第35話 ゼロタイム・プロトコル

午後15時55分。


旧市街・第六倉庫群跡地。


かつて物流の要所だった一帯は、今では封鎖された区域として地図から抹消されている。

その屋上で、日比谷誠司は風を受けながらヘッドセットを調整した。


「こちら灰武班長、作戦開始を宣言する」


「コードネーム──『破片の踊り子』」


その言葉と同時に、空気が震えた。

数秒の静寂。


そして──


ビル街の南端、旧警備局舎の外壁が閃光と共に吹き飛んだ。

衝撃波が煙と埃を巻き上げ、警報音が幾重にも重なって響く。


各地に設置された陽動用の簡易爆弾が連鎖的に炸裂し、

まるで市街地全体で暴動が発生したかのような錯覚を与える。


日比谷は双眼鏡で遠くを確認しながら、警備隊の動きを目で追う。


爆破音に釣られるように、複数の車両と機動隊員が医療センター周辺から引き上げていく。

普段なら厳重に警備されている医療センターの周囲が、まるで穴が開いたように一気に手薄になった。


彼らが向かったのは、爆発が起きた倉庫街と警備局舎。これにより、センターへの監視は一時的にほぼゼロに近づく。


灰翼の突入班がセンターに近づけるのは、このわずかな時間だけだった。


「よし……医療棟が手薄になった」


そして、冷静に一言つぶやいた。


「こっちは引きつけた。あとは、お前らの番だ──15分以内に、決めろ」


一拍の静寂。

無線の向こうから、少し熱のこもった声が返ってきた。


『おっけー!ナイスナイス陽動班!警備、めっちゃ釣れてる、超釣れてる!

いま、潜入組、サクッとダイブできるわ、これ!』


背後で石田の「シゲル、テンション落とせ」ってぼやきが入った。


『……っと、ごめ、ごめ。まじで今、秒で勝負決まるフェーズ入ってるから!

全員、動き神ってる!!』


「それでいい。映像を出せば狙われる。気をつけろ」


日比谷は短く返すと、ヘッドセット越しに小さく笑った。


「……あとは、信じるだけだ」


***


午後16時05分。


南市保健安全センター・矯正棟。


この場所に、自分が初めて足を踏み入れることになるとは思わなかった。

そう思った瞬間、沙耶の胸は浅く脈打った。


白い廊下の奥には、処置室がある。記憶の中で叫び声が蘇る。

第七センターでのあの日──似ている、でも違う。それでも、記憶は自然と蘇ってくる──押さえつけられ、注射器の影を睨みつけたあの時間。


(……大丈夫。今は違う。あの時は、声を上げられなかった)

(でも今は、足が震えても、喉が渇いても──立ち向かえる)

(だって、あの時の自分と同じように、今も声を上げられずにいる子がいる。

 私は『誰か』に救われた。だから今度は──私が、その『誰か』になる)


沙耶は肩にかけた簡素な診療記録フォルダを強く握った。

医療スタッフに扮した自分たちは、外見上は完全に施設内の一員だった。

だが胸の奥には、録音機と、決意と、かすかな恐怖が混在していた。


沙耶の胸元には、小型のカメラが固定されている。

そのレンズは、隣を歩く沙織の真剣な横顔──決意を秘めて前を見据える強い表情──をしっかりと捉えていた。


沙織は、沙耶の視線に気づいて、そっとその腕に手を添える。


そのとき、胸元の通信機からかすかなノイズが走った。

『姐さん、しっかり写ってますよ! 完全にキマってます! その目、その構図、その空気感──まるで『暁星セナ』っすよ! クール系激レア副隊長枠! これ、絶対バズりますわ!』


シゲルの声。

緊張の空気を和らげるような、どこか明るさすら帯びた声だった。

沙耶の肩が一瞬だけわずかに震え、そして小さく息を吐く。


「無理はしないで。……大丈夫、私がいるから」


沙織が優しく微笑むと、わずかに頷く。


「録画、入ってる。音声も大丈夫。……行こう」


その表情は冷静そのものだった。

プロとしての顔。報道者として、記録者として、感情を封じる覚悟の顔。


だが、ドアの先にあった光景は──それを打ち砕くには十分だった。


処置室。


十代前半と思しき少女が、ベッドに縛りつけられていた。

口には矯正用のマウスピース。両腕は拘束具で締められ、身体をよじらせている。

そして、その腹部には──すでにメスが入っていた。


無影灯の下、手術用のガウンを着た医師と看護師が手を動かしている。

麻酔の処置は……されていない。


腹部には切開された線が走り、そこから管が伸びている。止血は不完全で、血が滲み、器具が鈍く揺れていた。

麻酔薬のアンプルは未開封のまま、台の上に置かれていた。


少女の口からは、かすれた嗚咽が漏れていた。苦痛に染まった顔。涙で濡れた瞳。


沙織の足が止まった。


「……っ……」


沙耶の視界が一瞬、二重になった。

息が詰まり、足元が揺らぐ。鼓動が高鳴る。第七センターでの記憶がフラッシュバックのように彼女を包んだ。


「やめてください、まだ体が……」


看護師が何かを口にするが、それを制するように、後ろから現れた男がいた。

警備用の制服、そして手には警棒。


「手間取るな。転送は時間厳守だ。感情に構うな」


その言葉に、沙耶の喉が音を立てて鳴った。あのときと、同じだ。


でも、違ったのは──


沙織だった。

震える声で、しかしはっきりと前に出る。


「許さない……絶対に許さない。医療の場にいる者が、なんてことを……!」


声が震え、怒りと悲しみが混ざった涙が溢れた。


「人の命を……何だと思ってるの……っ!」

「新入りか? 落ち着け」


警備員が眉をひそめて振り返る。沙織の制服と動揺を見て、戸惑ったように目を細めた。

だが、沙織の声は止まらなかった。


「あなたたちのことは──全世界が知る。映ってる。全部、世界に届く……そしたら……」


一瞬、室内の空気が凍りついた。


「こいつ、灰翼か? 取り押さえろ!」


男の目が敵意に染まり、警棒を構えてこちらへ向かってきた。

沙織は一歩も動けず、ただ硬直していた。


その瞬間──


「沙織さん、下がって!」


叫び声とともに、沙耶が彼女の前に飛び出した。

制服の内ポケットに手を差し込み、震える指先を必死に制しながら、スタンガンを引き抜いた。その動きはぎこちなかったが、確かな意志があった。


バチッ。


乾いた音と閃光。


警備員の腕にスタンガンが当たり、彼は短く呻いて後退する。


けれど同時に、反射的に振るわれた警棒が沙耶の肩を打った。


「ぐっ──」


その場に崩れ落ちそうになる。


「沙耶ちゃんっ…!」


ふらついた警備員に、沙耶は震える手で再びスタンガンを押し当てた。

今度は、ためらわずに数秒間押し続ける。

男の体が痙攣し、そのまま崩れ落ちた。

苦悶の呻きだけが残り、動く気配はもうなかった。


叫んで駆け寄る沙織の手に、彼女はかすかに応えるように指を絡める。

彼女はその表情に気づき、そっと手を握り返した。


その表情は、苦悶に歪みながらも、どこか覚悟を決めた穏やかさを含んでいた。


「……大丈夫……ちゃんと、映ってたでしょ?」


そのとき、沙織の耳元で、無線がかすかに鳴った。


『映ってる。バッチリだ、世界が黙っちゃいねえ──』


それは、シゲルの声だった。


涙をぬぐう暇もなく、沙織は頷いた。


「うん、映ってる。全部、映ってる」


***


午後16時07分。


南市保健安全センター・機械区画 裏搬入口前。


EMPの余波で、電子錠の表示が一瞬チカつく。

柿沼が手際よく端末を取り出し、補助回路から強制解除の処理を走らせた。


「──開いた」


ドアが、静かに押し開かれる。


仁科は息を殺し、周囲の気配を探る。


彼らの任務は、監視室にたどり着き、センター内部の実態を外へ届ける『第二中継』を担うことだった。沙織たちの正面突破が失敗したときのために用意された、もう一つの暴露ルート。たとえ正規の中継が潰されても、この映像が届けば、世界は目を逸らせない。


「EMPの効果が切れるまで、あと十分。……やるなら今しかない」

EMPによってセンター全体の電子セキュリティが一時的に弱まっている。

このわずかな時間だけが、監視システムルームに侵入できる唯一のチャンスだった。


仁科の声に、柿沼が静かにうなずく。

二人は暗がりの廊下に足を踏み入れた。


足音は、沈黙に吸い込まれるように消えていく。


(……守るって、こういうことなのか)


仁科は、手の中の端末を見つめながら思った。


大学時代、政治サークルの仲間たちと語り合っていた日々。

まだ監視も施設もなかったが、社会の空気は、少しずつ濁りはじめていた。


あの頃、自分には「正しさ」よりも「距離」が大事だった。

晃が、政治サークル内で持ち上がった不正疑惑に切り込もうとしたときもそうだった。

止めることも、かばうこともできなかった。


ただ見ていた。巻き込まれるのが怖くて。


(晃、お前はひとりで行ったんだな)


灰翼の話は、奏から聞いていた。

だが、そのときの自分には、踏み出すだけの覚悟がなかった。


それでも──討論会で語る晃の姿を見たとき、ようやく腹が決まった。

あのとき何もできなかったなら、今やるしかない。


だから灰翼に入った。

今度は、ただ見るだけじゃなく、声を届ける側に回るために。


自分が守れなかったもの。

あのとき逃げたこと。

今、ようやく償える場所に立っている気がした。


「……仁科、急げ。奥の配電パネルを落とす。セキュリティロックが作動する前」

「了解」


EMPの効果が残っているうちに、機器系統のセキュリティを一時的に落とせば、監視システムルームにアクセスできる。


彼らの前方、奥まった部屋で光が点滅する。

そちらへ向かって、ふたりは走り出した。


『お二人さん、姐さんがやってくれたよ』

シゲルの通信が入る。

二人は目を見合わせて、無言でガッツポーズを交わす。


「……なら、俺たちは『別視点』を撮る。あいつらが正面なら、こっちは裏側から支えるんだ」


柿沼がうなずく。


「第二中継ライン、開く」

「映してやれ。……今度こそ、見逃させない」


彼らは再び廊下へと踏み出し、センター中枢に近い監視室へと向かう。


そこは警備と監視を兼ねた中枢制御室だった。


扉を開けると、壁一面のモニターにセンター内部の様子が映し出されていた。

拘束室、処置室、食堂跡地──そこにあるのは、静寂とは程遠い光景だった。


「……これ、全部……リアルタイムか?」


柿沼の声が震える。


「録画も混じってる。でも……これは、ひどい」


仁科が苦々しく答え、ひとつの画面を指差す。

そこには、収容者が粗末なマットの上で身を縮める姿が映っていた。


「これを映す。世界に晒す。ここを『もう戻れない場所』にする──それが俺たちの仕事だ」


柿沼は何も言わずにうなずき、録画端末と配信ラインを再接続する。

画面の一つに、『STREAMING START』の文字が表示された。


***


午後16時03分。


南市保健安全センター・薬品保管室 隣室


「灰武班、バチバチに決めてくれたけど──さてさて、他の推し班はどう動く?中継タイム、本命の幕開けだぜ?」


シゲルは口元で笑った。

彼らが身を潜めているのは、医療棟の一角──薬品保管室の隣だ。

沙織が「定期点検の時間に無人になる」と読んでいたその場所は、今も死角が多く、機材を設置するにはうってつけだった。


すでに中継装置は設置済みで、シゲルが先行して確保した配線を基点に、野田が信号の最終調整を進めている。


その隣では、バックアップ担当の石田恭平がノート型の端末を手に、別ルートからの回線ログを監視していた。灰翼の呼びかけに応じて、この作戦に加わった彼は、元技術局の職員で現場経験は浅いが、緊張に硬くなりながらも、指先は正確に動いている。シゲルにとっては、信頼できる若手だった。


EMPの効果が切れるまでの時間、この死角は『透明』のまま保たれるのか、それとも……。


野田は警戒を解かずに作業を続けた。端末のバーが、じわじわと進む。


リアルタイム中継の最終調整が進んでいる。接続の安定を確認するためのチェックバーが、じわじわと進む。


「……頼むぞ、みんな。あと少しだ」


ビープ音が鳴った。リンクは安定、映像と音声の流れも確認済み。

中継班の回線が、灰翼のネットワークにリンクした。


『……中継、確立。突入班、視界を開放する』


施設内部の監視映像の一部が、簡易端末に転送され始める。

映像は荒く、フレームも途切れがちだが、各所の通路や出入口の様子が断片的に確認できる。


その中に、沙織の姿があった。

処置室の前、カメラの端にかすかに映る白衣の背中。微かに震えながらも、彼女はカメラの向こうへと踏み込んでいく。


「姐さん、しっかり写ってますよ! 完全にキマってます! その目、その構図、その空気感──まるで『暁星セナ』っすよ! クール系激レア副隊長枠! これ、絶対バズりますわ!」


その雄姿に声援を送ると、すぐに、もう一つの映像が入る。 別ルートから入った仁科たちの視点だ。監視室らしき一室の壁モニターに、センター内部の様子が次々と表示されていく。血に染まったベッド、無影灯の光、拘束具。リアルタイムなのか録画なのか、それすらも曖昧なほどに静かで異様な映像だった。


シゲルは石田と共に、黙ってその映像を見つめる。


「……これで、全部繋がったな」


石田がかすかに頷き、口元を引き結ぶと、各班に伝える。


「仁科の中継も今、通った! 二系統ともリンク確認!」


これで、沙織班が担っていた南側の中継、仁科班による施設東側ルートの中継、そして、それらを繋ぐ中継の核として機能する、シゲルと石田の医療棟中継。三系統すべてが接続を完了した。


データパネルには、三系統すべての中継が「LIVE」のマークと共に安定稼働を示していた。

回線の状態も良好だ。受信ログには、外部との接続を示す安定した信号がいくつも記録されている。


シゲルは、その表示を見つめたまま、そっと息を吐く。

小さく頷いてから、端末を静かに閉じた。


(……これで、届けられる)


声には出さなかったが、その感触は、指先にかすかな手応えとして残っていた。

シゲルはふっと息をついた。


隣で見張りについていた石田が、端末に目をやりながら低く呟く。


「南ルート、沙織班の中継……来た」


画面には、複数の映像が荒く切り替わりながら並んでいく。建物の裏手、物資搬入口らしき映像の中で、誰かが小さく手信号を送っているのが見える。


『人の命を……何だと思ってるの……っ!』

『新入りか? 落ち着け』


通信越しに、沙織の声との警備員らしき男の声が響く。


それから、もみ合うような様子と音。


「映ってる。バッチリだ、世界が黙っちゃいねえ──」


沙織と沙耶の様子が気がかりだが、仁科班からの中継もつながなければならない。


「お二人さん、姐さんがやってくれたよ」


仁科と柿原が荒い画面越し、目を見合わせて、無言でガッツポーズを交わす。


『……なら、俺たちは別視点を撮る』


彼らは再び廊下へと踏み出し、センター中枢に近い監視室へと向かう。

画面越しに、壁一面のモニターにセンター内部の様子が映し出されていた。


データパネルの一角では、三系統の中継映像が今も安定して流れ続けていた。


各映像に表示される「LIVE」マークが、視界が外部と確実につながっていることを示している。


この映像は、世界のどこかで、確かに受信されていた。


一方で、EMPの効果が限界に近づいている。廊下の先では、再起動したセンサーの赤い光点が小さく明滅を始め、数秒ごとにその速度を上げていた。EMP──電磁パルスによって機器の一時停止を引き起こす兵器だが、その効果時間には限界がある。

彼らの『透明』、つまりセンサーに映らない状態は、あとわずかで破られる。


「よし、これで十分だ、撤収する」


シゲルはふっと息をつき、立ち上がろうとしたそのときだった。


「っ――くそ!」


横合いから飛び込んできた影が、シゲルの腕をねじ上げる。 制服姿の男――センターの警備要員か。いつの間にか迂回してきた別の部隊が背後を取っていた。


「シゲルッ!!」


石田の叫びが飛ぶ。


その叫びも虚しく、シゲルは制圧され、地面に伏せさせられる。


「へへ、ま……繋いだからよ……十分だろ……?」


押さえつけられながらも、シゲルは笑っていた。

泥だらけの手のひらが、かすかにガッツポーズを作る。


その様子を、石田が黙って端末のカメラに収めていた。

映像は中継ラインに乗って、今まさに灰翼の中枢ネットワークを通じて外部へと転送されていく。

シゲルの姿も、確かに『世界』に向けて送られていた。


その背後で、足音が近づく。

振り返る間もなく、制服姿の警備要員が彼に襲いかかった。

端末が床に落ち、スライドしながら壁際へと転がっていく。


「っ……やめ──」


石田も、地面にねじ伏せられた。中継を終えたばかりの現場が、静かに制圧されていく。


壁際に転がった端末の画面には、かすかに通信中のアイコンが残っていた。


『STREAMING… ACTIVE』


その中継は、確かに届いていた。 沙織の声も、監視映像も、シゲルと石田の姿も──リアルタイムで外の世界へ流れ続けている。


警備員の足が、その画面に近づいていく。


***


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