる。
沙耶も、ぱっと顔を上げた。
振り返ると──
そこには、無表情の出雲が立っていた。
腕時計をちらりと見やりながら、
まるで排水量でも測るかのように、淡々と告げる。
「お前……アメリカに行ったんじゃ……!」
晃が動揺を隠しきれず、声を上げた。
出雲は、眉ひとつ動かさず、冷ややかに言った。
「飲み会だからと仁科に呼ばれた。……ついでに来た」
「ついでって……!」
晃が、半ば呆れたようにツッコむ。
出雲は、微動だにせず、さらに冷静な一言を投下した。
「──行かないのか」
晃も沙耶も、もはや反論すらできず、
ただ赤くなってうつむくしかなかった。
出雲は何事もなかったかのように背を向け、
すたすたと先に歩き出す。
沙耶は、ぷっと吹き出し、
晃は、ただ呆然と立ち尽くした。
けれど、晃の手の中には──
まだ、確かに沙耶のぬくもりが残っていた。
春の風が、ふたりの頬をそっと撫でていった。
***
春の夜。
晃たちは、『カフェ・アーカイブ』に集まっていた。
かつて──小野寺奏が営んでいたこの店は、今、灰翼の情報班の女性リーダーであった中原真理が後を継ぎ、静かにその灯を守っている。
棚の上には、一枚の写真が置かれていた。
大学時代、晃、出雲、仁科、そして奏が肩を並べて笑っている。
奏は、わずかに笑みを浮かべながら、隣に立つ若い彼らを、静かに見守るように写っていた。出雲は、今と変わらず無表情で、晃も仁科も、まだどこか幼さを残している。
そんな写真の前を、春の夜風がそっと撫でていく。
──今夜は、生き延びた者たちの、ささやかな祝杯の夜だった。
テーブルには、キッシュ、サラダ、ローストビーフ──
所狭しと料理が並び、ビールやカクテル、ジュースのグラスがカラカラと鳴っている。
「沙耶ちゃん、卒業、おめでとう!」
仁科が声高にグラスを掲げた。
すかさず湊が「未来きたー!」と叫び、仁科が「落ち着け」と苦笑混じりにたしなめる。
「──灰翼の未来に、乾杯」
柿沼が静かにグラスを掲げ、みなも次々に声を重ねた。
ふと見ると、柿沼の手元には、今回も、淡いピンク色のカクテルが置かれていた。
チェリーと小さな紙傘が添えられた、どこか場違いなほど可愛い一杯。
「……また作ったんですか?」
晃が思わず声をかけると、
柿沼は無言のまま、こくりと頷いた。
沙耶がくすっと笑い、そっとグラスを覗き込む。
「かわいい……」
石田たち大人組は、静かにグラスを合わせていた。
シゲルは早速スマホを取り出し、自撮り棒をかまえて叫ぶ。
「この伝説的瞬間を、世界にバラ撒くしかないっしょ!!いや、俺たち──『進化するサラマンダー』!」
「何語だよ」とあちこちから突っ込みが飛ぶ。
その横で、沙織はしれっと「鬼殺し」のパックを抱えていた。
最初は笑っていたのに、気がつけば、頬を真っ赤にして、涙ぐんでいる。
「沙耶ちゃん……晃くん……ほんとによかったぁ……!」
「泣くの早い!」
「誰か止めろ!」
「いや、沙織さん泣き出すと止まんねぇから!」
湊が騒ぎ、中原が黙っておしぼりを手渡し、柿沼がそっと鬼殺しを取り上げる。
晃も、グラスを手に、沙耶と目を合わせた。
ふたりとも、照れくさそうに笑いあう。
そのとき。
「……ん?」
シゲルが、沙耶の左手にちらりと目を留めた。
「えっ!?ちょっと待って推しカプが公式になってる!?やば、これ萌え案件なんだけど!!その指輪、なにっ!?」
店内のざわつきが、瞬間、止まった。
「えっ、えっと……」
沙耶が慌てて手を引っ込め、
晃もごくりと喉を鳴らす。
中原が声を上げた。
「えー!? なになに、プロポーズとかしちゃったのー!?」
「ち、違……!」
晃が顔を真っ赤にして否定するが、
すでに場は騒然と盛り上がっていた。
そんな喧騒のなか、石田や日比谷や相馬をはじめとする大人たち、灰武の仲間たちは、それぞれにグラスを手に、静かに杯を傾け合っていた。
言葉は少ない。
ただ、互いに視線を交わし、わずかにうなずく。
その表情には、確かな誇りと、深い安堵が滲んでいた。
日比谷は、静かにグラスを傾けながら、小さく呟く。
「……いい夜だな」
誰に向けるでもなく、ただ静かに。
そして、宴の夜は深まっていく。
***
仁科と出雲は、カウンター席で並んでノンアルのグラスを傾けていた。
その傍らに晃が近づくと、仁科は無言で席を譲った。
互いの近況を語り合い、一年前の出来事を振り返り、大学時代の思い出に笑った。
不思議な程、滑らかに会話が弾んだ。
「正直さ…」
ふと落ちた沈黙の中、晃が口を開く。
「意外だった。お前が踏み出すことはないと思ってた」
それには答えず、出雲が眉を小さく上げる。
「お前は、なんで…?」
視線が絡む。
まっすぐな晃の眼差しに、先に目をそらしたのは出雲だった。
出雲は無表情のまま、グラスを一口すすると、ぽつりと口を開いた。
「──そうだな、以前に『誤差』だと言ったが」
その言葉に、晃は、あの日の病室を思い出す。
傷だらけの自分のそばに、出雲が封筒を置いていった、あの夜を。
晃は、小さくうなずき返した。
出雲は、再び静かに口を開いた。
「……誤差じゃなかった。以上だ」
短く、ただそれだけを告げた。
出雲の言葉に、晃は一瞬、言葉を失った。
胸の奥で何かが揺れるのを感じたが、すぐにその感情を押し込めて口を開いた。
「そっか…」
「そろそろ失礼しよう」
出雲は、腕時計を確認し、空になったグラスをテーブルに置くと、すっと立ち上がった。
「もう行くのか」
「ああ──おめでとう」
どこか名残惜し気に手を伸ばした晃に、短い祝福を残し、出雲は夜のドアの方へ向かう。
「おい、また来いよ!」
「次はもっと飲めよ!」
「元気でな!」
仲間たちの声が、自然に飛び交った。
出雲は背中でそれを受け止めながら、手を軽く挙げ、静かに外の闇へと消えていった。
笑い声に混じって、春の夜風が、静かに店内をなでた。
──生き延びた者たちの夜は、静かに、更けていった。
***
『灰の翼は自由を知らない』、完結しました。
長い物語に最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
私にとって、これが初めての長編です。
拙いところも多々あるとは思いますが、それでも──書きたかったことは、すべて書ききれたと思っています。
この物語が、読んでくださったあなたの心に、
少しでも何かを残せたのなら、こんなにうれしいことはありません。
静かに夜が明けるように。
誰かの心に、火が灯るように。
明日、明後日は番外編で「こぼれ話」を投稿予定なので、もう少しお付き合い頂ければ幸いです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます