第25話 沈黙の傍観者

東都、朝焼けの差し込む部屋の一隅。


数日前、救出された子どもたちは、灰翼の協力で南市郊外の安全な隠れ家に移された。沙織ともう一人の医療担当者が交代で世話にあたり、心身のケアと避難準備が進められている。

晃と沙耶は、東都での見届けを終え、この場所を離れる決意を固めていた。椎名と奏については、今のところ灰翼も静観の姿勢を取っている。

確証がない以上、現時点では『泳がせる』という判断だった。

荷物はすでに最低限のものだけがまとめられていた。

家具や生活用品は、ほとんどそのまま。

戻るつもりがない──そう決めた晃の決断だった。


静かな室内に、端末の着信音が響いた。


画面には、ひとつの名もなきアカウント。

だが、晃にはそれが誰かすぐにわかった。


──蒼風


《……通話、いいか?》


メッセージはそれだけだった。

晃は画面をタップし、通話を開始する。


「……いるか?」

『ああ。聞こえているよ、晃くん』


どこか落ち着いた、静かな声だった。


「……もう行く。南市に。証拠を探して、あの子たちを助ける」

『それが、君の答えなんだね』

「でも……それだけじゃ、何も変わらない気もしてる」


ふと、討論会の記憶がよぎった。

観客の誰かが涙ぐんでも、拍手が起きても──

あの壇上の熱は、どこか遠く、現実を揺るがすには足りなかった。


『君が感じた通りだ。真実を語るだけでは、届かない。だからこそ、今、必要なのは、言葉ではなく『場』だ』

「場……?」

『公的に語る場──選挙だよ。

民意を動かし、権力の形を変える。

それが唯一、彼らに届く形になる』

晃は小さく息を吸った。


「……やっぱり、そうか」

『でも、選挙だけでも不十分だ。証拠が要る。誰にも否定できない、現実の痕跡が』

『協定文書の写しは、今も私の手元にある。けれど、それだけでは足りない』

『施設内で行われた『移植記録』や『搬送ログ』──あの街に、まだ痕跡が残っているはずだ』

『そして……君の探し出したSSD』

『だが、まだ決定的な証拠が足りない』

「南市に、『白の裂界』にあると思う。そのために行く」


あの言葉が意味する場所に、ようやくたどり着いた気がした。

沙織がかつて語った、『臓器提供のための選別施設』――

南市中央医療センター。


彼女はあの場所を、『白の裂界(はくのれっかい)』と呼んだ。


いま、そこに向かう理由がある。


『わかっている。君になら、見つけられる。……君の目は、もう過去を見ていない。前を見ている』

「……ありがとう、蒼風」


少しの沈黙。

「なあ、もしかして、俺……あなたに、会ったことがあるか?」


一瞬、通話の向こうで気配が揺れた。


『どうかな。人は、誰かに会ったことを『出会い』と呼ぶ。でも私は、まだその言葉を使う勇気がない』

「……変な言い方だな」

『いつか、私が自分の声で、真実を語れる日が来たら。きっとそのとき、答えるよ』


通話が切れた。


しばらく、晃はじっと端末を見つめていた。


その手に、かすかな熱が残っていた。


***


夕暮れ時。

東都の一角にある古い建物の屋上。

低層だが見晴らしがよく、今も、限られた人間にだけ知られた、監視のための場所として使われている。


出雲隼人は、手すりの前に立ち、遠くの空を眺めていた。


出雲の視線の先には、ビル群の隙間から見える一棟のマンションがあった。

あの部屋の一室に、晃と沙耶がいる。


数百メートルの距離。目には、荷造りをするふたりの姿が小さく映っている。

耳元の小さな受信機からは、盗聴器を通して会話が流れていた。

ガムテープのちぎれる音、短い笑い声、足音の気配──そのすべてを、出雲は静かに受け取っていた。


だが、その目は次第にマンションから離れ、空へと向かっていた。


ビルの群れの向こうに、ゆっくりと沈んでいく夕日。

オレンジ色に染まる空が、まるで誰かの心を包むように広がっている。


それを眺める彼の手の中には、小さな黒いセキュリティケースがあった。

カードほどのサイズで、内部には暗号化された復号キーが格納されている。


晃が第四補助施設から持ち出したSSDは、複数層の暗号化が施されており、灰翼側でも解読に苦戦していると、別ルートから情報が入っていた。

晃たちが今後の戦局を動かすために必要な『鍵』の一つ。

それを渡すか否か──その判断は、出雲ひとりに委ねられていた。


渡せば、あるいは戦局は変わるかもしれない。

だが、それは自分が一線を越えることも意味していた。


出雲は、その角を指でつまみ、ほんの一瞬だけ力を込めた。

強く押せば、物理的に破壊できる設計だ。だが──その手を止める。


まだ、その時ではない。

晃が南市に向かうと決めた今も、出雲はまだ彼の行動を見守っている。


すべてを託すわけではない。

信じたわけでもない。


ただ──あの時、あの目を見て、少しだけ立ち止まった。


「……まっすぐすぎるんだよ、お前は」


ひとりごとのように、呟く。


誰に聞かせるわけでもない声。


討論会で、真正面から姫野にぶつかっていった姿。

大学時代、政治サークルで初めて出会ったときから、変わっていない。

あの頃も、相手が誰であれ、正面から挑んで、そして時には粉々に砕けた。


(どこまでも直線的なやつだ。だから壊れるときも一直線だろう)

(……それでも、危なっかしいけど、止めたくないと思った)


そのとき、不意に耳に届いた。


『……蒼風って、もしかして蓮見さんなのかな?』


ビルの隙間から見えるマンションの一室。

沙耶の声が、盗聴器越しに、出雲の耳に届く。


少し間があって、今度は晃の低い声が続く。


『……お前も、そう思うか?』


沙耶が何かを返すように笑う。


そのやりとりに、出雲は静かに息を吐いた。

出雲は、ゆっくりとまぶたを閉じた。


(……そうか。気づいたか)


まるで、記憶の奥底にしまっていた何かが、そっと引き出されたようだった。

蓮見の声は、あいかわらず冷静だった。

どこまでも理性的で、感情を見せない。


(……感情がないわけじゃない。むしろ、誰よりも激情を押し殺してる)


だからこそ、危うい。

それでも──羨ましいとさえ思ったことがある。

あの夜、ふたりで向かい合ったときの会話が甦る。


「選挙と証拠、これがあれば覆せる」

「そうだろうな」

「だけど、選挙で勝つことは不可能だ。不正が仕組まれている」

「具体的には?」

「開票時の電子集計が操作されている。票のすり替えも。少なくとも二箇所の投票所で、実際の投票数と報告が一致していない記録がある。……上層部が関与しているのは確実だが、決定的な証拠がない」

「つまり、それを探れと?」

「君にしか頼めない」

「……何を頼んでいるのかわかっているのか」

「わかってる。これが表沙汰になれば、暴動が起きるかもしれない。国そのものが揺らぐ。……そして君も、無事では済まない」


出雲は、そのとき無言で頷いた。

表情ひとつ変えずに。


自分が何を背負うことになるのか──それも、すべて理解していた。

情報を暴くということは、国家そのものの基盤を揺さぶるということ。

それに加え、消される可能性も、名を汚される危険も、決して小さくない。

それでも、口には出さなかった。

言葉にする必要もなかった。


(知ってて頼んでくるとはな。意外とシビアな人だ)

(でも……誰よりも、この国の未来を想っているのは、間違いない)

(証拠と選挙さえあれば──あの人は、もしかしたら『勝てるかもしれない』)

(……だが、その『かもしれない』に、命を懸ける覚悟があるのか)


その問いは、晃ではなく、自分自身に向かっていた。


(僕は今、何者なんだ)


政権の犬でもなく、灰翼でもなく。

本庁に籍は残っている。

だが、現場にはもう呼ばれない。

報告義務も形ばかりだ。


……だが、切られたわけではない。

彼らは、自分をまだ『使える駒』として見ているのかもしれない。

あるいは──監視の枠内に置いておきたいだけか。


……彼らも、もう気づいているのだろう。

出雲が、どちらにも本気では従っていないことを。


(今の僕は、ただの情報屋だ。秩序の番人でも、正義の味方でもない)


かつての自分は、もっと単純だった。

理屈と損得、計算だけで十分だと思っていた。

感情を挟まなければ、傷つくことも、迷うこともない──ずっとそうやってやり過ごしてきた。


なのに、どうしていま、こんなにも足が止まるのか。


けれど、あの男を──いや、かつて同じ時間を過ごし、同じ場所で言葉を交わした『あの男』が背負おうとしている『火』を、消したくはなかった。


あの男を見ていると、過去の自分が問いかけてくる気がする。


お前は、あの時、踏み出さなかった。

だが、もし踏み出していたら、こんな顔をしていたのかもしれない。


それが滑稽でも、無謀でも──どこか、羨ましかった。


それだけは確かだった。


「どちらかに肩入れすれば、もう元には戻れない」


小さくつぶやいたその言葉は、夕焼けの風に溶けていった。


過去に、自分は選ばなかった。

それを悔いたことはなかったはずなのに、今になって、胸の奥に鈍い痛みが残っているのを感じる。


通信機が、一度だけ光った。だが、それ以上の通知は来ない。

蒼風からの連絡は、もうしばらくはないのだろう。


風が、髪を少し乱す。

それでも、出雲は顔を動かさなかった。


やがて、ゆっくりと踵を返す。


出雲は、踵を返したその歩みの中で、ポケットにしまわれたセキュリティケースをそっと握りしめた。

去り際、誰にも聞こえないような声で、彼は呟いた。


「……君たちは、ほんとに厄介だな」


***


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