第39話 選ばれし浸食者

静かだった。書類の音も、端末の起動音もない。甲斐はただ、無表情でひとつの通知だけを見ていた。


ここは、首都郊外の政府施設の一角。官邸とは別の、報道に映らない地下区画。光は冷たく、家具は最小限。換気音だけが、かすかに響いている。この場所は『避雷針』と呼ばれていた。政権の中心から少しだけ離れた場所に、時折、『何か』が落ちてくる。


甲斐宗一。


現・内閣総理大臣。民政革新党の代表であり、その素性にはいまだ謎が多い。ごく一部の政界関係者の間では、出自について『ある国』との関係を噂されていた。


威圧的で隙がなく、勝つためには手段を選ばない。だが同時に、言葉に力があり、演説では人を惹きつけるカリスマ性もあった。テレビでは理性的で調整型のリーダーとして紹介されているが、それもまた事実の一面に過ぎない。実際の甲斐は、野心に満ちた支配者型の人間でありながら、己の言葉で民意すら飲み込む術を知る、稀有な政治家だった。


変わったのではない。最初から、そうだった。


甲斐宗一は、日本人のふりをして、この国の中枢に送り込まれた『浸食者』だった。


民意を操り、制度を書き換え、支配の構造を『カナンの形』に塗り替える。

その任務のために、彼はこの国の言葉を学び、空気を真似し、やがて『選ばれる者』になった。


政権の中枢に入り込むこと。それこそが彼の使命であり、存在理由だった。


そのとき、端末にもうひとつ通知が届いた。選挙情勢の速報だった。


「民政革新党支持率:46.1%(速報値)」

「言志会支持率:48.0%(速報値)」

「不支持理由:『出自への不信感』が急上昇」


甲斐の指先がわずかに止まる。


(……投下したか、蓮見)


選挙戦終盤。

言志会は、ついに切り札を使った。

甲斐の『出自』に関するリークを、SNSとジャーナル系メディアに流したのだ。

もちろん、証拠は曖昧だ。だが、疑念は火種になる。言葉よりも、空気のほうが速い。


さらに、姫野からの通信が入る。


『首相。今の数字、見ましたか? あなたの『経歴』について、記者が動いています。

……『あの件』は、火消しを急ぐべきです』


口には出さず、甲斐は画面を閉じる。

表情は動かない。ただ、内側で何かが軋んだ。


(あの女まで……)


今、自分の手の中にあるのは、選挙と、暴動と、軍事作戦。

それらすべての糸を握っていながら、いつしか──

自分自身の「正体」だけが、制御できなくなり始めていた。


ポケットの中で、端末が微かに震えた。

甲斐は受話ボタンを押し、誰の名も表示されない回線を静かに繋ぐ。


『──選挙に勝てるのか?』


日昇語ではなかった。聞き慣れない抑揚、舌の奥で弾むような発音。

それは、甲斐が幼い頃から身体に染み込ませた「母国」の言葉


それはまた、異質そのものだった。

国境を越え、言語を越え、静かに侵入してくる支配の残響。


かつて懐かしいと感じていた言葉が、今は冷たく、命令の匂いしかしなかった。


甲斐は短く、しかし丁寧に答える。


「……おそらく、勝てると存じます」


間髪入れず、低く鋭い声が返る。


『──『おそらく』などという曖昧な表現は不要だ。日昇国は、確実に我が国の支配下に置かれねばならない。必要であれば、武力を用いよ。テロリストを排除しろ。記録も、声も──痕跡を残すな』


沈黙が数秒。

甲斐は静かに息を吐いた。


「国内の動向を見れば、過度な軍事行動は危険と判断されます。……しかし、必要とあらば、私が執行いたします。ただし、その際の責任の所在は──?」


電話の向こうが、冷たく言い放つ。


『失敗すれば、君自身が白の裂界行きだ』

「……承知いたしました」


通話は切れた。


それが、『カナン本国』という存在だった。


本国から届くものは命令ではない。文面もない。署名もない。発信元すら不明のまま、ただ──「空気」だけがあった。


通信の裏を走る、沈黙の圧力。甲斐の背筋に入り込んで、静かに、内側を締めつけてくる。


灰翼を殲滅しろ。


そう命じられたわけではない。だが──逆らえば、消える。


記録も、記憶も、証人もなくなる。かつてこの国で、そうして消えた人間たちのことを、甲斐はよく知っていた。


それでも、自分は今ここにいる。一国の総理大臣として、スーツに身を包み、沈黙に応えることだけが、政治だと思い始めている。


最初は『協調』だった。次に『適応』になり、今はもう『服従』と呼んでも違いがない。


だが、それに痛みはなかった。

甲斐の中には、かつての理想も、正義も、苦しみも、すでに残っていない。


「……消えてしまえば、記録も、声も、消せる」


甲斐はそう呟いてから、少しだけ口元を緩めた。


それが、自分の口から出た言葉なのか、それとも、カナンの『声なき声』が喉を通って出たものなのか──


自分でも、もう分からなかった。


***


姫野は、動いていた。


支持率の低下。

もはや一過性ではないと、誰の目にも明らかだった。


だが──それでも。

まだ勝負はついていない。


姫野は小規模なテレビ局の特集枠を押さえ、

出口調査直前、空気が最も揺らぎやすい瞬間に、

わずかな映像を滑り込ませた。


最後のひと押しで、流れを引き戻す。

それが叶えば、まだ間に合う。


──そう信じて、指を止めない。


その裏で、

名前を隠すことなく告発に臨もうとする者が、

静かに、しかし確実に、準備を整えていた。


***


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